美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

城下町 未分類

岩村藩は先覚者たちによって発展ー偉人は林述斎・佐藤一齋他

投稿日:2021年6月6日 更新日:

 まず、岩村の町はお城山がある方向が東です。
明知線「岩村」駅が西にあたります。

 

                                                          ▲「岩村」駅にある岩村町の看板

 

町人町と侍屋敷を分けるには、城山から流れてる川「岩村川」を境に分かれます。
北が武士が住んでいた地区です。

                                             ▲古い地図に落とし込みました。

 

いまは面影も何も無いですが、所々に旧所があります。

 

 

 

知ってもらいたい歴史の町、儒学者佐藤一齋・林述斎を出す

岩村は、いまから(2021年ー1185年)836年の昔、源頼朝の鎌倉時代から遠山庄の中心として地頭・遠山氏(加藤景廉)の據※1となったころです。

 

 

戦国時代末から江戸時代にかけては、岩村城を中心にした城下町で、元禄15年藩学校が起こり、佐藤一齋、林大学頭を生みました。

             ▲「岩村」駅の構内三好学_下田歌子・佐藤一齋の看板

 

この長い間、地方政治・軍事・交通・文化の一中心地で多くの文化的足蹟(そくせき)を残し、知名人士の輩出と、人情風俗の敦厚※2(とんこう)をもって知られ、歴史の香の高い四方山で包まれた夢の町・歌の町である。

※1.據(きょ)とは、 何かをするための足場とする。
※2.敦厚(とんこう)とは、誠実で、人情に厚いこと。

 

 

 

岩村町には凄い先覚者※3達の発祥地

※3.先覚者とは、他に先んじてそのことが大事であることを悟り、研究し、実行する人。 くさわけ。 また、時代の流れを他の人より先に察知した人。

 

寒天もしかり、恵那郡地方、特に岩村町・山岡町の寒天製造は、県下ナンバーワンでした。
現在は山岡町が主流になって寒天工場が多いようです。(恵那郡が現・恵那市に合併しため恵那郡はなくなりましたです。)

                                          ▲沁みる気候も場所恵那郡山岡町の寒天干しの風景

 

寒天産業の他に、岐阜県下でトップを切ったものに岩村電気鉄道があります。

鉄道省(国鉄)中央本線大井駅(現・JRの恵那駅)から岩村町へ行くための便を図るため、岩村町出身県会議員・衆議院議員を歴任していた浅見光一右衛門により明治36年(1903年)に設立された。

 

              ▲当時の電車(ネットより)

 

まもなく岩村電気軌道※4.と社名を改め、将来的には名古屋方面への延伸と国鉄への編入を想像していた。

 

 

 

明治39年(1906年)に軌道線(路面電車)を開業させた。
その後、不況のため経営が落ち込んだことから、電力事業により苦境を脱しようとしたが、株式の払込も芳しくなく資金難に直面した。

 

 

そのときに登場したのが各地の電力会社や鉄道会社(電気軌道、軽便鉄道)の設立に参画し、電気王とよばれた才賀藤吉であった。

 

 

彼は会社の重役に収まると資金の提供をし(損失の補填と新規事業に投じられた)、そして発電機の増設をし、岩村、大井、長島の各町村に電燈が点るようになった。

 

 

この電力事業により社業が軌道に乗り明治42年(1909年)に、盛大な開通式典を催している。

※4.岩村電気軌道とは、かつて岐阜県恵那郡大井町・岩村町(いずれも現・恵那市)に存在した路面電車を運営していた軌道事業者である。副業として同地域一帯に電力を供給していた。岐阜県初の私鉄である。

 

 

さらに古くは、板垣退助最初に呼び入れたものも、この岩村町です。
板垣の宿舎となったのは、岩村町本町にある水野邸(明治10年新築・現薬局を営業してます)の奥座敷に竹内綱内藤魯一※5 の3人が宿泊、給仕係には女子より良いというこよになり、清一郎(当時13歳)らが担当した。

※5.内藤魯一(ろいち)とは、幕末から明治にかけて活躍した自由民権家。衆議院議員(立憲政友会)。

                    ▲水野薬局を表示しました。

 

板垣は庭を眺めながら「ここに池を造り鯉など泳がせると良い」などと言ったという。

 

 

板垣は書が苦手で、一緒に行った竹内綱※6が応じて書いた。

その揮毫(きごう)の扁額は、得観堂(これは水野薬局の屋号です。)
明治十五年四月 板垣氏と来遊に応じ書す  竹武陵 落款(らっかん)

▲※6.竹内綱とは、吉田茂の実父。▲ 

 

ここで宿舎して政党政治の移入にも先覚者の存在を語っており、次いで板垣は岐阜で遭難したのです。

 

 

さらに古くは儒学研究の黄金時代には、岩村藩から佐藤一齋・林述斎の二大歴史的大人物を出し、また、宮中の女官として下田歌子駐伊大使として松田道一氏、桜博士三好学先生、最初の大臣として大正四年寺内内閣陸相大島健一氏等、いずれも岩村の生んだ人々です。

 

即ち旧藩時代は大垣と並んで美濃国否岐阜県文化の先覚地であって、海抜高度が頭角を表しているばかりでなく、過去の文化においても、いろいろの意味で光彩を放っていた。

 

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城下町の温雅※7な美風な人々

※7.温雅(おんが)とは、穏やかで上品なこと。

城下町の住民は優雅で悠楊※8(ゆうよう)迫らざる態度は、その言葉遣いの上品であり服装の小ざっぱりしていることにも、人々に親切であり。

 

 

地形的に狭いまとまった盆地の関係もあって町をあげて、家庭の如く、よく団結融和していることによってもわかることです。

※8.悠揚とは、ゆったりとして、落ち着いているさま。

 

 

町民は質朴にして堅実で、そことなく風雅で和やかでノーブルな雰囲気を、それとなく町の到ところで遭遇するでしょう。

 

 

これは城下町として藩学の旺盛と士気の朴実さを伝統的に受けついだもので、争はれない何かがあり、四方は山・丘陵に囲まれ高原の四季の眺めも詩的に、地形上からも歴史からも東濃の小京都の感が深いです。

 

しかし、この反面山間の仙境に育って井蛙※9.的なところがあります。

※9.井蛙(せいあ)とは、井戸の中にいるカエル。見識の狭いこと、また、その人のたとえ。

 

 

器局狭小で潤達(かったつ)の気風に乏しく、小市民型で覇気に欠き、保守的で「武士は食わねど」式の見栄倒れの風と、何事も「俺が俺が」の気分と、溌剌(はつらつ)たる意気の少ないことは欠点として挙げられる。

 

名誉ある歴史的伝統の中に育まれた質実・温厚な美風を益々助長発展し、新興城下町の意気と迫力を示さなければならない。 

 

 

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