【日本三大山城】岩村城の歴史

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

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あっと驚く!織田信長と武田信玄が要の地域を紛争の場とした遠山荘。

投稿日:2017年11月21日 更新日:

 

   ※鎌倉幕府時代と岩村。 この物語はいわむら町まちづくり実行委員会「いわむら昔ばなし余話」から引用し「旅人隆太郎君」が主観でつくった文です。あらかじめご了承ください。

 

 

 

⬛景廉の霊夢岩

この題名が岩村の始まり。

阿木川ダムを渡り町内にさしかかる前に、山上(町名:下図参照)がある。

 
                  ▲阿木川ダム

 

 
 元恵那郡岩村町山上町長さん宅の裏に腰掛岩、烏帽子岩、屏風岩、と呼ばれる巨石があります。
これは是非見ておいた方がいいです。
岩村城の原点です。

 

烏帽子岩や屏風岩はその形によって名付けられた岩ですが、腰掛岩→またの名を霊夢岩と言う。
霊夢岩には伝説があって「巌邑府誌」によると、次のように書かれています。

 

保元・平治の乱の頃(1150年)の東濃地方は野武士や盗人が奔放(常識や規範にとらわれないで、自分の思うままに振る舞うこと)に振舞っていました。
※平治の乱をクリックして※1を参照してください。

 

山上邑に邑長は、この状態を憂に神廟(神を祭る御霊屋、伊勢神宮の異称)に参籠して邑長は今、私共の邑人は盗賊に苦しんでいます。
願わくは神様の哀れみによって、これらの盗賊を一掃してください。

 

そうすれば邑人も安心することができましょう」と一心に祈りました。
すると、その夜夢に神様が現れ「汝の願いを叶えて強い武士に盗賊をことごとく征伐することを命じよう」と告げました。

 

次の日、邑長はある橋の上で、腰に長い刀を差した一人の武士に出会いました。
背も高く、その風貌は大変強そうであったので、夢で告げられた武士は、この人だと思い、袖を握って「恐れながら、あなた様はそなたでしょうか?」と尋ねると、「拙者は伊勢の生まれで加藤次と申す。

 

我が家は代々武人で、これより関東に赴き託する人を探そうと思っている」と答えました。

 

これを聞くと邑長は神のお告げは嘘ではなかったと喜びました。
昨夜の話を武人に話し、山上邑に案内し、邑人と一緒になって盗賊を征伐したので、邑人は大変喜び、加藤次に東濃の主になってもらうことにしました。

 

その後、源 頼朝が伊豆にて旗揚げの時、加藤次も頼朝下臣として従い、平家の山木館の襲撃で戦功を挙げました。
その恩賞として、加藤次の所望する東濃地方を彼に託し、地頭に任じました。

 

邑人たちはかって加藤次が座った巌を祭り、「加藤次座石(腰掛岩)」というようにな理ました。


▲槍の先に兜をつけて敵を騙して打ち取った。

加藤次は巌上に座った時、東を望み巌邑山(いわむらやま)を本拠と定め、岩村城を築きました。
加藤次とは加藤次景廉のことである。
※山本館の襲撃については→「美濃国岩村城誕生のお話興味ありますか?覗いてみましょう。」の※5を参照してください。

 

 

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平成30年度 前期 連続テレビ小説の舞台。  城下町で初の撮影ロケ敢行、町が活気ついてる。

 

                ※NHKのリーフレットから引用しました。

 

⬛弁慶岩(一つ石観音)

伝説と民話→ 義経の家来として親しまれている弁慶は日本一の力持ちとしても有名です。

 

弁慶が大きな石を両天秤(前と後ろ)で担って大円寺の辺りを通った時、さすがの弁慶も疲れたのか巨石を一つを川に落としってしまったので、片方の大きな石も川畔(かわぐろ)に置き去りにしました。

 

川に落とした石は川を堰き止めて、やがて水晶瀧となったと言います。
そこに残された巨石は弁慶岩と呼ばれるようになりました。

 

 

もう一説は→弁慶が石を運んできて滝のほとりで、一休みをした時、南の方から北側の対岸に小便をしました。

 

それで山肌が荒れて「弁慶の小便なぎ」となって今に残っているほどです。

 

水晶瀧を別名「不動の瀧」と言うように瀧には不動明王が祭ってありますが、弁慶が小便をしていた不動明王が「仏域を汚す不届き者め、石を持ち運ぶことは愛ならん!」と大声で叱りつけたので、さすがの弁慶も運んできた石を置いて逃げ去ったと言います。
それで弁慶岩と呼ばれるようになりました。

 

 

 今は、その弁慶岩に観音さんが刻まれており、一ツ石観音とも言われるようになりました。 (とは→有名な由緒あるお寺や歴史があり、古いお寺を言いますが、それでは何故「刹」の字がお寺の事をさすのでしょうか?)
※あの有名な弁慶が岩村に居たとは驚き。という事は義経も居ただろうか?

 

 

⬛弁慶杉

   岩村の町を257号線に出て、上矢作町の中心、418号線との分岐に出る。
418号線に入ってすぐ谷川沿いに延びる大船神社まで深い山道を行くこと約20分、眼下に家並みが見えてくる。
境内、拝殿はこの上約300m、車も乗り入れOKなので境内まで失礼して車の人は車で、徒歩の人は散策しましょう。

 

大船山(1159m)山頂に近い大船神社の前身は天平年間、奈良東大寺初代別当良弁(68〜773)が開いたとされる古刹「勝岳山大船寺(だいせんじ)」修権系の寺とも言われる。

 


▲堂々と聳え立つ弁慶杉

 

 (明治の神仏分離令により寺としては廃絶、六社権現だけを残して大船神社になったと言われています。)
天平の昔、南都東大寺の良弁大僧正は、普く仏法を広めんと諸国巡礼の途次に、大船山の登山をし、山の神のために法華経を読誦※1し一字を設立した。  

 

これを覚林坊という。
伝聖徳太子の御作、救世観音を安置し、寺を大仙寺と号した。

 

 

   弁慶杉は、良弁の弟子の弁慶が植えたという一説の他に、文治のころ、源 義経主従が奥州下向の時、大船山に登山し、本尊に祈願した。
その時弁慶は一文の願書を納め杉の小枝を折って「この祈願むなしからずんば、この枝生い栄えよ」と地にさした。

 

   この枝が繁茂して今の弁慶杉となったという説がのある。
※1「読」は見てよむこと、「誦」はそらで唱えること、声を出して経文 (きょうもん) を読むこと。

 

 

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鴨長明と木像

本当にいたんだろうか?

「方丈記」の作者、平安時代の末頃に加茂御祖神社の禰宜長継の次男。
従五位下に叙せられ、南太夫または菊太夫と呼ばれた。
琵琶を中原有安に、和歌を俊恵に学ぶ。

 

後鳥羽天皇の和歌所設置に伴い、寄人に選ばれ、多くの歌会、歌合に参加。
上皇の恩顧により、河合(ただす)神社の禰宜に任じられようとしたが、同族鴨祐兼の反対により実現できず。

 

 

これを機に50歳で出家、法名を蓮胤(れんいん)と号し、日野の外山に隠棲した。
歌論書「無名抄」随筆「方丈記」説話集「発心集」はこの出家後の著作である。

 

他に若い頃の歌集「鴨長明家集」(1181年)がある。 方丈記を著した鴨長明は全国各地を巡り、長に明の最後の地が遠山荘の岩村であったという言い伝えがが残っています。

 

 

   長明は自分の自分の気に入った地に簡単な庵を作り、そこに僧侶としてしたと言います。
領家の河合さん宅、岩村駅の前に食堂「かわい」があります、その一角に塚があり、辞世の歌があります。
                 

  思いきや都を遠く立ちいでて
                       

          遠山野辺に露消えむとは
 

と歌っていす。

 

 


▲鴨長明の塚

 

遠山野辺とは鎌倉時代の遠山荘のことで、岩村は遠山荘の中心であったからです。

さらに河合さん宅には長明が彫ったという木像も伝わっています。
河合さんとは、駅前の「かわい食堂」のことです。
この木像を病気の子供と一緒に寝かせると病が治るといういいます。

 

長明は京や鎌倉の権力から離れ、自然豊かな遠山荘に住み、鳥や草花や花や子供らと一緒になって遊ぶようなことがあったからで入ったものしょう。

 

昔は病気が治ったお礼として可愛いチャンチャンコを木像に着せていましたが、今は衣冠束帯(いかんそくたい)の姿で大切に保管されています。

※衣冠束帯(いかんそくたい)とは、衣冠と束帯をつなげていう言葉で、江戸時代以降では、両者を分家の正装とし     て纏めて、あるいは混同して言ったものです。     

 

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