三森山は町民の信仰の山、岩村城と並んで立っている。
その岩村町三森神社の由来と恵那山の由来。
三森神社のことを地元(現・岩村町富田)の人は、”三森さん“;とこんなふうに呼んで親しいです、特に富田地区の関わりは歴史上深い繋がりを持っています。
三森さんを、単に信仰の対象として”みる“のではなく、古来からの先祖の歴史を承知するという”みかた“もしたいし、また、孫子の代まで永久に残していきたいものと願ってやみません
▲昭和13年に発行された岩村城下町の中から抜粋した「岩村町絵図」です。
三森山は1,100mその後ろには美濃の最高峰である恵那山2,190m聳え立っています。
恵那山の山頂の最高点には恵那神社奥宮本社があり、北アルプス、御嶽山、中央アルプス、南アルプス、富士山などの展望が得られるます。
富田地区には農村景観日本一という展望台があります。今の時期稲を刈って田に干してある風景、それはなんとも言えない故郷の表情です。
▲富田地区から見た恵那山
山名の由来は古くは胞山、胞衣山とも書かれ、また、角度で見ようによっては船を伏せたように見えることから舟覆山(ふなふせやま)などとも呼ばれます。
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吉蘇志略(きそしりゃく)で、「天照大神がここで降誕※1(こうたん)され、その胞衣※2(えな)がこの山に埋められた」と記載されており、これが山名の由来とされています。
※1:降誕とは、皇室用語では天子の生誕を敬って(うやまって)表す言葉。転じて他の君主にも用いる。
※2:胞衣とは、イナともいう。胎児を包んだ膜と胎盤をいい、産後(ノチザン・コウサン)のこと。中国の書にも胞衣で出てくるが、和語のエナについては、言語はエで、ナは接尾語、など、種々の説がある(『日本国語大辞典』)。
漢字の胞には外皮でまるく包むの意がある。
胎児の将来の運命を左右するといった俗信が、日本をはじめ、中国・朝鮮・マレー諸島・ヨーロッパなどに広くみられ、これを儀礼的に重視される場所に埋め、または木に掛けて干す所もあります。
沖縄ではかつて、産婆がこれを食べたといいいます。
日本では床下や木の根、または墓地などに埋め、その上を一番先に通ったものを、その子が終生恐れるとして、父親がまず踏み通る風習などがあったといいます。
これを切るための竹刀を胞衣刀(えなかたな:昔、出産のとき、胞衣を切るために使った刀。刃物を使うのを避けようとした)といい、赤子の宮参りの時、産衣の上に着せる衣服を胞衣着という。
青森県には石の胞衣塚があり、また、北海道函館市には石造小祠の胞衣神社があります。
恵那山は信仰の対象の山、山頂部には恵那神社奥宮があり、恵那山周辺では、この山に天照大神が産まれた時の胞衣を納めたという伝説が残っており、この山の由来ともなっています。
時間があったら登ってください。
▲山間部にある恵那神社奥宮(ネットより)
また、古事記で日本武尊(ヤマトタケル)が科野峠(神坂峠:みさかとうげ)で拝した※3もの恵那山の神です。
※3:拝したとは、頭を垂れて礼をする。おがむ。「初日を一・する」
江戸時代中期には、毎年修験者が拝礼に訪れ、前夜に恵那神社で禊ぎをして山に登ったとされています。
また、明治から大正時代にかけては道や登山道が整備されたことにより恵那講が流行し、白装束を着た庶民が多く訪れるようになったと言われます。
現在、恵那山山頂の恵那神社奥宮には7つの社が置かれています(黒井沢ルートからみた順序)。
麓の中津川市の川上には恵那神社がある。
葛城社(一言主大神)
一言主(ひとことぬし)とは、日本の神。
奥宮本社(伊邪那岐命、伊邪那美命)
伊邪那美命(いざなみのみこと)とは、日本神話の女神。伊邪那岐命(伊邪那岐命、伊邪那岐命・いざなぎ)の妹であり妻。別名黄泉津大神、道敷大神。
富士社(木花咲耶姫大神)
木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)とは、日本神話に登場する女神。
熊野社(速玉男命)
速玉男命(はやたまのおのみこと)とは、日本書紀の隅っこにちょこんと登場するだけの神様。
しかしそんな神様に熊野との意外な関係がありました。
速玉男命は古事記には登場せず日本書紀にのみ登場する神様です。
日本書紀にはこう書かれています。
一書(あるふみ)に曰く
〈伊奘諾尊(いざなぎまたはいざなきは日本神話に登場する男神)が配偶者である伊奘冉尊の腐乱した姿をみたところまで省略〉腐乱した姿をみられた伊奘冉尊は「あなたは私の本当の様子をご覧になってしまった、私もあなたと同じようにいたしますよ」。
と仰せられた。
伊奘諾尊はその言葉に自分を恥じ、出て行こうとされたが、その時に誓われたて「もう離縁しようじゃないか」と仰せられました。(別の説では、うがらまけじ(お前には負けないぞと仰せられたという)。
その約束事の際に唾を吐かれました。
この時に産まれた神を速玉男命という。
速玉男命を紹介する時にに決して無視することのできない神様がいます。
それが熊野古道や熊野詣で有名な熊野三山の一つ「熊野速玉(新宮)大社」の主祭神である「熊野速玉大神」です。
同一視されてしまうことが多いのですが、熊野速玉大神は伊奘諾尊の別の名前であり、速玉男命とは違う神様であるとされています。
しかしながら「熊野本宮大社」で伊弉諾尊とともに祀られている「速玉之男神」は今回紹介した、いわゆる日本書紀に出てくる「速玉男命」と同じだと言います。
神明社(天照大神、豊受姫大神)現在の伊勢神宮では、内宮の主祭神は天照大神、外宮の主祭神は豊受大神として祀られている。
剣 社(天目一箇命)
天目一箇神(あまのまひとつのかみ)とは、日本神話に登場する製鉄・鍛治の神。
一宮社(猿田彦大神)
猿田彦大神(さるたひこのかみ)とは、日本神話に出てくる重要な神様で、謎の多い神様です。
神話の物語から、「みちびきの神、みちひらきの神」として祀られ、様々な人や物事を幸せへと導く神様として崇められます。
交通安全・建築・厄除開運・商売繁盛・出世開運・合格、学業成就・恋愛成就、縁結びなど神様のご利益は多方面に広がっています。伊勢国五十鈴川のほとりに鎮座したとされ、中世には、庚申信仰や道祖神と結びついた。
ざっと恵那山はこのような伝説がある山です。
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岩村領三森山と三森三社の紹介。
▲三森神社
三森山にある三森神社は、祭神天照大神、素戔鳴命、大国主命。
一ノ宮梵天(本殿内)※4▲:石仏二体(本殿内にあります)
▲貞享3年(1686年)の奥の院の石仏と同時の建立とする300年前。本殿内に収められまでの間は
野にあったとすると花崗岩体の風化はうなづける。
神体:鎌三丁 鉄製、錆びる。大きくても10cmぐらい。
(本殿内に錦の袋)本殿の下に古鎌と思われるのが七丁)・祭神の額・社額。
▲※4:梵天とは、神様のこと。▲
三ノ宮聖観音(奥の院)
▲かなり風化してる。三森三社に関して最も古い(貞亨3年1686年)。道雲=福泉某坊の次男。
仏門に入られるが後に奥州白河へ。
二ノ宮帝釈天(帝釈天)
社屋は昭和35年に新築したものを平成2年に更に新築。
旧本殿の屋根裏に銅製の鉾=矛か槍のようなものがあったとのこと(平成2年の新築の折)。
創建の年月は明らかではないが、伝説によると阿木村(現・中津川市阿木)地洗地に天照大神御産をされた時、その袍衣を収めた山が恵那山で、その緒を絶たれた神鎌を祀ったのが三森山だという。
▲富田地区から見た信仰の三森山
地洗神社も恵那山神社も古代の社であるから、三森山も古代ということになるが古文献ががないので証拠はない。
なお、三森の名称についても岩村府誌に三峰鼎立、林樹蔚蒼としているので、この名があると説いています。
▲中津川市阿木にある血洗池跡 ▲血洗神社
福泉坊が慶長の頃当地に来て、寛永21年に三森山麓乗松爆に不動堂を創建した時、不動尊を以って三森山前立本尊と称した。
福泉坊は元来は白山神社の坊であるが、三森山はこの辺りに最高の山で近傍の村落を見下すの見ならず遠く南海をも見得る景勝であり、山麓に乗松爆があり山上山下を道場と選んだのは宜なる哉であります。
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三森神社への道のりに三十三観音様がある。
岩村町と言えば、この地域でも最も古くから開け、遺跡や文化財の多い所です。
「石佛」はと名指しでして調べてみると、「石佛」に関する記録や伝記が意外に少ないのに驚く。
岩村城をはじめ、名所、旧跡に埋没してしまってか一般の村人達の信仰の対象としての「石佛」などは、あってももそれ程問題にならなかったかもしれません。
現在は、これらの村人達の尊崇されてきた神様や佛様を見直してみてはどうかとの機運もあります。
昔から山全体が信仰の対象となって、古くから富田村人たちの信仰はあつかった山・三森山は、五穀豊穣を願い、病気の平癒を祈って、幾度か参拝したであろうと考えます。
三森山の歴史はかなり古い、その麓から頂上まで安置さっれている三十三躰の観世音菩薩の歴史はそんなに古くはないはずです。
寛政六年のものから寛政八年、寛政九年、寛政十年と数年をかけて建立されたものです。
三十三躰を頂上までに設置建立するということは大変な大事業であったと想像できます。
寛政は1789年〜1801年で、該当する時の岩村城主は大給松平氏(1781年〜1826年)の松平乗保ではなかったかと思われる。
一つの山(三森山)で、西国三十三観音に参詣ができ、心が救われるとしたら、村人達にとっては嬉しかったに違いないはずです。