【日本三大山城】美濃国岩村城の歴史と日本史

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

一条信能 岩村城 後鳥羽上皇 承久の乱 未分類 源 頼朝

岩村町の夏祭りは、後鳥羽上皇と北条義時が起こした「承久の乱」の若い公家の悲しい物語。

投稿日:2018年7月20日 更新日:

岩村の夏祭りには、こんな悲しい物語があったことすら、いまの地元の人は無頓着で歴史を知らない、悲しいことです。

 

歴史のある岩村町は最後の城主松平乗命は明治2年(1869年)版籍奉還により岩村藩知事に任じられた。

 

明治4年(1871年)の廃藩置県により、岩村藩は廃藩となり、岩村県を経て岐阜県に編入された。

 

そんな由緒ある町なのに

 

 

 倉時代の承久3年(1221年)後鳥羽上皇鎌倉幕府執権北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた反乱。

 

これが承久の乱または承久合戦とも言われています。
後鳥羽上皇公家(貴族)が敗れ上皇等は島流し、公家等は死罪となった。

 

▲鎌倉武士・イメージ

 

 

源 頼朝は河内源氏の源 義朝の三男として生まれ、父義朝が平治の乱敗れると伊豆の国へ流される

 

 

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伊豆以仁王※1の令旨※2(りょうじ)を受け取ると、北条時政、その息子北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。

※1:以仁王(もちひとおう)仁平元年(1151年)・平安時代末期の皇族。後白河天皇の第三皇子。

※2:令旨とは、律令制のもとで出された、皇太子・三后(太皇太后・皇太后・皇后)の命   令を伝えるために出した文章。

 

 

源 頼朝が武士による政権・鎌倉幕府を打ち立てた時代。

 


▲伊豆山神社は、源頼朝が源氏の再興を祈願し、北条政子との愛をはぐくんだ所。

 

◀︎ 頼朝と北条政子

 

将軍を補佐し執権※3するという地位を代々受け継ぎNo.2として鎌倉幕府を支えた北条一族

※3:執権は、鎌倉幕府の職名。鎌倉殿を助け政務を統轄した。
   元来は正所の別当の中心となるものの呼称であった。
   だだし、朝廷においても用いられた用語であり、鎌倉幕府独自の職名ではないことに注意を要する。

 

 

北条一族は鎌倉幕府初代将軍「源 頼朝』の妻北条政子を世に出したことで、鎌倉幕府ナンバー2となった。
一族はその地位を守るために血みどろの権力闘争を生き抜いていきました。

 

 

鎌倉幕府の初代執権北条時政(政子の父)は、次々と陰謀を企ててライバルを粛清ついに孫の命も奪い取ります。

 

 

頼朝は弟たちを代官として源 義仲平氏を倒し、戦功のあった末弟・源 義経追放の後、諸国に守護地頭を配して力を強め、奥州合戦奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。

 

 

重臣で活躍してた加藤景廉も、鎌倉幕府を献身努力し、頼朝から遠州浅羽、美濃国遠山(恵那市とその周辺)伊豆 牧之郷等所領を与えられ、岐阜県美濃国遠山地方の要衝(ようしょう→軍事・交通・産業のうえで大切な地点。)岩村(岐阜県恵那市岩村町)に城を築き岩村城は嫡男加藤景朝に、地盤を固め将軍に使えました。

 

 

                                                      ▲加藤景廉

 

建久3年(1192)頼朝は初代征夷大将軍になった。
これより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府と呼ばれた。

 


ちょうど、その年から2年前に、源 実朝(鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍)暗殺された。

 

 

源 実朝とは源 頼朝の嫡出(婚姻関係にある夫婦から生まれる)の次男として生まれ、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍就いた

 

 

政治は始め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれて関与を深めた。

 

 

官位昇進も早く武士として初めて右大臣に任じられるが、その翌年に鶴岡八幡宮で兄の源 頼家の子公暁(こうきょう:鎌倉幕府前期の僧侶)は叔父である実朝を父の仇として暗殺した。

 

 

自身も直後に討ち取られ(なお、公暁は実朝の猶子「とは:兄弟・親戚や他人の子と親子関係を結ぶ制度:あたかも実子のようであるという意味」義理の父親を殺害され、これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶した

 

 

 

鎌倉幕府を滅ぼして、もう一度朝廷の世にと後鳥羽上皇が号令を出した。

鎌倉時代の承久3年(1221年)後鳥羽上皇公家(貴族)が北条氏の執権にかなり不満が出ている、今がチャンスとみて全国の武士集団に「鎌倉幕府を打て」といって手紙を送った。

 

 

手紙をもらった武士達は動かされました。

 

 

鎌倉でも天皇方へ行こうとする武士も多数いました、その時北条政子は武士たちの前で演説した。

 

 

「お前達はつい最近まで、素足で、ボロを着て貴族の下男のように、犬のような生活をしていた者を、今のようにしたのは私の夫頼朝様ではないか?

その恩を忘れ、貴族の下男になりたい奴は、いますぐ私を殺し頼朝様の墓を蹴散らして京へ行くが良い」

 

 

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その言葉で、武士集団は団結をして、10万の大軍で京都へ攻め上がりました

 

 

乱の勃発から2ヶ月ほどで、後鳥羽上皇方は事実上降伏せざるを得なくなりました。

 

 

後鳥羽上皇土御門天皇(つちみかどてんのうとは:後鳥羽上皇の第一子)順徳天皇(じゅんとくてんのう:後鳥羽上皇の第三子)。

 

 

後鳥羽上皇は隠岐島へ、順徳天皇は佐渡へ流されました。
間に挟まれる形になった土御門天皇は当初お咎めなしだったものの、「父も弟も処罰されているのに、自分だけ京にいることはできない」と言って自ら流刑を申し出ましす。

 

 

幕府側も「そこまで言うなら」と言うことで、京から近い土佐阿波にしました。

 

 

土御門天皇への対応にはある程度、皇室へのはばかり見える気がしますが、当然のことながら首謀者のお二人は帰郷の許しが出るはずもなく、そのまま生涯を終わりました。

 

 

乱の直前に順徳天皇から位を譲られていた仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)も、わずか三ヶ月で廃位されています。

 

 

公家の中で、この事件を起こした戦争責任者、中心の一人、一条宰相中将藤原信能卿【卿とは:政治を司る大臣。宰相。三位(さんみ)以上の人。「卿相(けいしょう)・上卿(しょうけい)・月卿(げっけい)・公卿(くぎょう)(こうけい)・大蔵卿(おおくらきょう)」】

 

 

 一条信能とは、建久4年(1193)叙爵。

 


▲一条信能イメージ

 

後鳥羽天皇の近臣の一人として仕え、建暦元年(1211)に左近衛中将となり、建保7年(1219)に蔵人頭に任じられて、承久2年(1220)に参議に至る。

 

 

後鳥羽上皇源 実朝暗殺事件後も鎌倉に止まる信能の解官を行うという風説が流れ、信能が北条政子に帰京すべきか否かを相談してる

 

 

だが、帰京後には上皇の側近の地位に復帰し、鎌倉幕府打倒の謀議(ぼうぎ)に参加。

 

 

承久3年(1221)の承久の乱においては京方の軍勢を率いて兄弟の尊長とともに芋洗方面の守備に就く

 

 

敗戦後首謀者の一人として幕府軍の捕虜となり、鎌倉へと護送される途中岩村城主遠山景朝に伴われ相原(現石畑)において処刑された享年32歳

 


▲一条信能よりが京より鎌倉に連行される途中、美濃国岩村で処刑される。

 

承久記では、処刑を悼み、その模様を美文で綴っている。
処刑の日を吾妻鏡では7月15日としているが、公卿補任では8月14日とされ、他の四忠臣との関連から後者の説が正しい。

 

 

岩村城下の村人はこれを哀れみ処刑地小祠を建てて霊を弔い若宮社と称して、ささやかな供養を続けてきた。

 

 

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こんな岩村城下町を駐車場(無料)完備されている2ヶ所の所に置いて岩村町を散策し,また、朝ドラ架空の町になった梟町をゆっくりと見てまわりましょう。

 

 

土曜日には、出(だ)し飾りと行燈奉献(あんどんほうけん)と仮装行列

下記の明治天皇中山道御巡幸※4(じゅんこう)の折、明治13年(1880年)から始まりました。

※4:巡幸とは、天皇が各地をまわること。‥その起源は、明治維新直後に打たれた重要な政策の一つとし               てこれまでほとんどの民衆に知られることのなかった明治天皇の視覚化、言い換えるなら国家権力の可             視化という意図にさかのぼれる。明治初期には巡幸という手段がとられる。巡幸にはいろいろな政治的             目的はあったが、結局は生身の天皇を人眼に晒して権力の強化をはかるためであった。

 

 

戦争中も途切れずに続いて、出(だ)しの作り物は、野菜と野山の自然物のみを材料として各町内で、工夫ををこらし、その時代のトピックス、干支・郷土の偉人等が題材になって表現されます。

 

 

本通り(上町一・二、本町一・二・三・四・五、西町一・二、新町一・
二)の各町内の有志達が「五穀豊穣」を祈願したことが旧岩村町の始まりではないでしょうか。

 

 

 

行燈は「若宮様の霊」を慰めるために、旧岩村町の全町内の皆さんが寄進されたものから順次それ数が増えていき、各町内の競作となって現在のようになったと思います。

 

           ▲このように柳町界隈に各町内の行燈があります。(平成30年8月4日)

 

いずれも現在で130年以上の歴史があり、長きに渡って続けられ来たことは民俗文化ではないでしょうか?

 

 

その後六白数十年を経て明治の王政復古となり、明治13年(1880)6月明治天皇が中山道御巡幸の折、承久の乱にあたって殉じた一条信能の英魂を御追認され、特旨をもって岩村へ勅使を派遣、祭粢料を賜った

 


▲一条信能が祀られている巌邨神社

 

 

昭和3年(1928)11月正三位贈位の恩命があった。
※祭粢料とは:神に捧げる供物。天皇が葬儀に下賜する金員で一般の香典にあたる。

 

 

 

 

 

 

-一条信能, 岩村城, 後鳥羽上皇, 承久の乱, 未分類, 源 頼朝

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