【日本三大山城】岩村城の歴史

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

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日本三大山城の岩村城主「田丸直昌」。秀吉の恩義を貫いた男の中の男、本物の武士。

投稿日:2018年4月3日 更新日:

田丸の長刀(加藤景廉が源 頼朝から拝領した長刀)

 丸直昌が岩村城主だった時、慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の合戦には、在城した。

 

 

西軍方敗北となったため、1ヶ月後10月10日に田丸直昌はようやく城を明け渡した。

 

   
▲埋門付近                                                        ▲関ヶ原の合戦

 

 

8月以来、岩村と戦ってきたのは妻木・明知・小里勢だったが、岩村城の請け取りは苗木遠山・山村・千村に命じられた。

 

 

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豊臣秀吉恩義で立場を変えなかった田丸直昌は関ヶ原合戦後も岩村城に在城、周辺を包囲された形で動けなかった。

 

 

最後には降伏条件を家康に訴え家康から兵粮(ひょうろう)・当分扶持方と身の保証を得て10月10日に岩村城を去った、田丸直昌58歳・嫡子直茂29歳。

 

 

●十月十日の様子を「遠山文書」「岩村城請取」から、田丸中務少輔は髪を切って西に投げ織物の袴に一尺八寸の太刀を帯びて、家老の石部外記を召し連れ、城の東門に罷り出た。(中略)

 

 

▲遠山文書の「岩村城請取」の写し

 

 

戸を開ければ80人余人の女房ども一度に群がりでた。
その他に惣家中・中間下部に到るまで思い思いに城をでた。

 

 

大将田丸は旅の装束を用意して家臣外記と足軽に長刀一振り持たせ、主従四人夜半に城中から忍ようにでた。
その時に詩と歌を城門に貼り付けて残した。

 

 

「岩村にたまるものとて雪ばかり 消えもやせんとおもふ我が身ぞ」

 

 

雪については田丸中務は慶長5年(1600年)の旧二月に雪の多い北信濃から岩村へ配転、八ヶ月後に城去るので、実際に溜まる(田丸)岩村の雪は経験も感激もないはずだ。

 

 

この後、遠山から纐纈が出向き、「少分ながら」と路用として50両を渡すと田丸は請取り、長刀を取り出して「これは田丸家に代々伝わるものだ。

 

  
▲源 頼朝から長刀を受ける                                      ▲加藤景廉

 

 

今度遠山氏発向のしるしに進上する」と差し出した。
纐纈はこれを受け取って足軽二名を呼び、西濃太田まで案内するように命じた、とある。

 

 

「岩苗伝来記」には、この刀が平安末期、源 頼朝が治承四年(1180年)八月伊豆代官山木兼隆の館を攻めるとき、山木の首を取るようにと、頼朝加藤景廉に与えたもので、岩村城天守八幡祠の傍に置かれていたとされてる。

 

伊豆代官山木兼隆の館を詳しく書いてあります。
読んでいただくと調べたかいがあります。

 

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長刀の由来(岩苗伝来記)

(霧が城)天守棟礼八幡之傍ニ長刀一振相添代々為重宝其由来ヲ尋ルニ頼朝卿於伊豆国義兵初陣之働キ平家ノ士八牧判官退治之節宗徒之士於被刺向於退治者狼煙可到相図之旨被仰付處依無其攻而佐々木四郎高綱加藤次景廉召両人而景廉ニ御床之長刀一振賜之其以此長刀八牧之首ヲ取テ可帰旨有 台命即向先陣而進入城中而景廉八牧ガ首ヲ取テ備上覧此長刀為家重宝伝来處岩村城残而有之田丸此由来ヲ知テ先祖之重宝タル故友政ニ送リ其身者高野山ヘ立退為剃髪ト云々 即友政ヨリ黄金七枚被送之也 先祖重宝再友政之入手而喜悦不斜而于今苗木城

 

 

これを分かりやすく訳すと
源 頼朝が初陣の時、加藤景廉頼朝から長刀を賜り、八牧館(やまきかん)で代官山木兼隆を討った。

 

 

治承四年(1180年)8月17日だった。

 

 

その長刀が岩村城天守八幡の側にあったが、それを田丸が友政に渡したという。(この文は他に誤記もあり、事実か否か定かでないが、記録として紹介)

 

 

なお、遠山家「重宝物台帳」(明治39年11月調査によると)で、刀剣25本の中に「田丸中務より贈与の長刀 1本」とあり、由緒ある刀が明治末期まで苗木城にあったことが証明される。

 

 

【歴代の岩村城主】

遠山氏
武田氏
織田氏
森氏
田丸氏
徳川氏(大給松平家)
丹羽氏
徳川氏(大給松平家)

 

 

田丸氏(たまる、たまるうじ、たまるし)は日本の氏族※3。

               伊勢国司※2から戦国大名になった北畠家の庶流※3

※2:国司とは:古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官史で、四等官である守(かみと読む)、介(すけ)、掾(じょうと読む)、目(さんかと読む)等を指す。守の唐名は刺史、太守など。郡の官史(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあった。任期は6年(のちに4年)であった。国司は国衛において政務にあた理、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。

 

※3:庶子の系統。庶族。庶系↔︎嫡流
本家からの分家した家筋。分家。別家。

 

 

田丸氏の興りは伊勢国司北畠家の庶流で、第5代北畠政治郷の四男顕晴(親忠ともいう)が度会郡田丸城に入り、父の分割相続により与えられた土地の名を称し、田丸氏名乗ったことに始まる。

 

だが、彼は大永6年(1526年)に家臣によって謀殺された。
その後、北畠材親の三男(北畠晴具の次男、または三男)である具忠(国忠ともいう)顕晴の養子となり、当主位を継いだ。

 

 

なお、『寛政重修諸家譜』では、「家伝にいわく、北畠大納言材親が三男中将具忠伊勢国田丸城に住して田丸を称号とす」とある。

 

 

 

田丸氏の人物としては、特に田丸直昌と田丸稲之衛門が著名である。
田丸直昌は戦国時代に活躍した武将で、蒲生氏郷の妹婿でもあった。

 

 

 

天正12年(1584年)に豊富秀吉より所領を安堵され、蒲生氏郷の与力となり、文禄4年(1595年)に守山城5,000石を、慶長3年(1598年)に海津城40,000石、次いて慶長5年(1600年)美濃国の岩村城40,000石を領した。

 
▲大阪城                                      ▲豊臣秀吉

 

同慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属して改易され、越後国へ追放された。

 

 

子の田丸直茂が前田氏に仕え、のちに子孫は幕臣となったという。

 

 

 

稲之衛門は諱を直充(なおまさ)と言い、田丸直諄(なおあき)の婿養子であったが、天狗党に属して筑波山で反幕の挙兵に及んだ。

 

 

しかし敗れ、越前国にて加賀藩に捕えられ敦賀にて処刑された。
その際、一家まとめて殺害、あるいは投獄されたという。

 

 

※3氏族とは:共通の祖先を持つ血縁集団、または、共通の祖先を持つと云う意識・信仰による連帯感の下に結束した血縁集団のこと。

 

単系出自集団とは(特定の祖先から男性&女性のみを通して親子関係がたどれる子孫の作る集団)の一つ。
特定の男性祖先から男性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を父系出自集団といい、特定の女性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を女系出自集団という。

 

これらの集団のうち、成員がお互いの系譜関係、あるいは共通祖先との系譜関係を把握している集団はリニエッジといい、伝説上・神話上の共通祖先を持っていると云う意識・信仰があるのみで、系譜関係がハッキリしない集団をクランと読んで、両者を区別剃る。

 

同じ氏族の男女の結婚を禁じる結婚規制が広く見られる(氏族外婚)。
これは、互いの系譜関係がたどれぬ場合であっても同じ氏族であれば血縁を擬制※して規則することから、必ずしも近親者の禁止とは重ならない。

 

※擬制とは:ある特定の事実が認められる場合に本質的には性質の異なる他の法律効果と同一の法律効果を認めることである。

 

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