美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

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岩村町の夏祭りは熱い「承久の乱」の藤原信能を祀ってある若宮神社

投稿日:2018年3月14日 更新日:

巌邑神社(若宮神社)に後鳥羽上皇の忠臣・一条宰相中将藤原信能卿が承久の乱で敗れて捕らえられ岩村城主・遠山景朝に斬首され合原に亡骸が祀ってある。

 

 

これは、後鳥羽上皇鎌倉幕府三代続いた将軍が倒れたとき、政権を朝廷に取り戻そうと号令をかけた戦である。

 

 

通称地元の人は「若宮さん」と呼ばれ、夏祭りの中心的神社で盛大に行われます。

 

 

哀れ若き公家が祀ってある巌邑神社へ行くには?

本町五丁目の水半漬物屋さんの升形地形から南へ行って柳町のはずれ、石畑との境にあります。
毎年8月の第一土日に行われます。

 

   ▲通称柳町を南に行ったとことです。正式には巌邨神社と言います。

 

 

  
      ▲かめやの店内                              ▲いわむら一番のカステラ

 

夏祭り(宵祭り)で、升形地形を中心に露天商が出たりして、町内一大イベントで大盛り上がりで、土曜日には宵祭りで、各町内の仮装行列を競ったり、各町内で「だし」を作って店に飾って賞を貰ったり、若宮さんまで行く道に行灯を飾ったりします。

 

では、なぜ「若宮さん」というのでしょうか?

 

      令和3年3月20日現在、上記のひな祭りはやっています。

 

 

承久三年(1221年)、京都の後鳥羽上皇公家(貴族)が、鎌倉幕府を中心にした武士の政治を、自分達の手に取り戻そうと企てた。

 

 

ちょうどその年から2年前に、源 実朝暗殺(建保七年、1219年)されて、源 頼朝以来三代続いた源氏血筋絶えて「北条政子」が幕府の政治を行っていました。

 

 

北条氏源氏の敵、平家の血筋ですし、武士の中には執権※4北条氏に対する不満もかなり出ていました。

 

 

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だから貴族たちは、鎌倉幕府を倒すのは今がチャンスだと思ったのです。

 

 

後鳥羽上皇の名前で、全国の主な武士の頭へ当てて、「鎌倉幕府を討て」という手紙が出されました。
手紙をもらった武士たちは動かされました。

 

 

鎌倉でも天皇方へ行こうとする武士も大勢いました、その時武士たちを集めて「北条政子」が言いました。

 

 

「お前達はつい最近まで、裸足で、ボロを着て、貴族の下男として、犬のような生活をしていた者を、それを今のようにしたのは私の夫、頼朝様ではないか。
その恩を忘れ、貴族の下男になりたい奴は、今すぐ、私を殺し、頼朝様の墓を蹴散らして、京とへ行くが良い」

 

 

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その言葉で、武士達団結し、十万の大軍で京都へ攻め上がりました。
上皇方はひとたまりのなく敗れ、後鳥羽、土御門、順徳三上皇は島流しになり、多くの貴族の領地は没収されました。

 

 

この事件を「承久の乱」と呼んでいます。

上記の承久の乱をクリックしてもらうと、もっと詳しく書いてあります。

 

 

この事件を起こした戦争責任者として、忠臣の一人、一条宰相中将藤原信能卿【※卿とは:政治を司る大臣。宰相。三位(さんみ)以上の人。「卿相(けいしょう)・上卿(しょうけい)・月卿(げっけい)・公卿(くぎょう)(こうけい)・大蔵卿(おおくらきょう)」一条信能(のぶよし)は、後鳥羽上皇の宣旨(せんじ)によって、宇治川芋洗方面の防御の将として出陣した。

 

 

 

しかし、幕府軍と戦い敗れ捕らえられた。
一条信能遠山景朝に預けられたものの、この地相原で幕府の命のより処刑された。

※1 宣旨=奈良時代・平安時代、天皇の意向を下逹すること。また、朝廷の命令を下に伝えること。

 

 

一条信能は、幕府軍として出陣した岩村城主「遠山景朝」に伴われて、鎌倉へ護送される途中、幕命によって、遠山荘岩村の相原で処刑された。
享年32歳であったという。

 

   
▲一条信能は、途中美濃国岩村の相原で、幕府の命により処刑された。

 

 

村人はこれを哀れみ、処刑地に小祠※2(しょうし)を建てて霊を弔い、若宮社と称して供養を続けてきた。

※2 小祠とは、小さな社、ほこらという意味です。

 

 

その後、明治13年(1880年)6月28日、明治天皇が中山道御巡幸の折、岩村へ勅使を派遣され祭祀料を賜った

 

明治天皇が、ここ中山道大井宿の行在所(当時は伊藤家)にお泊りになり、現在でも当時のままのお部屋、風呂場、便所が残っています。このように現存している所は数少ないです。

 

 

ここは中山道、江戸から数えて46番目の宿場町「大井宿」です。

 

格式高い本陣や、格式のある庄屋宅、うだつと黒壁の美しい町並みに明治天皇が、この家に宿泊された時に、岩村で処刑された、一条宰相中将藤原信能卿(一条信能)に勅使を派遣され祭祀料を送られました。

 

 

         ▲明治天皇が茄子川小休所した藤原家

 

 

藤原家とは、加賀前田家の重臣藤原一考の子歌右衛門が、17世紀の初めの頃当地に移り住んで、藤原家の当主は代々「長八郎」と名乗り、茄子川の村方役人、尾張領の庄屋、戸長等を歴代にわたり努めてきた。

 

 

ここから中津川宿へは1里23町(約6.4Km)大井宿までは1里(約4K)の距離があり、家の脇には中山道から遠州秋葉道への分岐点を示す大燈籠が置かれています。

 

 

藤原家は中山道通行時の休泊施設として本陣や脇本陣と同様な役割をにない、様々な文人、墨客※3の足跡も残されています。
※3墨客(ぼっきゃく)とは:書画をよくする人。

 

 

和宮、明治天皇が御小休した建物が現存し、休憩した部屋、厠、表門等は当時のままに保存されています。

 

 

明治14年(1881年)3月に社号改称の沙汰があって、岩村神社と称することとなった
さらに、昭和3年(1923年)11月に、正三位増位の恩命※5があった。

※5 恩命とは、情けあるご命令。恵み深いお言葉。という意味です。     

 

 

※4 (しっけん=執権職は北条氏が独占し、世襲した。)
当初から大きな勢力を持っていたが、三代将軍源 実朝暗殺後はほとんど幕府の実権を掌握し、政務を執った。

 

しかしながら将軍職は公家や皇族を京から迎える形で名目的存在としてあり、北条氏は形式的服従を貫いていた。

 

北条氏の嫡流は「得宗家」と称され、得宗家の当主または、その後継者が幼少の時には、北条氏の庶民から執権が任じられた。

 

元弘の乱の最終段階(鎌倉の戦い・東勝寺合戦)に置いて、13代基時・14代高時(得宗家)・15代貞顕・16代守時の4名の執権(及び経験者)が鎌倉幕府とともに滅ぼされることになった。)北条氏に対する不満もかなり出ていました。

 

 

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