美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

明知城

飯高観音の僧が兄が亡くなったため、変身し美濃国明知城の城主になって活躍。

投稿日:2018年5月31日 更新日:

加藤景廉の嫡男遠山景朝が最初に岩村城を築城して、明知城・苗木城を築城して恵那地方に幾多の城を築いて治めてた。

 

   村城は元治元年(1185年)源 頼朝全国守護・地頭を置いたとき、重臣の加藤景廉に功績があったので、遠山荘地頭に補せられた※1

※1補せられたとは→任官補職という言葉があります。補す(ほす)、補(ほ)せられる。
官は位、、官に任(にん)する、はその身分や位、立場に任命することです。

 

 

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      ▲岩村城(六段壁)

 

加藤景廉伊豆、備前、甲斐、木曽、遠江(大井川と浜名湖の間に挟まれた地方)など他にも荘園を賜まった。

 

 

遠山荘の広さは恵那郡から木曽の一部(当時は木曽も恵那郡でした)に及ぶもので加藤景廉は岩村を本拠とした。

 

        
       ▲加藤景廉が座ったとされる岩が祀ってある。加藤景廉が岩に座っている絵。

 

明知城は遠山三郎兵衞景重が宝治元年(1247年)築城し、岩村城築城後の62年後に加藤景廉の孫に当たる。

 

 

苗木城は天文年間(1532年)岩村城主遠山景前の弟遠山直廉によって築かれたとされます。

 

 

       ▲苗木城跡(大矢倉)

 

遠山直廉は、岩村城主・遠山景友の次男で織田信長の妹を正室としています。

 

 

遠山直廉の娘はのちに信長の養女となって武田勝頼に嫁ぎ勝頼の嫡男・信勝を雲泥なす。

 

       ▲苗木城(天守)

 

戦国時代ならではの縁戚となっても、殺し合う事は、天下を狙うものの宿命ですね。

 

 

明知城は、美濃国・明知(現在の恵那市明智町)にある戦国時代の日本の山城(別名白鷹城)美濃国には可児郡明智荘にも明智城(長山城)が存在していたので、混同の注意が必要です。

 

 

※何故か、いまNHKの大河ドラマで令和2年放送の、明智光秀を放映するのにあたって、云々言ってるけど、記者の意見は可児市の方に軍牌をあげます。

恵那市の明知城と可児市の明智城では家紋が違いますのでありえません。

那市の明知城は何もない、光秀の産湯を使った井戸があるけど、セメントで囲ってあります、そんな井戸を誰が信用しますか?

どしても行きたいなら、承知して行ってください。

そんなもんら岩村城でも登った方がよっぽどいいです。

     ↓

    
     ▲明知城跡

 

日本三大山城の岩村城から南西8Km位置する遠山十八城の一つ、標高530m(岩村の城下町内と同じ標高)の山に築かれた天険の地形を巧みに利用した平山城で、土盛砦として保塁数大小23箇所あり、今でも、その様子が原形のまま残っていますが日本でも数少ないとされています。

 

 

面積七町六反:本丸・二之丸・三之丸・出丸・東之丸で構成された山城です。

 

 

重要な砦には石垣を積み上げ、中には陣屋として実践に備えた館が5棟あった。

 

 

恵那郡明智町は、北は岩村・恵那、東は信濃国伊那郡飯田、西は土岐郡、南は三河国賀茂郡足助・額田郡岡崎に街道が通じる、交通の要衞の地である。

 

 

遠山氏祖遠山景朝父親である、加藤景廉が明知を含む遠山荘地頭に任じられ、それ以降、明知遠山累代の土地であった。

 

 

戦国時代の後期には、岩村・阿照・明知・串原・苗木・安木と並んで遠山七頭と呼ばれていた。

 

 

そのうち「岩村遠山家」「苗木遠山家」「明知遠山家」『遠山家』といい、美濃国東濃地方に威を張っていた。

 

 

 

そして美濃国東濃地方は争奪戦の地となり、武田信玄の家臣秋山虎繁(信友)、織田信長の嫡男の織田信忠、豊臣秀吉の武将の森 長可が制圧している。

 

         
         ▲天下取りの途中死んだ武田信玄と              織田信長

 

豊臣秀吉の死後に森 長可の弟の森 忠政が川中島に移封となり、替わって田丸直昌が入ったが、関ヶ原の戦い田丸直昌大阪城城番となり西軍に取り込まれたため、遠山利景※2が嫡男の遠山方景※3と共に奪還。

 

※2:美濃国明知城主遠山景行の三男で、幼少のころに妙法山・萬勝寺の僧であったが、元亀元年(1570年)に兄遠山景玄が死去、元亀3年(1572年)12月28日の上村の戦いで武田軍の秋山虎繁に敗れた、父の遠山景行が自刃してしまい、1574年武田勝頼が長篠の戦いの前に明知城を陥落させた際に、次兄の遠山友治が討死したため、血縁が絶えたことから、僧(飯高観音・山岡町)であった遠山利景を還俗して、美濃国明知城主になった。戦国時代から江戸時代にかけての武将。明知城主で江戸幕府旗本。旗本明知遠山氏の初代。

戦国時代から江戸時代にかけての武将。明知城主。江戸幕府旗本。旗本明知遠山氏の初代城主。

 

※3:一国一城令※4により、遠山利景の子遠山方景(勘右衛門)のとき明知城は廃城となり明智陣屋を本拠地とし、家老を永田氏(串原遠山氏は改姓)、陣屋の代官を村上氏に任せて廃藩置県に到るまで、方景の子孫がこの地を治めた。
江戸時代の江戸町奉行・遠山景元(金四郎)は、この六代目です。

 

※4:一国一城令とは、江戸幕府が出した大名統制の法令。徳川家康が慶長20年(1615年)6月13日諸大名に対し、居城以外のすべての城の破却を命じたもので、西国大名に対し、特に厳重に施行された。
その趣旨は、直後に発布された『武家諸法度』のなかでも強調され、諸大名の軍事力の抑圧をおもな目的としてた。

 

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武田信玄・織田信長・徳川家康・豊臣秀吉が絡む美濃国

元亀元年(1570年)明知遠山氏武田軍秋山勢に歯が立たず織田信長に援軍を求めた。

 

 

信長は時を移さず明智光秀を急派し、秋山勢を美濃領地から駆逐するように命じた。

 

 

両軍美濃と三河の国境にある小田子村対陣(小田子合戦)三日間に渡る激戦の末、秋山軍は敗れ信濃に撤退した。

 

 

天正2年(1574年)2月武田信玄の遺志にて武田勝頼美濃、尾張、三河、遠江、駿河攻略の拠点となる明知城を、1万5千の大軍をもって襲撃してきた。

 

 

明知勢は兵500で防ぎ、信長に急を知らせ、信長明知城を失う重大さを思い、奈良多聞城から子の信忠明知光秀と共に三万の兵にて明知城西八丁の鶴岡山に布陣し、包囲された明知勢と連絡して武田勢を挟撃しようとしたが、場内で飯羽間右衛門による謀反が起こり、援軍として在城する坂井越中守を滅ぼし、搦手水の口曲輪が破られ城郭・城下は火の海となり、城は落ちた。

 

 

戦死者五百をだし、この戦いで遠山十八のうち明知城は十七番目落城した。

 

 

当主一行は遠山利景と共に城を脱出し、妻の実家である足助の鈴木氏を頼った。

 

 

天正3年(1575年)5月織田信長長篠の戦い武田勝頼を破ったのに続いて、嫡男織田信忠を総大将とする織田軍が占領させた。

 

 

諸城を次々と奪回し、明知城・岩村城ともども織田方能代となる。
足助の鈴木氏を頼っていた遠山利景と一行は、明知城に帰還した。

 

 

岩村城の方は秋山信虎と信長の叔母であるおつやの方は岐阜の長良川で磔刑で死去。(2人の刑を行ったとされているページとがあります大将陣と黒印状をそれぞれクリックしてください)

 

 

7年後信長は本能寺にて死去。

 

 

天正11年(1583年)秀吉は、美濃の領主であった信長の三男織田信孝を追い出し自害させた。

 

 

池田恒興が岐阜城主となり、その娘婿で東美濃岩村城を任された森 長可が支配権を行使するなか、圧迫された遠山利景は従兄の小里光明(和田助右衛門)とともに、足助の鈴木氏を頼った。

 

 

遠山利景の妻は鈴木重直の娘、小里光明の姉妹が鈴木重直の嫡男で現当主の鈴木信重の妻という関係である。
鈴木重直は徳川家と親戚関係にあり、家康の大叔母で育ての母松平尚子が鈴木重直の妻となっていたので、家康の配下にあった。

 

 

一行は本能寺の変の際に利景とともに甲斐に在番していた。
本能寺の変の混乱の後、一行を甲斐に残し利景のみ明知城に戻った。

 

 

その帰路、家康の家臣本多重次に会い、徳川に味方することを誓い一行ははそのまま甲斐に残り、その後、松平頼国(依田頼国)に従って信州を転戦した。

 
▲徳川家康                             ▲豊臣秀吉

 

 

天正12年(1584年)4月小牧。長久手の戦いにおいて、遠山勢は菅沼定利の部隊に組み込まれた。

長久手の戦いで岩村城主森 長可が戦死、家康の命で明知城を奪還する。しかし、家康が和睦し、天下人豊臣秀吉に明知城を森 長可の弟森 忠政※5に返すよう命じられ、森 左近が明知城城代となる。

再び足助の鈴木氏を頼った。

※5森 忠政という人物:元亀元年生まれ。1570年〜1634年織豊-江戸時代前期の武将、大名。
森 可成(よしなり)の六男、兄長可(ながよし)の戦死で、美濃金山の遺領をつぐ。

豊臣秀吉の没後は徳川家康についで信濃川中島4郡に13万石与えられ、慶長8年(1603年)美作津山藩主森家初代となる、18万6500石。

 

慶長5年(1600年)9月西軍と東軍の関ヶ原の戦いの際、小山の陣から真田氏とともに田丸氏(岩村城主)は家康から離れ西軍についた。

 

家康は秀忠軍が通ると想定されたことから、利景に東美濃奪還を命じた。
利景の子の方景や小里光明とともに、また妻木城主などと協力して田丸勢を追い出し、明知城を奪取りし東美濃を平定、岩村城も開城させた。

 

慶長8年(1603年)9月東美濃平定の功績により、恵那・土岐郡内で6,700石を与えられ旗本となる。
旗本五千騎のうち、六千石以上の旗本は50指に満たない。
岩村には、大給松平家乗が入城するが、松平家乗(岩村城主)は利景の妻の親戚筋(松平久子の曽孫)となる。

 

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【一言】明智光秀の生誕の城と言われていますが、足利尊氏の御家人の土岐氏の末裔とされ、遠山氏の親戚である可能性は、明治時代の子孫の記録や、両氏の重臣である存在などから考慮はされるものの、生誕地そのものである可能性は低い(江戸時代の初期に著作された書物類から判断すると、可児市長山城である可能性が高いとされる。)

 

 

 

 

 

-明知城

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。