美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

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藤原為時が道長に越前国府に任命され同行紫式部は一足早く京へ戻った理由

投稿日:2024年4月20日 更新日:

 紫式部は970年代(生没年はハッキリしていない為、天禄4年/天延元年)頃に、中流貴族・藤原為時の娘として生まれました。

 

 

学者の家系に生まれ漢籍の知識豊かな女の子と成長していく。

藤原為時を「大国」越前守に抜擢したのは藤原道長なのか?

      ▲藤原道長(イメージ)

 

 

 

なぜ、結婚適齢期を過ぎた娘・紫式部をわざわざ赴任先に連れて行った理由とは・・・

 

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父・藤原為時越前守になる

長徳2年(996年)越前守を懇願し、一度は国盛が越前守に任じられるが、ここで、藤原為時が一条天皇に自身の不遇を訴える漢詩を送ったところ、大いに感動し、左大臣・藤原道長は源国盛に替えて藤原為時越前守に任じた。

 

 

 

同年正月25日の「大間書」には、越前守従四位上源朝臣国盛とあるが、3日後の『日本紀略』の記事には「右大臣(藤原道長)参内※1し、俄に越前守源国盛をやめ、淡路守藤原為時を越前守に任ず」とある。

※1.参内(さんだい)とは、皇居に参上すること。参朝。

 

 

この間の経緯に付いて『今昔物語』『今鏡』『続本朝往生伝』『十訓抄』『古事談』『本朝文枠』などは、藤原為時が「苦学の寒夜に紅涙襟を得るをし、徐目の春あした蒼天まなこにあり」の詩に託して上申したところ、藤原道長が感動して叡覧※2に供し、すでに決定していた源国盛に代えて藤原為時を越前守に任じたと伝える。

※2.叡覧(えいらん)とは、天子がご覧になること。

 

 

藤原為時文章生(漢文学・中国史を修めた大学の学生)出身で、文章博士・菅原文時門下の逸材として当代有数の文人であった。

 

 

ともあれ藤原為時は念願叶って越前守になって娘を伴って越前に向かった、この為時の娘が『源氏物語』の作者・紫式部でした。

 

 

父の赴任にともなって越後路を旅した紫式部の生年については、天禄元年(970年)説、天延元年(973年)説、天元元年(978年)説があります。

越前にやってきた時の年齢は十八歳から二十六歳ぐらいであったことになります。

 

 

この時代としては、すでに結婚適齢期を過ぎた紫式部が、なぜ、結婚相手を求めにくい越前の地方へ出掛けて行ったのかについては、恋愛問題の傷心を癒すためではないかとか、母も姉も死んでしまっていたので、父の身辺を世話するため同行しなければならなかったからではないかといわれています。

 

 

いずれにしても、紫式部は心晴れやかに都をあとにしたのではなかった。

そのため式部の歌には都を恋しがる歌が多いのである(『紫式部集』)。
紫式部が父に同行して越前に下向したのは、次の歌から長徳2年の夏頃と考えられます。

 

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源国盛ショック

源国盛と藤原為時は共に、長徳2年(996年)越前守を懇願し、一度は国盛が越前守に任じられるが、ここで、藤原為時が一条天皇に自身の不遇を訴える漢詩を送ったところ、大いに感動して道長に命じる。

 

 

源国盛は、このことにより病気となり、その年の秋には播磨守に任じられたが、赴任出来ないまま没したという。

 

<h3>藤原為時の経歴

為時は、10世紀半ば頃、藤原雅正と右大臣・藤原定方の娘の元に生まれました。

 

 

平安時代を代表する貴族・藤原氏の一族ですが、上級貴族の藤原道長たちとは違って藤原為時は下級貴族でした。

 

 

しかし、為時には和歌や漢詩の優れた才能がありました。

菅原道真の孫にあたる文章博士・菅原文時に師事した為時は、彼のもとで紀伝道※3を学び文人となります。

※3.紀伝道(きでんどう)とは、大学寮において、歴史(主に中国史)を教えた学科。後に漢文学の学科である文章道と統合して歴史・漢文学の両方を教える。

 

 

永観2年(984年)、花山天皇の即位に伴って、為時は式部丞※4・蔵人に任命されたのです。

※4.式部丞(しきぶじょう)とは、文官の人事・教育などを担当した式部省の判官の総称で、紫式部の名前も父・為時の役職に由来してます。

 

 

当時の貴族社会では、和歌や漢詩に優れていればいるほど出世する可能性が高く、為時のような文人は重宝されていました。

 

 

また、為時は才能ある娘・紫式部に、文学を教授したともいわれ後に執筆活動のきっかけを作ったかも、優れた才能をもち官人として宮中に仕えた為時、しかし、花山天皇が出家したことで、為時は失職してしまうのです。

 

 

 

越前守任官に関する逸話

藤原為時は漢詩に秀でており、のちに編纂された「本朝麗藻」「類聚句題抄」には、藤原為時の作品が数多く採用されています。

 

 

詩の才能を活かして官職を得たという逸話まであるほどです。

職にあぶれていた藤原為時は、宮中の人事が行われる際に、受領※5になりたいと強く希望しました。

※5.受領(じゅりょう)とは、物や金を受け取ること。江戸時代、優秀と認められた職人・芸人などが栄誉として国名を付した一種の官位を名乗る事を許されること。また、その人。竹本筑後掾など。

 

しかし、すでに各地の受領は決定しており、空きがありません。

そこで、藤原為時「苦学寒夜、紅涙霑襟、除目後朝、蒼天在眼」という漢詩を朝廷に奏上。

 

 

簡単に訳すと、「寒い夜も苦しさに耐えて学んだのに希望が叶えられず、血のような涙が襟を濡らしています。

任官されなかった翌日は、青い空が目に染み入ります」という意味です。

 

 

漢詩を見た一条天皇は心を動かされ、すでに「藤原(源)国盛」への任命が決定していた越前守を、藤原為時に命じました。

 

 

藤原為時が越前守に選ばれた理由としては、当時、越前国や「若狭国」(現在の福井県南部)に宋の商人が滞在しており、藤原為時の持つ漢文の才を交渉に活かすためだったという説があります。

 

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紫式部が京へ帰る理由

理由は複数の説がありますが、長徳二年、父・藤原為時が越前国守として赴任する時、娘・式部同行し、二年にも満たないうちに一人帰京したことは周知であるが、その理由について深く考察されたもの殆どありません。

 

 

最も一般的な見解は藤原宣孝との結婚を決意したためとされています。

越前国守として赴任していた父・藤原為時の任期が満了する前に帰京したことは、当時としては異例の行動でした。

 

この行動から、紫式部が宣孝との結婚に対して強い期待を抱いていたとも考えられます。

 

 

紫式部が京に戻った背景には、父の世話をするため越前に同行したももの、その生活にやりきれなくてなった可能性も指摘されています。

 

 

さらに、宣孝からの熱心求婚が紫式部の心を動かしという説もあります。
宣孝との結婚が彼女にとって新たな人生のスタートであったとも言えるでしょう。

 

 

ただし、これらの説は歴史的文献や研究に基づいた推測であり、紫式部自身の記録による明確な理由は残されていません。

 

 

そのため、彼女が実際にどのような思いで京に戻ったかのかは、完全に解明されていない部分もあり、紫式部の心情や当時の社会的状況を考慮に入れつつ、複数の可能性を考えることが重要だと思います。

 

 

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