美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

一条信能 遠山景朝

承久の乱で頭角を現した美濃国・岩村城主・遠山景朝と朝敵・一条宰相信能

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   遠山景朝は父・加藤景廉の働きで頼朝公より岐阜県恵那郡の遠山荘の地頭を賜ったが、自身は頼朝の意向によって鎌倉に留まって頼朝を助けた。

▲頼朝が加藤景廉に長刀を渡して、この刀で山木兼隆の首を取ってこいと言って渡した。

 

 

NHKの「鎌倉殿の13人」には景廉は一度も出て来ないけど、頼朝が旗揚げした時伊豆の国司・山木兼隆の首を取ったのは加藤景廉です。

▲加藤景廉が山木兼隆の首を取った錦絵、今で言うと記念写真です。

 

 

どうして、大事な場面を、NHKは放送しなかったか不思議でならない。

※上記の加藤景廉をクリックしてもらうと詳しい記事があります。興味ある方は読んでください。

 

 

まあ〜、それはそれにしといて、加藤景廉の跡を継いだのは、嫡男・加藤景朝(遠山)です。

 

 

初めは、加藤太郎と称し、次いで遠山左衛門尉景朝と称した。
話が横道にそれますが、遠山左衛門尉でよく似た名前でピ〜ト来ないですかネ〜、それは北町奉行の金さんです。

 

 

お白洲の場面になると、遠山左衛門尉景元様おな〜りと言いますよね。
そうです、遠山景朝の子孫(養子)です。実在の人物です。

 

 

 

初めて『東鑑』に景朝の名が現れる

『東鑑』とは、『吾妻鏡』の事です。

建仁三年9月の比企能員の乱に、父・景廉と共に出陣して功を樹した時からである。

 

 

建保七年、三代将軍・実朝横死※1の時は上使※2として上洛した。

※1.横死(おうし)とは、事故・殺害など、思いがけない災難で死ぬこと。不慮の死。非業の死。「ーを遂げる」

※2.上使(じょうし)とは、朝廷・主家などの上級者から上意伝達のため派遣される使者。江戸幕府から諸大名などに上意伝達のために派遣した使者のこと、先方の身分に応じて、老中・奏者番・高家・小姓・使い番などが任ぜらレた。

 

 

承久元年7月京都より実朝亡き後の頼経を将軍として迎えた時、景朝は上洛してその下向に供奉した。

遠山の姓を用いているのもこの時からであった。

 

 

これは実朝横死の際、父・景廉が出家引退したので、その後を相続すると共に遠山荘の地頭たるによって荘名以って氏として正式の奉公をしたものと察せられる。

 

 

承久三年6月北条泰時等大軍を率いて西上するや、父・景廉の故を以て鎌倉に留まり、景朝は泰時の命に応じて従軍した。

  ▲美濃国岩村から鎌倉・承久の乱では京都へ出陣した。

 

その戦いは間もなく官軍の敗北となり、同月25日には合戦の張本人は捕らえられて処刑されることなった。

 

 

その、承久の乱の頭目と見られたのが承久殉難五忠臣といわれる人達であった。

 

 

中納言宗行・中納言光親・中納言源有雅・参議中将範茂・参議中将信能である。

 

 

中納言宗行は御殿場に於いて、中納言光親は甲斐駿河国境加古峠に於いて、中納言源有雅は甲州市外小瀬、参議中将範茂は足利峠に於いて7月中にそれぞれ処刑された。

 

 

一条宰相中将信能は遠山左衛門尉景朝に伴われて岩村相原に於いて8月14日に首を刎ねられたのであった。

 

 

 

一条宰相中将信能という公家

一条信能は官軍方の張本公卿の一人であるが、源家との関わりは深く、父・一条信保は一条中納言と称し頼朝の妹・​​坊門姫(一条能保室) であり、異母兄・高能は一条右兵衛督と称してる。

       ▲一条信能の系図

 

 

一条信能は建久元年(1190年)生まれ、承久3年(1221年)7月5日に死亡。

父は信保、母は江口の遊女慈氏、子に忠俊がいる。

 

 

そうした縁故もあって三代将軍・実朝が右大臣となった時も、朝臣として京都から鎌倉に下向して、その拝賀式に参列した。

 

 

しかも、今回の張本人として処刑されたのは悲しい運命であった。信能の処刑については『吾妻鏡』にも『承久記』にも記されているが、『承久記』はその最後の様子を美しく叙している。

岩村町相原にその終焉の地として巌邨神社祀ってある

 

 

 

一条信能

一条宰相中将は遠山左衛門景朝相具し奉り美濃国遠山へ下り斬り奉らんとす。

 

 

一条宰相中傷は元来西方に心をかけたる人におはしければ都を出てし日より念仏怠り給わず、青侍の一人御伴を候ひけるが、子賢しく唱名を勧める。

 

 

この文を誦しきかせ奉る。

種々法門皆解脱。
無過念仏往西方。上尽一。形至十念。
三念五念仏来迎。乃至一念無疑心。

 

 

と唱へければ宰相中将心得たる身体にて三度誦し念仏怠り給わず、今際の時に及んで紫雲たなびき異香薫じ、音楽虚空に奏すと聞こえし程に終に斬られ給ひけり。

心なきも心あるも袖しぼらぬはなかりけり。

 

 

 

明治天皇が巡行の際岩村に祭祀料を賜った

明治天皇が明治13年(1880年)6月、中山道御巡幸の折、岩村へ勅使を派遣され祭祀料を賜った、また、明治14年(1881年)3月に社号改称の沙汰があって、岩村(巌邨)神社と称することになった。

 

 

さらに、昭和3年(1928年)11月、正三位増位の恩命があった。

岩村町では以前、8月14日に毎年一条宰相中将信能が祀られている巌邨神社でお祭りが催しされるが、今は8月の第一土日に変更されている。

     ▲巌邨神社の正面

       ▲本殿

 

 

でも町民は,毎年の夏祭りは何のお祭りか把握してる人は少ない、これは恵那市の公告の怠慢だと思います。

 

 

 

承久の乱と一条宰相信能

『承久記』によると承久の乱に当たり一条信能は二位の法師尊長等と一千余騎にて芋洗いにて扣えたが、幕府軍と戦い遂に敗れ、公卿六人坊門大納言忠信・中門中納言宗行・中納言有雅・按察中納言光親・甲斐宰相中将範茂・一条宰相信能等いずれも六波羅に下され、中門中納言宗行以下五卿はいずれもは各氏に伴われて鎌倉に下る途中処刑された。

 

 

一条信能は遠山景朝に伴われて美濃国遠山に於いて首を刎ねられた。
『承久記』の原文は次の如く記載されている。

 

 

一条宰相中将遠山左衛門景朝に預けられる。

この人の心の中やる方もなく悲しきなり、跡にとどめをかせ給う妻子、袖をつらねし月郷雲客にも遠ざかり、あらげなきもものゞふに守護せられ、思いの外なる山野にさまよひ、物悲しき月を眺め給ふを哀れなり。

 

 

-一条信能, 遠山景朝

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