【日本三大山城】岩村城の歴史

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

信長の愛刀・刀 未分類

岩村城の遠山景任の妻おつやの方は信長とは年下の叔母の仲、信長の愛刀「へし切長谷部」。

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岩村城女城主は、いわゆる信長の年下の叔母さんです。
叔母ということは信長の祖父〔尾張国の織田大和守家(清洲織田氏)に仕える清洲三奉行の一つである織田弾正忠家の当主で勝幡城の当主で信定は信貞とも書く。〕である。

 

                             ▲おつやの方

 

幼き頃は、愛知県西部の勝幡城で一緒に野山で遊んだ仲なのに、織田家のために三度の政略結婚を頼まれた。

※上記の勝幡城のことが詳ししく書いてあります。興味のある方はクリックしてください。

 

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三度目が岩村城の遠山景任に嫁いだが、四度目に信長を裏切って武田方の秋山虎繁と結婚した。

 

 

岩村城加藤景廉から何代も続いた遠山氏時代から、ずっと続いてきた。
戦国時代に入って信州尾張の場所にあったっため、信長織田軍武田軍陣取り合戦に巻き込まれたと思う。

 

 

そのため信長と岩村城は因縁があったのです。

このブログは信長愛刀について書きます。

 

 

戦国時代の戦国武将は武士の力を象徴するのはであり、刀は平安、鎌倉の時代から常に共にあった。

 

 

実際の戦争において刀が最良の兵器であった時代は短く、主兵器は弓・槍そして後には銃という攻撃的な武器であったのに対して、刀はそれを使うことを想定しているのは最後のときという、むしろ防御な武器であった。

 

 

だがそれでも武士・武将たちは刀を愛した

古来から現在まで美術品として扱われている

 

 

刀剣の構造と名称

刀剣を知るには、各部位名称を覚えることが大事です。

          ▲刀の名称が詳しく説明してあります。

 

戦国時代に生じた刀の変化といえば、帯で腰に「佩(は)く」たちから抜打ちが容易腰に「差す」太刀に変化したことがもっとも大きい。

 

 

室内での戦闘も考慮して大小二本の刀を使用するようになったのもこの時代からである。

 

▲抜刀をさした足軽:陣傘に銅鎧、草履を身につけた曲型的な姿。足軽でも大小の二本差しには鞘を破損から保護する金具、鐺(こじり)が取り付けられている。

 

 

前代の騎馬同士個人戦は衰退し、集団戦闘に取って代わられた
集団戦闘において、長く重い大太刀は動きにくく疲れやすいために次第に廃れてゆき、軽量で装備にも時間のかからない打刀が使われ始めた。

 

 

それまで使われていた太刀は短く磨り上げられ、その姿を打刀と同じくするようになる。

 

 

打刀の(こしらえ)は、まず柄の補強と握りやすさを向上させるために縁金物(ふちかなもの)を嵌(は)め込み頭に角細工を施して取り付け、鮫皮を巻き表裏に目貫(めぬき)を据え、上から革紐や組紐を用いて強く巻き締めた。

 

 

は湿気から刀身を保護するために黒漆を塗ったものが多い。
また抜刀時に鞘ごと帯から外れないように栗形や返角(かえりづの)といった突起が設けられた。

 

 

現存する打刃で最古のものは春日大社に伝わる「菱作打刀」(ひしづくりうちかたな)というもので南北朝時代のものと言われている。

 

 

また、平安末期に描かれた『伴大納言絵詞』には下級武士が打刀を差している場面があり、その存在自体は古くからあったという説もある。

 

 

しかし鎌倉時代以前に遡(さか上)る打刀の実物が存在しないために、打刀がいつから存在していたのかは明確にはわかっていない。

 

 

数えきれないほど戦が起こったために刀の需要も爆発的に増え製鉄技術にも飛躍的な進歩が起こった。

 

 

大規模なタタラ製鉄※1が行われるようになり、地鉄にも大きな変化が現れてきた。
備前美濃が中心となって「数物」と呼ばれる実用本位の刀が粗鉄乱造されて各地に供給された。

 

 

一方で武将・大名は自分の刀を刀匠たちに特注していた。

これは「注文打ち」と呼ばれておりいずれも名刀揃いであった。

 

 

刀鍛冶の世界においても戦国時代には大きな事件があった。
古井川の度重なる氾濫によって鎌倉時代より続く備前長船一派が破滅し備前鍛治の伝統は途絶え、代わりに美濃鍛冶最盛期を迎えるになる。

 

平安時代から室町時代に、日本一の日本刀産地として栄えた「備前国」(現在の岡山東部)と、その近辺で輩出された刀工やその一派による日本刀の制作法です。
特に備前国を南北に流れる古井川の下流あたりが最も栄え、数多くの名工と一門一派を生み出してきました。

 

 

全国各地の大名美濃の鍛冶をこぞってお抱えの刀工とし、美濃鍛冶たちは大名が日本各地へ転封に伴い広がった。

※1たたら製鉄とは、日本において古代から近世にかけて発展した製鉄法で、炉に空気を送り込むのに使われる鞴(ふいご)が「たたら」と呼ばれていたために付けられた名称。砂鉄や鉄鉱石を粘土製の炉で木炭を用いて比較的低温で還元し、純度の高い鉄を生産できることを特徴としてます。近代の初期まで日本の国内生産のほぼすべてを担っていた。

 

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織田信長とへし切長谷部のいわれ、と他の愛刀

織田信長は戦国時代から安土桃山時代の武将で、桶狭間の合戦今川義元を討って尾張一帯を統一した人物です。

 

                           ▲織田信長

 

のちに京都の上がって比叡山を焼き将軍足利義昭を追放、武田勝頼長篠で破り安土に城を築城

 

 

中国出陣の途中、京都の本能寺明智光秀謀反にあって自害した。

 

 

戦国時代多数の武将が天下取り目指して全国各地で名乗りを上げていた、その中でも駿河国守護職・今川義元を打ち破った信長の武名は一気に轟き、天下布武の印判をもちいて天下統一の意思を示した。

 

 

信長は多くの名刀を所持し特に華やかな焼刃の作を好んだようであります。
その中の一振りが「へし切長谷部」この刀匠は相州正宗の門下で正宗十哲の一人である名工・長谷部国重でした。
活躍したのは南北朝時代。

 

※興味のある方は「へし切長谷部で検索」すると丁寧な画像が出てきます。ここに掲載出来ないからごめんなさい。

 

 

延文年間※5に活躍した国重の作品のはとんどは一尺前後の短刀であった。
後に「へし切長谷部」の異名で呼ばれるようになった信長の愛蔵のこの刀は国重の鍛えた数少ない太刀の一振りで、現在は国宝に指定されています。

 

 

「亨保名物牒」という書物によると、この刀がその異名で次のような逸話によるものであるらしい。

 

 

ある時、信長に仕える茶坊主の観内という者が無礼をして信長の逆鱗※3に触れた。

 

 

信長は即手打にしようと刀を取り上げたが、茶坊主の観内は城内を逃げ回り、最後に台所にある御膳を納める棚の下に逃げ込んだ。

 

 

信長はこれを棚の上から押さえつけるようにして斬って成敗したのだという。

これが「へし切(押し切り)」と呼ばれるようになった所以です。

 

 

癇性(かんしょう)※4な信長の性格をよく語るものである。

 

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その後「へし切長谷部」黒田筑前守が信長から拝領した

 

 

その他信長は「不動行光」森蘭丸に森蘭丸は岩村城主になって本能寺で信長と共に死んだ。

 

 

この他にも「不動國行」、桶狭間の戦いで今川義元の「宗三佐文字」この刀は信長が本能寺で没した後に秀吉に、その子秀頼そして家康へと献上された。

 

 

以後はずっと徳川家の所蔵となっていたが天明の大火災で焼けてしまった。
焼きなおされて信長を祀る建勲神社に奉納されています。

 

 

このブログを読んでくださっている方、刀の言われを順に源頼光、楠木正成、足利義輝、前田利家、武田信玄、上杉謙信、豊臣秀吉、徳川家康などの刀を紹介したいと思っています。

 

 

2019・10・27の新聞で信長の弟で武将・織田有楽斎※2の愛刀が見つかる。という報道がありました。

※2:短刀の正式名称は「短刀銘来国光名物有楽来國蜜」鎌倉時代の京都の名工・来国光の作で、豊臣秀頼から有楽斎に下賜された。

後に加賀藩の前田家に伝わり、名刀を記録した江戸時代の書物「名物帳」では五千貫(現在の価値で二億〜三億)と評価された。

 

※3:逆鱗とは、伝説上の神獣である竜(龍)の81枚の鱗(うろこ)のうち、顎の下に一枚だけ逆さに生えるとされる鱗のことをいう。 

 

※4:癇性とは、ちょっとした刺激にも、すぐ怒る性質。激しやすい気質。

 

 

※5:延文とは、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。文和の後、康安の前。1356年〜1361年の期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光巌天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利尊氏、足利義詮。

 

 

 

 

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