和田義盛は久安3年(1147年)生まれ、三浦義村は仁安3年(1168年)歳の差19歳あるけど三浦一族で従兄弟の二人。
義村の父・三浦義澄は13人のメンバー、和田義盛もメンバーで侍所別当の役職。
北条義時は長寛元年(1168年)生、13人のメンバーで、父・時政亡き後執権の役職で警察(侍所)の実権が欲しかったんじゃなかったか。
北条氏は、源頼朝の死後ライバルというべき有力御家人にイチャモンつけて、梶原景時、比企能員、畠山重忠らを次々と滅ぼしていった。
ついには北条氏の内部にも権力闘争が起こって北条義時は父・北条時政を鎌倉から追放してしまう。
そして北条氏の当主に執権の座についた義時。
執権の座に座った義時は父・時政と同じようなやり方で有力御家人を滅ぼしていくことになって行く。
義時が北条家を継承してから最初に潰した有力御家人は和田義盛という武将でした。
和田義盛とは、鎌倉幕府の侍所の長官として御家人を統括してきた武将です。
鎌倉殿の13人のメンバーでもありました。
和田義盛自身もこれまで邪魔になる御家人を葬ってきましたが、そんな義盛がついに打倒される側に来るんです。
それが1213年5月に起こった和田合戦です。
和田合戦はどうして起きたか
和田義盛は久安3年(1147年)生まれ、平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した武将・御家人。初代侍所別当で十三人の合議制に選ばれた関東武士です。
それがなんで北条義時と戦う羽目になったか?
和田氏は坂東八平氏の一つ三浦氏の支族で、いまNHKの放映中の三浦義村とは従兄弟同士です。
▲和田義盛
相模国三浦郡和田の里、あるいは安房国和田御厨に所領ががあったことから和田を姓とした。
きっかけとなったのは、建暦3年(1213年)和田義盛は上総伊北荘に下っている最中に、事は進行してました。
2月15日に泉親衛の郎党青栗七郎の弟で阿静坊安念という僧を使って仲間を集めるために千葉成胤を訪ねさせ、先の2代将軍・源頼家の遺児・千寿丸を擁して挙兵し執権・北条義時打倒への協力を求めに来たたことが発端です。
千葉成胤は下幕幕府の御家人なので、安念坊を捕縛し義時の元へ連行して行った。
安念坊を脅し脅迫して、安念坊の自白により泉親衛に与同した武士は張本130人余、伴類200人にのぼったことがわかり、そのうち和田義盛の子である義直、義重、甥の胤長、上総広常の甥・臼井十郎、八田知家の子・八田八郎ら十数人が捕縛されていった。
急を聞いて駆けつけた義盛が一族の赦免を嘆願し、息子・義直、義重は許されたが、甥の胤長は事件の張本にであるとして許されず、助名嘆願に訪れた和田一族90人が控える将軍御所の南庭で胤長は縄で縛られて引き立てられ、和田一族に大きな恥辱を与えた。
泉親衛は鎌倉の違橋(たがえばし)に潜伏し、捕縛の使者、工藤十郎と合戦に及んだが、その混乱に乗じて逐電し行方不明となった(『吾妻鏡』建暦3年3月2日条)。
胤長は、3月17日に陸奥国岩瀬郡へ配流され、屋敷は没収されることに決まった。
これで終われば和田合戦は起きなかった。
義時と義盛の考え方の相違
義盛は「なぜ、「甥の胤長だけが!」と義盛の怒りと疑念は深まったと思われます。
和田義盛の神経を逆なでするような事件がさらに起こります。
それは甥・胤長が持っていた屋敷を義盛が欲しいと願い出て将軍・実朝の判断によって許可された。
が、その後、義時は乱を平定にあたった御家人のたちの手柄として胤長の屋敷を下げ渡してしまった。
将軍の許しを得ていたのに、これに怒った義盛は、この義時の挑発に対して、義盛は横山党や反北条派を誘い挙兵を決意する。
鎌倉では流行飛語が飛び、騒然とした。
4月27日、憂慮した将軍・実朝は使者を義盛の邸へ送った。
「本当に謀反心を抱いているのか?」と確認するため派遣されるほど事態は緊迫していた。
義盛は謀反を否定しますが屋敷の中には武者が並んで不穏な空気はあったといいます。
夜に再度、使者がやって来た時に義盛は「将軍様へは何の恨みもありません」「北条義時のやり方が傍若無人」なので詳しい理由を問いただすために、武装して行こうと若者らが話し合っているようです。
この義盛が何度も彼らを諌めているんですが、相手にされません。
すでに皆、思いを一つにしている。
こうなってしまった以上私の力の及ぶところではないかも知れません」と使者に回答したと言われてます。
ついに5月2日に和田合戦が勃発
義盛が挙兵に際して最も頼りにしてたのが、本家に当たる三浦氏の当主・三浦義村であったので、挙兵への同心を約束し、起請文まで書いてもらった。
だが、義村は弟の胤義と相談して、義盛謀反を義時に垂れ込む始末。
「和田義盛、挙兵」の報せを得ると、北条義時はびっくりする様子もなく、すぐに御所の向かって実朝夫人や姉・北条政子を鶴岡八幡宮に避難させ、将軍・実朝を敵に奪われるのを防ぐため義時は御所に向かった。
義盛5月2日、一族と共に挙兵。
鎌倉で激しい市街戦が展開され、武勇で知られる和田一族は奮戦し、なかでも3男の朝比奈義秀はめざましく活躍した。
だが、義時方には新手が次々に到着し、夜までに和田一族も疲れ、由比ヶ浜へ後退して援軍を待って、翌3日の朝、援軍の横山党が到着他の味方も来て、再び勢いを盛り返していった。
和田方が意外な大軍になりつつあるのを恐れた義時と大江広元は将軍・実朝の名で御教書を発すると多くの御家人が応じ、実朝の命を受けた幕府軍は大軍となって押し返していった。
夕刻までについに和田一族は次々と討たれ、そのうち義盛の愛息・義直も討死し、老いた強者の義盛は大声をあげて悲嘆号泣した。
そこへ江戸義範の郎党が義盛に襲いかかり、ついに討ち取られてしまった、享年67歳の最後でした。
▲和田義盛一族の墓とったわる和田塚
髭のがむしゃらの人のいい武将も身内・三浦義村の裏切りによって敗れてしまった。
その上子の義重、義信、秀盛は討死するが、常盛、朝比奈義秀、孫の朝盛らは戦場を抜け出し落ち延びた。
合戦の後、義盛らの所領は没収して御家人に分け与えられ、和田義盛が就いていた侍所長官の職は、北条義時が得ることになります。
政所長官・侍所長官の就任で義時は幕府の二大要職を得ることになっていった。
それは和田義盛を滅ぼしたから出来たこと、それを狙って仕掛けたとも考えられる。
ここに北条義時が和田義盛を挑発して滅ぼした真の要因を見ることができるでしょう。
まとめ
鎌倉は源頼朝が死んでからは、マフィアのような権力闘争で明け暮れた時代になった。
そんな中、頼朝の重臣・加藤景廉は、そんな渦に巻き込まれず2代将軍・頼家、3代将軍・実朝に仕え承久3年8月3日(1221年8月21日)まで生き抜いたと思う。
加藤景廉とは恵那市岩村町に城を築く元を頼朝よりもらった御家人で、嫡男・遠山景朝が岩村城を築き恵那郡一帯の遠山荘を守った。
鎌倉幕府の御家人で戦国時代突入時まで約387年続いた、遠山氏時代最後の岩村城主・遠山景任の妻で敵の武田氏の秋山信虎と戦った女城主・おつやの方として知られている。
『愚管抄』では、「義盛左衛門と云う三浦の長者、義時を深く嫉み※1て討たんとの志ありけり」と記しており、京都では叔父・三浦義澄の死後の三浦一族の家長は、和田義盛とみていたと思われる。
※1.嫉み(そねみ)とは、自分と他人を比べ、他人の優れた部分を羨み、憎く思うこと。
鎌倉では八幡宮三の鳥居近くの小町通りの側、現在の鎌倉彫椿堂の辺りに邸宅があった。
義盛が戦死した由比ヶ浜には、今でも「和田塚」と云う供養塚と地名が残っています。