美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

お直の方(おつやの方) 未分類 武田信玄 織田信長 長篠の戦い

織田信長が岩村城を落としたことを喜んで、徳川家康に出した 黒印状で真実がでた。

投稿日:2018年3月4日 更新日:

秋山信繁とおつやの方を磔にした時の、黒印状が出てきた。
それは家康に宛てて出した、織田信長の黒印状が出てきた。

これでも岩村町教育委員会は大将陣で処刑したと言って今なを表札が立っている。

 

 

岩村町郷土読本編集委員会西尾精二さんとの意見が違うか‥?

 

 

直すのが面倒なのか、いや、岩村町教育委員会の方が正しいのか?
何故だろうと、不思議に思う。

 

 

岩村町岩村城主女城主町興しをやるんなら、真実を伝えるべきである、頼みます。

 

 

疑問に思う人あれば、岩村在住の西尾精二さん(090−2610ー2354)までお問い合わせください。

 

 

何ぜかと言うと歴史を調べて詳しいから、落城したときの女城主夫妻の事です。

 

 

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【黒印状】

何よりも真実が語る。

ここに信長の黒色の印肉で押した印影のある文章があります。

室町時代以降、武将の発行する文書に、従来の花押(かおう)に代え、黒印または朱印が用いられ、花押しのある御判物(ごはんもつ)に対し、それぞれ黒印状、朱印状と呼ばれた。

 

 

室町時代以降、将軍・守護・大名が発給した時状(じきじょう)形式の文書で、発給者みずから花押(かおう)を据えたものをいう。

所領の給与・安堵(あんど)、特権の付与などを行う場合に用いられた。
江戸時代には、将軍が10万石以上の領地を大名に与える場合や、その安堵に用いられた。

 

 

         ◀︎織田信長

 

         ▲これが、信長が家康に送った黒印状

 

 

江戸時代には、一般に朱印は将軍の発するものとされ、(私的な文章には黒印を用いた)、黒印は諸大名が用いた。

 

 

上記の黒印状を分かりやすく解説します。
【信長徳川家康に出した手紙】

岩村城落城させたいうことを知り、喜んでいる。
城主の秋山信友は岐阜に移送させ、今日、磔に処した。

 

 

その他のの籠城衆も残らず首を刎ね、近ごろ鬱積している思いを発散させる事ができた。

 

 

駿河遠江の国境の城のことについては、そちらの意向は承知した。
東西南北の状況が落ち着いたので、吉良あたりの鷹野鷹狩りに出かけるついでにお目にかかり、直接相談したいと思っている。

 

 

その時もう一度その件は聞くことにしよう。
なお、詳しいことは小栗大六に伝えておく。謹言。天正3年11月28日

 

 

 

『信長黒印状を入手した経緯について』
これは、西尾精二さんの「歴史掘りおこし読本・第2卷」より引用。
平成22年の夏に瑞浪市陶待町在住・青木本吉氏(前瑞浪市陶磁資料館長:岩村町氏出身)から、近江八幡市安土城考古博物館での「信長と安土城」の展示を見学した折に、「信長黒印状」岩村城のことが書かれてあること、その内容のコピーを届けていただきました。以下省略。

 

 

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●上洛を目指し、天下統一を進める信長の背後を脅かす最大の勢力が、武田信玄でした。

 

 

その備えもあって、信長は早くから三河の徳川家康と同盟を結ぶのですが、元亀三年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは大敗を喫し、翌年には信長は、美濃・信濃・三河の接点に位置する拠点「岩村城」を失うことになります。

 

 

※上記の「岩村城」をクリックすると案内が出てきます。

 
▲岩村城跡                     ▲櫓太鼓

 

 

天正元年(1573年)死去した武田信玄の跡を継いだ勝頼に対して、同三年五月に信長と家康が巻き返しを図ったのが、長篠の戦いでした。

 

 

 
▲設楽原戦場馬防                    ▲長篠城跡

 

 

鉄砲隊を用いた戦略で有名なこの「長篠の戦い」の後、両者の勢力は逆転し、信長は東へ向けての攻勢も視野にいれた戦略を展開させていくことになります。

 

 

手始めに、嫡男織田信忠にかっての岩村城の奪還を命じ、半年後にはこれを陥落させることに成功します。

 

 

織田信忠が秋山夫妻と戦うために、岩村城の西北に陣を張った所が大将陣(現大将陣公園)、この付近は侍屋敷(岩村町馬場・新市場・日の出町・江戸町・新屋敷)があった所で、この時分の城下は富田にあったはずです。

 

※上記の大将陣をクリックして読んでください。

 

                      ▲織田信忠

 

 

岩村城の守城であった秋山信友を、召し捕った後に岐阜へ移送させて磔にし(『信長公記』では、他の武将二人と共に長良の河原で磔にした旨が記されています)、他の籠城衆も残らず首を刎ねたと記されています。

 

 

その後、武田兵に長年煮え湯を呑まされたきた信長の悔しさと、戦勝の喜びを知る事ができます。

 

 

上記にも書いた通り、駿河・遠江の境目の城のことなどは、ようやく余裕ができたので、吉良(今の西尾市)に鷹狩りに行った際に直接会って相談しようも行ってます。

※上記の西尾市をクリックすると、岩村城と西尾城との関係がわかると思います。

 

 

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