【日本三大山城】岩村城の歴史

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

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岩村城主遠山景任、信長の叔母「おつやの方」を正室に娶り(めとり)ひそかに姫を産む。

投稿日:2018年8月12日 更新日:

まさか?と思われる出来事。美形の姫がいた、その姫は淵に身を投げた。

国時代の女性は殆どが名前は不詳であり「おつやの方」「お直の方」

多く使われていますが、『三河風土記』遠山景任(かげとう)「岩村修

理」と呼んでいた、また、岩村町教育委員会発行の「岩村町誌」には修理夫

人と書かれている。

 

 

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ここでは、おつやの方または女城主と記述をします。
おつやの方は、織田信長の父織田信秀の妹、即ち信長にとっては年下の叔母にあたり、信長に依る政略結婚の犠牲者とも言える。

 

 


▲信長の叔母おつやの方(イメージ)

 

 

岩村城主遠山景任と再婚させられた。
婚期の年代は明らかになっていないが、一説には永禄3年(1560年)と言われています。
これが本当なら、景任24歳の時である。

 

 

遠山景任が岩村城主になったのは、弘治2年(1556年)の20歳の時、これは先代藩主遠山景前が戦死したためによる。

 

 

 

織田信長が岩村城の遠山景任へ再婚させた時代背景とは?

永禄3年(1560年)織田信長が桶狭間において今川義元を滅ぼし、翌年、今川氏から人質になって自立した徳川家康と手を組み、東美濃を窺う(うかがう)ようになった。

 

 

 

ちょうど時期を同じ頃、もう一方の井伊谷の女城主直虎がいた。
永禄5年(1563年)、今川氏の実力者寿桂尼※1が、井伊の当主を継いだ直親謀殺※2する。

 

       ▲井伊家

 

 

残った一族重心は、虎松の除名と引き換えに出兵を強いられ、次々と戦死する。

 

 

次郎直親の幼馴染の小野政次は今川につき、井伊の裏切り者とみなされる。

 

 

永禄8年(1565年)今川から小野政次井伊谷城主とする命が下る。
これに対抗するために、次郎が虎松の後見として井伊家の城主となり直虎と名乗る

 

※1:戦国時代の女性。駿河国の戦国大名今川氏親の正室。藤原北家、観修寺流の中御門家※3の出自(しゅ            つじ)で、父は権大納言中御門信胤、兄は中御門信秀、妹は山科言綱の正室。子には今川氏輝、今川義            元、瑞渓院など。名は不詳。夫氏親の死後剃髪して瑞光院寿桂尼となり、大方殿と称された。氏親、氏            輝、義元、氏真の四代に渡って今川氏の政務を補佐し「尼御台」と呼ばれた人物。

 

※2:(ぼうさつ)計画的に人を殺す。

 

※3:(なかのみかどけ)は、名家の家格を有する公家。藤原北家勧修寺流、勧修寺庶流、。家紋は竹に雀。江戸時代の家            禄は260石、幕末には200石。明治維新後、伯爵を経て候爵(こうしゃく)公爵とは、公爵の下位、伯爵の上位に            相当する爵位。近代日本では華族の階級としても用いられた。   

 

 

信長は東美濃の有力者遠山景任年下叔母嫁がせ、次に苗木城主遠山勘太郎自分の妹を嫁がせて遠山氏を味方に引き入れた。武田氏に対しても、武田勝頼養女嫁がせたと申し送った。

 

 

この養女は遠山勘太郎に嫁いだ妹が産んだ娘で、信長が手元だ育てていたものである。
こうして遠山・織田・武田三氏の間に融和がなった

 

 

その後、信長美濃斉藤氏を滅ぼして岐阜を本拠とし、ついで足利義昭を奉じて上洛、足利義昭新将軍にした。

 

 

信長が大きく勢力を伸張する頃、遠山氏は土岐郡に侵入して勢力を広げ、

遠山三人衆が中心となって恵那・土岐郡、木曽方面まで支配下においていた。
そして、遠山一族信長と結んで武田氏との対決を余儀なくされて行くのである。

 

 

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岩村城の開場の経緯 出典・武家家伝岩村遠山

正元年(1573年)武田の家臣秋山信友が岩村城に攻めて来た、城主の遠山景任は死去していたが、未亡人おつやの方は、養嗣子と迎えていた信長の子御坊丸(後の織田勝長)を城主として、織田軍の援軍が来るまで徹底的に抗戦すること皆に伝えていた。

 

 

城兵も御坊丸を守り立てつつ防戦につとめ、武田軍を寄せつけなかった。
ところが岩村城将の織田掃部秋山信友との戦をかわすため、おつやの方と秋山信友を結びつけ御坊丸の養育を条件に和議を申し入れた。

 

 

これに対しておつやの方は猛反対したというが、城内も次第に窮乏(きゅ

うぼう)状態となり、病死。

餓死する者も出て来た、この状態を見たおつやの方は秋山信友の降服勧告に

従い開城した

 

 

これを聞いた信長は大いに怒ったが、武田勢の勢いは強く、岩村城には秋山信友が入り武田氏の最前線を担う事になった。

 

 

間もなく武田信玄が死去したことで武田軍は甲斐に返し、信玄のあとを勝頼が継いだ。

 

信長武田軍撤退したことを確認、信忠20,000の兵率いて岩村城を攻

めたが勝敗はつかなかった

 

 

天正3年(1575年)長篠の戦いで勝頼が敗走すると岩村城は孤立化し、織田軍が攻めて来た。

 


▲歴史掘りおこし読本 第二巻より流用

 

 

秋山信友籠城して半年に渡って抵抗を続けたが、織田信忠の総攻撃によって攻め落とされた。

その時、おつやの方は景任との間の姫を木曽駒ヶ根村に密かに逃した

 

 

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『西筑摩郡誌』に「一女を生む」と書いてあり

ここに岩村町の西尾精二さんが、足を棒にして調べ上げた記事があります。
質問のある方は岩村町の西尾精二さん(090 2610 2354)の所で聞いてください。
歴史掘り起こし読本 第二巻 いわむらという雑誌を発刊されておられます。


▲岩村在住の歴史探究の西尾精二さん

 

いままで遠山景任夫妻には子がなかったとされています。

しかし西筑摩郡誌「一女を生む」とあり、その少女の悲しい運命の伝説があります。

 

 

伝説の舞台は旧木曽駒ヶ根村は、平成7年に現・上松町と知って上松町教育委員会行って、「岩村の女城主に娘あり」の伝説を加筆して頂くようお願いして来ました。

 

 

平成12年発行「上松町誌」第二卷民族編には、約束通り「岩村の女城主に娘あり」の掲載いただきました。裏付けを取るため同町の町誌編集室を尋ねました。

 

 

木曽郡の前身である西筑摩郡誌には二つの姫伝説が載っており、その一つは天正12年木曽の領主木曽義昌が謀殺され、その妻が少女を連れて木曽谷へ隠れんとし、諸原某が追い及び少女は淵に投じて死す。

 

 

里人はそこを姫ヶ淵といい、のちに怪異あり祠を建て祀る」とある。

 

 

もう一つの伝説は「岩村城主遠山景任、信長の叔母を娶り一女を生む」。信長の五男御坊丸を養嗣子に迎えも、景任没したためおつやの方が岩村城主となる。

 

 

天正元年武田氏の将秋山信友が寡婦(かふ)※4と婚し御坊丸を甲斐に送り信長質子※5を献ずと称し信長聞きて大いに怒る。

※4:寡婦とは→配偶者と死別または離別し、再婚していない独裁のこと。
※5:質子とは→王子として保持する送信人質に隣接する状態で交換するための信頼

 

 

天正3年武田勝頼軍を「長篠の合戦」にて敗る。これにより大兵をもって岩村城を囲み落とす。

 

 

天正3年(1575年)岩村城は落ち、1,000人の兵を皆殺し城主等を磔(たく・はりつけ)した。

 

 

叔母の侍臣※6等が遠山氏の少女を拉して、遁れ※7木曽に来て、小川村(現・上松町)に隠れる。

 

 

倉本、立町、萩原、東野の口碑によれば、「少女は美濃路より木曽川を渡り諸原小野ヶ谷を経て小川村に入ったと説き、追手から逃れられず、諸原、高倉に至る間、年々伝染病流行す故に祠を建てたと説く」とあることを確認しました。

 


▲後日取材に行って来ます。

※6:じしん:君主の側に仕える家来
※7:のがれ:危険や不都合な状態などから逃げる・追っ手から◯◯れる

 

 

更に三つ目の伝説で姫宮神社となった経過は、町として八白年前の源平戦いに敗れた皇子「高倉宮以人王」※8の姫君が父を慕って京都から遁れてこの地に若い生命を絶ったとの伝説が色濃くなりました。

※8:(たかくらのみやもちひとおう)とは→1151年=1180年後白河天皇の第3皇子。治承4年(1180               年)源 頼政と謀り(たばかり)、諸国の源氏に平家追打の令旨(りょうじ)を下したが露見。頼政とと             もに兵を挙げたが戦死。三条宮、高倉宮とも呼んだ。

 

 

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上松町は尾張藩のことから旧尾張藩の公費、また旧御料局からの祭祀料によって高倉諸原地区が合同で例祭を執行して現在に至ったとの事です。

 

 

 

 

 

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