【日本三大山城】岩村城の歴史

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

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岩村城の女城主「おつやの方」絶世の美女のため悲劇的な生涯、織田信長と武田信玄に翻弄される。

投稿日:2018年7月11日 更新日:

岩村城またの名を霧ヶ城標高717m・城下町は標高500m〜520mの高低差がある。

岩村城加藤景廉が鎌倉時代に長男の景朝に築かせたお城です。
上記の加藤景廉をクリックしてもらうと加藤景廉のことが書いてあります。また、岩村城をクリックすると岩村町の東に向かっていくと城山登城口があります。そこから本丸までの案内が載ってます。

 

 

                ▲岩村城の頂上付近(夏の夜は寒いくらい)

 

 

先ず、お城形式のことななりますが戦国時代の前半(室町から安土桃山時代を含む)は主に戦闘・防衛が目的の望楼型といわれるもので、建造的には山の中腹や頂きという場所が多かったのです。

 

 

 

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しかし、その後の江戸時代の頃になると、特に寛永の頃以降になると、階層塔型というのが中心になります。

つまり、戦国から安土桃山の頃は堅牢な山城型、江戸時代には守備型の平山城が主流でした。

 

 

 

さてそんな山城の代表的なお城に「岩村城」というのが鎌倉時代から戦国時代に有りました。

 

この山城は現在の岐阜県恵那市岩村町にあり、中世の代表的なお城で、いまでは本三大山城と言われています。 

 

 

 

 

因みに、三大山城というのは岩村城の他に高取城(奈良県高取町)それに備中松山城(岡山県高梁市)ともいわれています。
上記の岩村城をクリックすると登城口から本丸までのことが書いてあります。

 

 

 
▲奈良県の高取城跡                            ▲岡山県の備中松山城

 

 

この岩村城は「信長と信玄」との戦に非常に関係するお城だったのです。
実は、井伊直虎と時を同じ頃、織田信長の叔母である「おつやの方」という女性が、この日本三大山城岩村城「おんな城主」だったのです。 

 

 

 

おんな城主といえば、昨年(2017年)のNHKの大河ドラマで放送された井伊直虎のことを想像してしまいますが、このおつやの方こそがおんな城主でお城を守るため武田軍戦い、また御坊丸兵士を守るため、泣く泣く武田軍の重臣に嫁いだ。

 

 

 

信長の年下の叔母であるのに、逆に信長軍と戦い、投降はしたが無残にも磔刑にされてしまったという、悲劇のおんな城主だったのです。

 

 

 

美濃国岩村女城主・おつやの方織田信長の叔母(叔母といっても年下)とし

て、信長に似た絶世の美女ともいわれていました。

信長の妹『お市」も美女で通っています。

 

 

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戦国期の元亀年間、岩村城の城主は遠山景任であったが、景任が病で亡くなると当時の岩村遠山氏は織田家の傘下に入っていたので、信長は自分の子御坊丸景任の養子として入城させたのである。 

 

 

 

その時に後見として信長の叔母にあたる女性景任の妻、即ち、通称「おつやの方」に任せたのであった。
その後、景任の幼い養子に代わって事実上の女城主として差配を振るうことになったのです。

 

 

 

おんな城主として暫くは平穏なる日々が続いていたが、1572年になって

甲斐の武田信玄の上洛西上作戦が開始され、信長信玄の戦が始まる

とになるのです。

 

 

この時に、信玄は先ず、有名な「三方ヶ原の戦い」徳川家康を破っています。

 

 

 

この時期に、武田信玄難攻不落とされた岩村城を攻め、おんな城主であったおつやの方は必死に抵抗するが武田の勢力には勝てず、とうとう城を明け渡すことに事になってしまったのです。 

 

 

この時に、おつやの方は幼い景任の養子御坊丸※1を助けるために、身を信玄の重臣であった秋山虎繁(信玄二十四将の一人)に身を預けて結婚し、夫婦となっては信長を裏切るということになるのです。

 
 
※1: 天正9年(1581年)11月、武田勝頼は人質としてた御坊丸(後の織田勝長)を織田信長のもとへ送り返します。
御坊丸は信長の五男(四男説もあり)、さらに織田(津田)源三郎信房と名乗っていました。
 
 
元亀3年(1572)、織田領の岩村城が武田信玄の家臣・秋山信友の攻撃を受けてる最中に、岩村城主の遠山景任が病死。
 
 
元亀3年(1572)11月14日秋山信友の攻撃に抗しきれず、岩村城は落城。前から好意を持っていた秋山信友に嫁ぎ、御坊丸は人質として甲斐の信玄のもとへ送られてしまった。
 
 
翌年に武田信玄が死去し、跡を継いだ武田勝頼のもとで生活することになります。
 
 
天正3年(1575)11月には、岩村城は織田軍が奪還に成功し、秋山信友夫妻も処刑されます。
 
 
織田家と武田家の関係が悪化する状況の中、御坊丸は武田方に殺されることもなく育ち、約9年間に及ぶ人質生活から解放され、信長のもとへ返しました。
 
 
この時期、武田家織田・徳川との戦いで劣勢に追い込まれ滅亡の危機に瀕している状況であり、武田勝頼御坊丸を返すことで織田家との和睦を模索したのかもしれません。
その願いは叶いませんでした。
 
 
天正9年(1581)11月24日、御坊丸安土の信長のもとへ挨拶に出向き再会をし、その時信長は、小袖や刀・鷹や馬などを送り、犬山城の城主にすることを伝へ、側近に対しても相応の品を与えています。
 
 
この時御坊丸は元服し、勝長と名を改めたようですが、武田勝頼の“勝”の字の下に信長の“長”を使って勝長と、武田家で、すでに名乗っており、織田家に復帰した際、源三郎信房と名乗ったんではないかという説もあります。
 
 
なお『信長公記』には、人質として武田家に送られたはなく、武田信玄が養子に欲しいという事で武田家に送られたされています。
これは太田牛一が信長に遠慮して書いたものと推察いたします。
 
 
その後、勝長は武田討伐に参戦し活躍しますが、本能寺の変で兄織田信忠と運命をともにすることになる悲運の短い生涯を送った御坊丸こと織田勝長でした

 

 

 

その後の天正3年(1575年)信玄亡き後織田信長軍は、「長篠の戦いで」武田軍を敗ると、織田信忠らが岩村城を包囲武田軍も岩村城を援護するべき出陣したが、結局、岩村城は落とされたのであり、秋山虎繁とおつやの方長良川にて磔刑で命を落とすことになったのです。

 

        ▲おつやの方

 

 

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これが、おんな城主・おつやの方の悲劇的な生涯だったのです。

 

 

 

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