美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

お城 未分類 西尾城

気になる大給松平家の岩村藩と西尾藩の関係とは?

投稿日:2018年4月11日 更新日:

名鉄新安城駅から本線から別れていく三河線の途中にある西尾市、駅からさほど遠くないところにある西尾城。

三河国の西尾藩と岩村藩の関係。
西尾藩は、幾たびか城主が替り廃城となったりしても、大給松平家が江戸時代から廃藩置県まで岩村藩と共に存在した由緒ある藩です。

 

 
▲西尾城外観                    ▲鍮石門(二の丸の表門です)

 

藩主本多氏(膳所)※1  松平氏(大給府内)  太田氏、井伊氏(与板)、増山氏土井氏、三浦氏、松平氏(大給西尾)が就封※2した。

※1  ぜぜと読む。膳所とは滋賀県大津市の中心地の一部で、旧地名のこと)
※2  しゅうほうと読む:封は所領です。ので所領を受け継ぐという事になリ、就封は家督相続・遺領相続と新しく取り立てられて封じられる場合とかがあります)

 

 

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西尾城徳川家康今川氏から自立した永禄4年(1561年)家臣の酒井正親を城主に任命して治めさせた地である。

酒井正親は徳川家康家臣団の中で家康から初めて城主に任命された。

 

 

 

 

西尾藩と岩村藩が繋がりがあるか?というと

時を同じくして慶長6(1601)年、松平家乗(大給松平第6代)岩村城主になり、松平家乗の死後、跡を継いだ岩村城主松平乗寿は国替えにより浜松へ移りました。

※上記の岩村城主をクリックしてください、岩村城の藩主邸跡の登城口から頂上までの案内が書いてあります。

 

 

松平乗寿の長男・松平乗久(大給松平本家)3代後の松平乗佑(松平乗邑の次男)が西尾城主に、一方の松平乗寿の2男・松平乗政(大給松平分家)の長男・松平乗紀が岩村城主となり、以来明治維新まで、西尾藩と岩村藩はそれぞれ大給松平が世襲しました。

 

 

初代岩村藩主松平家乗→2代岩村藩主松平乗寿→3代岩村藩主松平乗久→4代岩村藩主松平乗春→5代岩村藩主松平乗邑(のりむら)→の3男松平乗佑(のりすけ)(1715年〜1769年)父:下総佐倉藩初代藩主松平乗邑の子乗祐は下総佐倉藩2代藩主そして出羽山形藩主に初代西尾藩主。大阪城代などを歴任。松平家宗家11代となった。

 

 

関ヶ原の戦い後、豊臣氏恩顧※3の大名は家康によって西国に移封され、慶長6年(1601年)2月に下総小篠※4から本多康俊が2万石で入った。
これが西尾藩の立藩

 

 

元和3年(1617年)10月本多康俊は近江膳所藩に移封した。
※3 おんこと読む、意味は特別に目をかけ援助すること、引き立て「御一をこうむる」「豊臣家一の大名」)
※4 現在:千葉県北部と茨城県西部を主たる領域とする旧国名。

 

 

代わって下野板橋藩から松平成重が2万石で入った。
しかし元和7年(1621年)7月に丹羽亀山藩に移封された。

 

 

そのため、父本多康俊の後を継いで近江膳所藩の第2代藩主となっていた本多俊次が3万5000石で西尾藩に入ったが、寛永13年(1636年)6月23日に伊勢亀山藩に移封された。

 


このにより西尾藩は廃藩となり幕府領となった。

寛永15年(1638年)4月24日、下野山川藩から太田資宗(おおたすけむね)が3万5,000石で入る。

 

 

太田資宗は西尾城と城下町の改築に尽力したが、完成直前の寛永21年(1644年)2月28日に遠江浜松藩に移封された。
このため、西尾藩は再び廃藩となった。

 

 

正保2年(1646年)6月23日、上野安中藩(徳川四天王の一人井伊直政は家康の関東入りに当たって、上野箕輪のち前橋に居を構え、安中領も前橋井伊領内であった)井伊直勝直政の嫡子であったが、病のため大阪の陣に参戦できす、代わりに弟の直孝が参陣、大活躍をする

 

 

このため家康は近江佐和山に移った井伊本家を二男に相続させ、井伊直勝には旧領のうちの安中に3万石を与え、別家をたてさせる。
これが安中藩の成立である。

 

 

井伊直好が継ぎ、三河西尾へ。
三河新城より、溝の元綱が入り、元和が嗣が、発狂して妻に切りつけ改易。
堀田正盛の3男堀田正俊徳川家綱付きの小姓となって、春日局の引きで、次第に取り立てられ、諸侯に列し2万石で安中に入る。

 

 

堀田正俊は幕閣中枢へ累進し、それに伴い、下総古河へ増転封して、のちに(大老となる)から井伊直好が3万5,000石で入る。

 

 

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直好は井伊直政の孫に当たり、西尾城の改築を完成させた後の万治2年(1659年)に遠江掛川藩に移封された。
直後の2月3日、相模国内から増山正利が2万石で入る。

 

 

増山正利の姉お欄(お楽の方)第4代将軍徳川家綱の生母で、正利は家綱の教育係を行った人物であり、その縁から家綱によって大名に取り立てられた。

 

 

第2代藩主増山正弥は寛文3年(1663年)7月に常陸(ひたち)下館藩(しもだてはん)に移封された。
代わって下野国内から土井利長が2万3,000石で入る。

 

 

土井利長は江戸幕府老中・大老として前期幕政を主導した土井利勝の三男である。

 

 

第2代藩主土井利意は税制改革・農政に尽力(じんりょく)した善政を行った名君と言われています。

 

 

第4代藩主土井利信時代の延享4年(1747年)2月11日に三河刈谷藩に移封された。

 

 

入れ替わる形で三浦義理が2万3,000石で入る。
しかし第2代藩主三浦明次時代の明和元年(1764年)6月21日に美作勝山藩の移封封される。

 

 

このように、江戸時代前期の西尾藩は転封が多く、入封にしても十数年で再度移封されるという状況であった。

 

 

西尾の大給松平家  盛巖寺。

出羽山形藩より松平乗祐が6万石で入封して以降、この状況はようやく解消された。

 

 

松平乗祐の家は十八松平家の一つ大給松平家宗家に当たり、6万石の表高であったが、西尾のみでは石高が足らず、越前国内にも飛び地として所領が与えられた。

 

 

盛巖寺の創建は天正18年(1590年)、大給松平家乗が上野国那波(群馬県伊勢崎市)にいた際、祖父である松平親乗と父親である松平真乗の菩提を弔うため、聞いたのが始まりとされる。

 

 

その後、大給松平氏の移封と共にその城下町に随行し、明和元年(1764年)大給松平乗佑が山形藩(山形県山形市)から西尾藩に移封になると現在地に移った。

 

 

寺宝である涅槃図は大給松平氏第七代松平乗寿が慶安3年(1650年)に寄進したもので縦190.0cm,横230.0cm,狩野探幽作、西尾市の文化財に指定されています。

 

        ▲松平乗寿寄進の涅槃図

 

本堂には歴代大給松平家の位牌が安置されている他、境内には14代松平乗全とその妻の位牌が建立されている。

 

 

また、松平一門の名門として、摂津国尼崎藩主桜井松平家と共に諸大名の筆頭として殿中での拝謁(はいえつ)では、従五位下の大名の中で最初に拝謁することになっており、以降歴代藩主は老中として幕政に関するものが多かった。

 

 

ただし、幕閣入りしたため、松平の財政は困窮することが多かった。
第3代藩主松平乗寛松平定信の寛政の改革に参与し、幕政改革に従って藩政改革も行ない、幕府機構の取り入れを行なっている。

 

 

第4代藩主松平乗全井伊直弼安政の大獄で井伊派として一橋家の処分に務めた。

 

 

第5代藩主松平乗秩時代の慶応4年(1868年)戊辰戦争では、佐幕派と尊王派による大戦争が行われて藩が分裂の危機に陥ったが、下級武士層による尊王派が大局を占め、尾張藩に従って新政府に与し、存続に苦慮している。

 

 

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明治2年(1869年)の版籍奉還で乗秩は西尾藩知事に任じられ、明治4年(1871年)廃藩置県で藩知事を免官され、西尾藩も廃藩地なった。

 

 

鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の重臣・加藤景廉が文治元(1185)年に、この地の地頭に任ぜられたことから岩村城が創建され、戦国時代には城主が武田信玄や織田信長の臣下との間でめまぐるしく変わったが、岩村藩も同様の運命になった。

 

 

岩村城は、朝霧、夕霧にこつぜんと姿を潜めることから別名「霧ケ城」と呼ばれた日本三大山城の一つです。

廃藩置県になろうとも霧は今も出ます。

 

 

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