美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

天狗党の乱 武田耕雲斎

天狗党の総大将武田耕雲斎・藤田小四郎らが尾張藩大井宿に現る

投稿日:2021年6月15日 更新日:

   天狗党の大まかな集団を作って尊王攘夷を孝明天皇に直訴しようと京に向かった。

 

途中、中山道を天狗党が通過したことについては、岩村藩との接点は余りないように思われていましたが、恵那市大井町・山本修身氏が『いわむら歴史掘りおこし読本第三巻』に天狗党の都賀厚之助岩村藩に3ヶ月余りにわたって滞在していた事とがわかった。

 

 

丹羽瀬市左衛門・平尾鍒蔵、その娘平尾せき(のちの下田歌子との接点についての史実を調査、その他の足取りについても精査して投稿されたことから、本項では、岩村藩の天狗党対応『御領分村々高付覚』天狗党の乱‥‥熊谷博幸(著・編)を掲載することににした。

 


▲岩村藩・藩主邸の太鼓櫓       ▲岩村城登城口を登ると
                                            下田歌子の生家の移築が
                                            右に見える。

 

また、平成26年に中津川市中山道歴史資料館での「天狗党通行の展示」で、苗木藩等には、関係する古文書が比較的少ないことをうかっがった。
と著者:西尾精二さんは書いている(岩村町在住の岩村歴史掘り起こし編集長)です。

 

 

中山道・大井宿通行で“てんやわんや”された岩村藩内の対応

   元治元年(1864)11月21日、岩村藩内では、幕府の「宿々城下在所で差押えるように」の命に従って協議の結果、槇ヶ根(現・恵那市長島中野)の坂上に陣を築き。

 

浪士隊の西上を阻止することにして、大将分に松岡勝之助(御勝手御用人物頭兼)大野源兵衛(大目付)渡辺左次馬(大目付)、武具方に梅村儀一郎、其の外士分26名、鉄砲足軽60名、その他合計100名余を決定し、23日には槙ヶ根(現・恵那市長島中野)に陣を張った。

 

                                                                    ▲中山道大井宿

 

11月23日には、岩村では評定が続けられていた。
「いま藩主・松平乗命は大阪加番に出頭中で場内は手薄となっている。

ここで浪士隊と戦うのは賢明の策とは言えない、「むしろ敵を城下に侵入させないことの方が大切である」という結論に達した。

 

 

翌24日昼ごろから槙ヶ根陣屋から東野村(現・恵那市東野町)『役人一名すぐ出頭せよ』の連絡があり、組頭喜平治が出向くと「岩村よりの命により東野村に陣を移すから宿所の準備をせよ」いうのである。

 

 

東野村では寿弘院・善平衛・義右衛門・朝吉・庄右衛門の5軒を宿所として準備すると、その日の夕方、松岡・大野・渡辺らの一隊は東野村へ移動して来た。

 

 

そして翌日早朝から神場の見定めが始まり、小野川入り口の石仏坂と番屋附近の二か所と決定し、東野村からも郷夫20名を招集して陣場作りが始められた。

 

 

中山道・中津川宿から武田耕雲斎・藤田小四郎現れる

駒場(現・中津川市駒場町)に一泊した浪士隊一行の次の進路に二つ意見があった。

 

武田耕雲斎は三河路を通り尾張侯に縋ろう考え、藤田小四郎は清内路※2から美濃へ出る意見があったが、一行の中には「険阻な山道はもうたくさんだ。特に11月の下旬で雪道となっては尚更である」

 

というムードも強く、武田耕雲斎は意見を出さなかったが三河路と決定した。 

※2.清内路とは、古くは中山道と東山道を結ぶ重要な街道筋であった清内路は、現在も木曽谷と伊那谷を結ぶ丁度中間点に位置しています。

 

 

情報は逐一岩村に届いた。
浪士隊が三河路を南下する知らせは、この日の夕方6時頃にあった。
この道を通れば平谷から中馬街道で上村(現・恵那市上矢作町)を通る可能性が大きい。

 

 

「とすれば岩村城下への侵入を防ぐには、陣場を上村方面に移す必要がある」という結論になり、一行は、その夜のうちに東野村から上村へ向って移動してしまった。

 

 

次に「三河路から引き返して清内路に向かう」の知らせを受けたのは、その夜の12時近くであった。

この知らせは、岩村藩から妻籠橋山塾に派遣してあった下目付一名と足軽一名の見張から出たもので、東野村にさしかかった使いの者は精も根も尽き果てたようで、ここで状況を書面に認めて早飛脚で岩村へ送り、本人は駕籠(かご)で向かった。

 

 

この知らせを受けた岩村藩は、再び東野村小野川境の石仏陣場へ、26日早朝移動して来た。

尚、この日、藩から村々へ、郷夫と猟師の招集が命じられた。
猟師とは、村内で鉄砲(猟師鉄砲と威鉄砲・用心鉄砲の三種類がある)の所持を藩から許可されている者たちであった。

 

 

村々から出勤郷夫は竹槍を持ち、◯◯村と書いた纏を持ち庄屋・組頭が引率してくるように、という指令があった。
村は大騒動となった。

 

 

進んで出る者はなく、ついには5人組毎に人数を出すことになったが、その賃銭も一日一斗とか一俵とか、中にはどれだけくれても否という者もあったが、東野村では1日一斗ほどで落ち着いた。

 

 

この日、東野村石仏の陣場造りが進められ、阿木村(現・中津川市阿木)へは陣場での飯米三十俵の準備を命じられると共に、浪士隊の通過対策が練られた。

 

 

また、茄子川村(現・中津川市茄子川)から岩村へ通じている秋葉街道や大井宿からの岩村への侵入を防止するために、浪士隊首脳部との接触者を飯沼村・藤四郎、東野村庄屋・茂右衛門、中野村庄屋・義右衛門、永田村庄屋・定助、藤村三右衛門の五名を選出して備えた。

 

 

26日は寒い日で夕方には、霙(みぞれ)が降り出した。
そのため村々から出勤した郷夫、猟師はひとまず村へ帰り、明朝陣場集合となった。

 

 

翌27日岩村藩では、中山道筋の小石塚と茄子川に遠見の者を出していたが、浪士隊は岩村城下へ進む気配は少しもなく大井宿へ向かっていた。

大井宿役人は裃を着用して、岡瀬沢甚平坂※3まで出迎えた。

※3.大井宿中山道散歩ガイド、ここには大井宿の各名所のURLです。をご覧ください。

 

 

浪士隊の総大将・武田耕雲斎は後陣として、乗り物で前後左右に大筒を引かせ旗馬印を立てて騎馬武者を従えて到着したのは、夕方5時ごろで耕雲斎の幹部は尾張藩大井宿の脇本陣・高木善右衛門方へ入った。

 

脇本陣の高木善右衛門の妻・つたは恵那郡岩村町の長谷川九郎兵衛の次女で、その子供が三郎が旅館・いち川(現・恵那市☎️0573-25-2191)の婿養子となり11代を継いだ、古式ある日本庭園の旅館を改築して、現在は若女将(16代)が女将(15代)と大女将(14代)の3人でで家業を盛り立て受け継いでいます。

旅館・いち川をクリックするとHPに飛びます。興味ある方は、ご覧になってください。

 

歴史的にも一見の価値があると思います。
近くにある恵那武並神社・神主の娘・侘子を角屋10代の当主・市川清左ヱ門が嫁にもらいました。興味のある方は天狗党の話を聞くのも歴史を知ることになります。

 

 

この時、脇本陣へ飯沼村庄屋・藤四郎、東野村庄屋・茂右衛門、中野村庄屋・義右衛門、永田村庄屋・忠助、藤村三右衛門天狗党主脳部と接触して、このまま中山道を西上させる工作のため脇本陣と田中屋の帳場に入っていた。

 

 

この夜は、上宿と橋場に見張番所を立て、かがり火を焚き、拍子木の音が町中は勿論のこと、御所の前から町裏まで夜通し鳴っていたといわれます。

翌28日の朝、浪士隊の一行は、中山道第47番目の宿場町・大湫宿(現・瑞浪市)に向かい尾張藩大井宿を出立した。

 

 

輸送のための継人足は、東野村・正家村・中野村・永田村は百石につき3名の人足を出し、大井宿内の男子は総て動員された。

 

 

浪士隊の一行は旅籠代として上向に四百八文・下向に四百文支払い、人足賃銭には御勘定賃銭を払って出立した。
人々は浪士隊の一行を恐怖をもって迎えた。

 

 

しかし、一行の軍紀は非常に厳しいもので、それに反する者は重刑を科していた。

このように浪士隊の一行は大井宿を発ち大湫宿へ向かったが、東野村石仏陣場でそれを確認したのは8時頃であった。

 

 

大井の松岡勝之助・渡辺左次馬・大野源兵衛らは郷夫・漁師を集めて丁寧に礼を述べ陣場を引き払った。

 

後に褒美の酒肴が送られ、翌年4月6日に、この手当として郷夫一名につき銀三匁・猟師一名につき銀五匁・大井宿へ工作に入った五名には金一分の賞が送られた。

 

 

 

天狗党の乱の顛末(失敗から生んだ教訓)を学ぼう

疲労困ばいしながら、天狗党はようやく越前新保村まで着いたが、前方には加賀藩の軍勢が行く手を遮っている。

 

この時点で、はじめて天狗党は頼みと綱としていた一橋慶喜天狗党討伐の指揮官となり、諸藩に討伐命令を下していたことを知った。

 

 

ついに進退窮まった天狗党は、やむなく加賀藩に降伏し、ようやく天狗党の兵乱は幕を閉じた。

 

 

天狗党総勢833名は、三つの寺に分けられ、幕府の処分が下されるまで据え置かれた。

年が明けて、天狗党討伐から処分まで幕府から、一任されていた若年寄の田沼玄蓄頭意尊※4(たぬまげんばのかみおきたか)天狗党の身柄を引き受けると扱いは一変した。

※4.田沼玄蕃頭意尊とは、田沼意次の曾孫で田沼意留の子として誕生。天保11年7月20日、22歳で家督相続。

文久元年(1861年)9月14日、43歳で若年寄に就任する。元治元年(1864年)、幕府軍総督として水戸藩浪士による天狗党の乱の鎮圧に努め、天狗党退去後には筑波山を占領しているが、部田野の戦いでは敗北した。

なお、乱の鎮圧に必要な軍資金の調達に奔走した家老の井上寛司が、借金を返済できなかったために切腹するという出来事があった。翌元治2年(1865年)、越前国敦賀で降伏をした武田耕雲斎らを処刑した。

 

蝦夷から運ばれてくる肥料用のニシンなど魚を入れて置く天狗党一味は閉じ込められ、取調べや刑が終わるまで入れられた。

 

刑罰の結果は、斬首350名、遠島37名、追放187名という厳しい内容であった。
15歳以下の少年11名に関しては、寺の住職が命乞いをして、寺預けという処置で済んだ。

 

 

敦賀海岸で斬首された、武田耕雲斎・田丸稲之衛門・藤田小四郎・山田兵部(天狗党の軍師)ら四名の首は塩漬けにされ、故郷に水戸へ送られ晒し首にされた。

 

 

まとめ

天狗党の乱は、純粋な尊攘への思いを社会にぶっつけた結果、派生した兵乱であり、彼らの主張もそれなりに時代の急務に則した結果であった。

 

しかし、秩序なく国内を乱す挙兵という形で主張を通そうとしたことが多くの人々から不評をかうこととなった。

 

孝明天皇をはじめ朝廷内でも、秩序を乱すことなく、既存の権勢である幕府や諸藩が中心となって、攘夷実行を推し進めるべきとの考えが正論となっていたことから、中央と地方との政局に対する考え方は、大いに違っていたことになる。

 

 

この違いの差が、強硬派尊攘の志士たちを暴挙に走らせ、その暴挙を支援したり、同調したりする者をなくしたいのである。

 

彼らは、悲壮さをもって憂国の思いをなくしてはならなかったが、この失敗による教訓が後に倒幕を目指した薩長に秩序を守りながら、国内統一を進めていく方法へと向かわせたのである。

 

 

そも意味を、国内を無秩序に掻き乱しながら、主義主張を通すことは、愚策と判断され、計画性を立て、規律正しい統制の取れた組織をもって、倒幕や改革を推し進めていくことが大事と、その後の志士たちに悟らせた点で、天狗党の乱は大きな貢献をもたらしてくれたのである。

 

 

-天狗党の乱, 武田耕雲斎

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