岩村町の秋祭りは加藤景廉と息子遠山景朝の対面絵巻。
当時の衣装で城下町を二日間かけて繰り広げる。
八幡神社と武並神社のお祭り、この『岩村町の秋まつり』は、毎年
10月の第1土曜と日曜(2019年は10月6・7日)に五穀豊穣・家内安全・平和を願っての村祭りでです。
▲五穀豊穣・家内安全(イメージ)
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岩村城を築城した加藤景廉の嫡男・加藤(遠山)景朝が祀ってある武並神社から、遠山景朝の御神体を神輿に乗せて、土曜の朝(今年は令和の時代)時代衣装を身にまとった総人数が約300人の長さに及ぶ行列を整え武並神社を出発。
▲町の通りを行列(イメージ)
岩村本通り1.7Kmを標高約約500mから標高約520mの緩やかな上り坂を練り歩き、途中重要伝統的建造物群保存地区を通って、途中旧木村邸で休憩をとって、景朝公の乗った神輿を加藤景廉が祀られている八幡神社に向かいます。
遠山景朝は親・加藤景廉のもとに1年に1回の親子対面をしに向かう。
一夜を過ごし何を語っているのか?
逢瀬を楽しんでいることでしょう。
翌日、別れを告げ武並神社に帰還します。
岩村町は本来鎌倉時代に加藤景廉が、ときの将軍源頼朝より遠山荘
を拝領した由緒ある東美濃国恵那郡、「平成の合併」で恵那市と合併してしまった。
これが大間違いで、今からでも解約出来ないものかと思っている一人です。
何故かというと、こんな古い歴史ある城はあまりない、江戸城しかり名古屋城しかり、城跡は数々あるが、みな新しい。
そんな自慢する城跡を手入れする訳でもなし、石垣も手入れする訳もな
し、八幡神社には加藤景廉が祀ってあるのに手入れもしてない、宮司も置いてない、武並神社もしかり恵那市長は何をやってる。
前向きに今の資料館の場所に藩主邸を河村市長のように再建するぐらいの
歴史観がほしい。
行列の役割・内容、親子対面。
嘉永五年(1852年)の「武並神社祭礼規定」にある次第と基本的に現在も変化していません。
また、御神馬に使用している飾馬具は、天保の頃※のものが使われています。
今はハリボテの馬ですが、昔は本物の馬を使っていました(情けない)。
※天保の頃とは、「天保の改革」があった時第11代将軍徳川家斉が隠居して第12代将軍徳川家慶の老中水野忠邦が鳥居耀蔵を使ってやった改革、それに立ち向かった遠山景元(いわゆる庶民に人気の金さん)のお出ましの時代です。
これだけの歴史がある祭りですから、そこら辺の事考えた方が良いと思うのは記者だけでしょうか?
加藤景廉の嫡男。遠山景朝が祀ってある「武並神社」
2代岩村城主遠山景朝が配神※1(さいじん)とされている。
神社調べでは延元元年(1336年)鎮座とあるが明確ではなく、遠山氏の氏神とし、同神社を奉じて遠山氏が領内各地に散在※2しており、鎌倉末期か室町初期には存在していたことが伺える。
▲武並神社
寛永八年(1631年)岩村城主松平乗寿※3が武並山頂に社殿を造営し、城下町を中心として東に八幡神社、西に武並神社を配し、初めて城下町の氏神として参拝者の繁昌を見るようになった。
▲鳥居をくぐると本殿まで行く途中 ▲本殿にのぼる階段
社殿は大正四年(1915年)9月に武並山頂より現在地へ遷宮しました。
武並神社の祭礼は、毎年10月第一土曜・日曜に行われます。
▲八幡神社に向かう行列
行事は遠山景朝が八幡神社に訪問するもので、平安調装束に身を固めた氏子300人が神輿を奉じて武並神社を出発、途中城下町にある旧家の木村家で御小休(おんこやす)身の後八幡神社に参入し、引き続き神事を行う。(これは岐阜県重要無形民俗文化財に指定されている)
※1:配神とは、祭神。ある神社について、そこに祀られている神を指す言葉です。
※2:あちこちに散らばってあること。点在。「湖畔に散在する別荘」
※3:松平乗寿とは、(まつだいらのりなが)は、江戸時代前期の大名で、美濃国岩村藩第2代藩主、次に遠江国浜松藩主、次に上野国上林藩初代藩主。大給松平家宗家七代、初代岩村藩城主松平家乗の長男、慶長19年(1614年)父の死により家督を継ぐ。同年冬から大坂の陣に出陣して戦功を挙げた。
寛永15年(1638年)美濃国岩村藩2万石から遠州浜松3万6000石へ加増移封された。寛永19年(1638年)には、第4代将軍徳川家綱つきの老中に任じられ、天保元年(1644年)2月28日には上野館林6万石に加増移封となった。徳川家綱が正式に4代将軍遅なると、正式に老中の一人として政務を取り仕切った。承応3年(1654年)55歳で死去。
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加藤景廉が祀られている八幡神社へ。
文治元年(1185年)守護地頭の制度の発足のより遠山庄地頭となった加藤景廉を祀る。
▲現在の八幡神社
▲鳥居をくぐると階段がある ▲本殿
創立は加藤景廉が卒※4(しゅっ)した。
※4:卒したとは、身分の高い人が死去する。
藩政時代は、城山北部の八幡曲輪の地であった。
本殿の建造や修理の棟礼、城主献上の絵馬が多数現存している。
▲城内にあった八幡神社跡 ▲城主献上の絵馬 ▲神殿の屋根
承久の乱が起きた年の、承久三年(1221年)と言われる年に死去といわれ、城内鎮守の神として歴代城主や渦中の崇敬※5(すうけい)が篤(あつ)かった。※5:崇敬とは、あがめうやまうこと。尊祟。「生き仏として崇敬する」「崇敬の念」
※上記承久の乱は承久の乱を興味ある人は「岩村夏まつり」に関係してるからクリックしてください。
藩政時代は、城山北部の八幡曲輪の地であった。
本殿の建造や修理の棟礼現存、城主献上の絵馬が多数現存している。
本社の傍に宮寺があり、中世の頃から神宮寺、薬師寺の名が見られ、神宮と法師が奉仕した。
明治維新による廃城のため現在地に遷宮した。
このまま放置していると必ず罰が当たります。
今現在(令和元年5月2日)恵那市の市長が予算を付けないので荒れている、罰が当たります。
岩村秋まつり・伝統の獅子芝居
岐阜県重要無形民俗文化財のこの獅子舞の踊りは、枡形地形の庚申堂の前で、幾重にも観客の人垣ができ、時折歓喜が湧き上がるなど、大変な盛り上がりをみせていました。
▲おかめひょっとこ
江戸時代末には、行われていた民俗芸能で、武士や町人でない岩村城下町の農村部の「入り四郷」と呼ばれる4つの集落の人々によって保存伝承せれてきた。
大神楽(だいかぐら)系の獅子舞で、雌獅子頭をかぶった男性が女装して舞う優雅なもので、男性が女性らしいしぐさをいかに表現するかというところが見せ場である。
岩村町秋まつり行事の初日の夜に、旧岩村城下の街路5ヵ所(領家新町境、新町西町境、西町・本町五境、本町五・四丁目境、本町三・二丁目境)の路上で上演される。
▲ひょっとこと赤子を抱く獅子
道中では、子供たちが噺子屋台を曳きながら囃子を奏でつつ移動する。
予定された場所に着くと、観衆が回りを取り囲む中で「悪魔払い」「おかめひょっとこ」「いざり勝五郎」「お染久松」「葛の葉」「八百屋お七」などの演目が上演されます。
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