戦国時代の陣取り合戦、真っ只中にいた信長の叔母「おつやの方」の戦いは?
1572年10月、武田信玄が西上作戦を開始すると、秋山虎繁(秋山信友)と山県昌景は別働隊として3,000にて奥三河へ侵攻させた。
田峯城主菅沼定忠、作手城主奥平貞勝、長篠城主菅沼正貞らを武田勢に臣従(しんじゅう:臣下としてつき従うこと)させた。
▲戦国時代の勢力図
そして、岩村城を攻撃、主の遠山景任が病で亡くなったあと、未亡人で女性の女城主のおつやの方が指摘を執っていた岩村城を包囲して10月に降伏させた。
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おつやの方は、勝幡城主織田信定(信長の祖父)の娘で、岩村殿、修理夫
人、お直の方、岩村御前とも呼ばれていた。
年下(何歳の差があるか不明)だが信長の叔母にあたる女性である。
初めの結婚、2度の結婚とも夫とは死別、3度目で岩村城主遠山景任に嫁いだ。
これも政略婚だった。
子供は恵まれなかった?※1とも云われているが、遠山景任は桜洞城主※2三木自綱(姉小路頼綱)を攻撃したさいの怪我が元で1572年5月に遠山景任病死してしまった。
そこで織田信長は跡目として五男の御坊丸(後の織田信長)を送り、養嗣子※3とした。
これに対して、信玄は西上作戦の途中に、依田信守と秋山虎繁を派遣し、岩村城を包囲して、降伏させると、御坊丸は捕虜となって甲府に送られ11月14日に武田勢が岩村城に入った。
※1:あったとも言われている、密かに木曽の方に逃した。
別のページで書きます。
※2:(さくらぼらじょう:岐阜県下呂市萩原町桜洞:築城年代は定かでないが永正年間(1504年〜 1521年)に三木直頼によって築かれたと云われる。一説には直頼の祖父久頼によって築かれたとも云わ れる。以下略。
※3:家督を継ぐ養子のこと。
このおつやの方が秋山虎繁と4度目の結婚も条件に和議には含まれており、下条信氏※4が入ったようだ。
※4:下条信氏(しもじょうのぶうじ、享禄2年(1529)・天正10年6月25日(1582年7月14日)は、 戦国時代の武将。下条は下條とも書く。父は下条時氏、信濃の小笠原氏、後の甲斐武田家の家臣、武田 晴信(後の信玄)の義兄弟、信州吉岡城(伊奈城)ともの主である。兵庫助、伊豆守。正室は武田信虎 の娘。子には信正、頼安がいる。
この、おつやの方の寝返りに反発した飯羽間城主遠山友信・明智城主遠山景行らが、1572年12月に上村合戦(上村の戦い)にもなったが、秋山虎繁が撃退したいる。
一方山県昌景は井伊谷城などを陥落(かんらく)させて、武田信玄の本隊に合流した。
なお、武田信玄が徳川家康のいる浜松城を素通りして、西へと向かったのは、岩村城のおつやの方が武田に屈したため、三河から東美濃を攻めようと考えたとも言われているが、その途中、12月22日に三方ヶ原の戦いとなり、武田信玄は徳川家康を破った。
この時、山県昌景と共に徳川家康を散々と追い回し「秋山虎繁は武田の猛牛に似た恐ろしき男ぞ」と評されている。
1573年3月6日、秋山虎繁が座光寺以下の350騎にて岩村城主となり(大島城代も兼任)の時、正式に「おつやの方」との婚儀が行われた。(実際には結婚しなかったとも言われている)
武田勢は野田城※5を落としたところで撤退した。
武田信玄は4月12日に駒場で病死した。
※5:野田城とは、愛知県新城市豊島にあります。別名「根古屋城」「三河野田城」とも呼ぶ、永正2年 (1505)に菅沼氏が築城。
天正2年(1574)1月27日武田勝頼は織田信長を圧迫するため、15,000を率いて岩村城進出すると明知城を包囲する。
2月5日に信長は嫡男の織田信忠とともに出陣するが、到着前の2月6日、明知城の内部で飯羽間右衛門が裏切り、明知城主の遠山一行と遠山利景は、、妻の実家である足助城へと逃れた。
また、山県昌景が6,000の軍を引き連れて鶴岡山に進出したと聞くと、信長は鶴城※6に川尻秀隆、小里城に池田恒興を配して、2月24日に岐阜城へと撤退した。
▲鶴城からみた岩村方面 ▲鶴城の登頂口。
※6(別名鶴ヶ城・土岐城・神野城、瑞浪市土岐町、築城:鎌倉時代頃か、)鶴城の創築は、美濃源氏土岐氏の草創期、国房・光信・光衛の頃と云われています。
土岐源氏発祥の地である美濃・一日市場の館(一日市場館とは土岐川と小里川の合流地点に北にある微高地に築かれていた。
▲土岐源氏発祥の地である美濃・一日市場の館 ▲いまは八幡神社
現在は八幡神社の境内となっており、「美濃源氏発祥の地」と掲げられている。八幡神社境内の北側に土塁とみられる土盛が東西50m程遺っている)に近い山城で、土岐初代守護頼貞と正中の変の主将頼兼の本拠城とされています。
南北朝争乱期に主流が中西濃に地盤を定着させるようになってからは、三河・信濃・恵那郡の遠山氏に備えとして一族が居城しました。
応仁の乱における信濃勢の東濃侵入の際には美濃防衛の最前線基地となり、元亀・天正年間の武田勢の東濃侵入時も、織田軍の主流となって侵攻を防止し、天正13年織田軍の武田勢追討の際には、信長・信忠はこの城を本営としたなど、歴史的にも重要な役を果たしました。
また、この時城番として織田家の有力家臣である川尻秀隆が配置されていた事にも注目です。
関ヶ原合戦時は、田丸方の城として西軍に組した岩村城と共に開城し、その後廃城となりました。地元では鶴ヶ城という名前の方が知られています。
城址のある瑞浪市土岐町は美濃守護土岐氏発祥の地とされており、東濃でも歴史深い土地のひとつです。
1575年5月21日、長篠の戦いで武田勝頼が織田・徳川軍に大敗すると、両軍は奥三河の諸城を攻撃し、岩村城は織田信忠(当時19歳)の軍勢20,000に包囲せれる。
▲イメージです。
秋山虎繁は比高(ひこう:山頂と谷底といったような、ある地域内の二地点間の高さの差)140mで難攻不落の岩村城に籠城して甲府に援軍をなんども要請した。
が長篠での大敗の後、ようやく体制を整えた武田勝頼が出陣したのは5ヶ月後であり、その出陣を知った織田信忠は岩村城への攻勢を強めるために本陣を置いたのが「大将陣公園」となります。
▲東に岩村城をのぞむ所にある大将陣公園の入り口。
そのため、兵糧も尽きかけた秋山虎繁は11月10日に、織田信忠の陣がある水晶山に夜襲をかけるも、川尻秀隆・毛利秀頼・浅野左近・猿萩甚太郎らに撃退され、大将格21名、兵1,100名を失った。万策尽きた秋山虎繁は、塚本小大膳の仲介にて、城兵の助命を条件に降伏し、11月21日岩村城を開城した。
降伏の際には、秋山虎繁の助命も約束されていたが、信長はこれを翻し、城兵を殺害して、秋山虎繁・おつやの方・大島杢之助・座光寺為清ら5名を岐阜城に連行した。
そして、長良川河川敷で逆さ磔となり処刑されている。
これについては、信長が家康に黒印状を出してるから、それをみれば分かります。
黒印状のURLをクリックしてみてください。
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岩村教育員会は大将陣にて処刑されたと、今も大将陣に看板がある、また、直ぐそばにイボ神さんがある所に「おつやの方」の墓があると、これも看板がある。
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▲おつやの方のお墓と書かれている看板
どうして約束をしたのに処刑をしたんだろう、その理由は、長篠城主奥平信昌が徳川家康に寝返ったとき、武田勝頼が甲府で人質に取っていた奥平信昌の妻等を磔にした報復だとされている。
岩村城にいた武田の残党も、遠山市丞丸に追い込まれ、遠山二郎三郎・遠山市丞・遠山三郎四郎・遠山徳林・遠山三右衛門・遠山内膳・遠山藤蔵等が抵抗するも討死し、焼き殺された。
岩村城に入っていた武田残党も、帰還の途中、木ノ実峠で織田勢に待ち伏せされたと言い、長篠敗戦からようやく軍勢をまとめ援軍として向かっていたであったが、これらの報告を受けて引き返している。
秋山虎繁は享年49歳、おつやの方は、生年が不明のため、享年は不明織田信長が自らの手で処刑したとも言われている。
秋山虎繁の菩提寺は清運寺。
また、岩村町の妙法寺(まくら塚として大将陣に向かって墓だある)と塩山の惠林寺境内にある。
▲大将陣に向かってる「まくら塚」
▲妙法寺境内から大将陣をみる。
この夫婦の間に生まれたとされる、秋山六太夫は、小早川隆景の元へ落ち延びたとされている。
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手助けしたのは、村上水軍で伊豆から安芸・竹原へと船で向かい、元服すると朝鮮出兵したともいう。
しかし、1600年の関ヶ原の戦いに28歳で討死したとも伝えられています。
岩村城は河尻秀隆が城主となり、現在の城郭に改修を開始した。