美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

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美濃國妙心寺派大園寺の歴史〜武田信玄元亀3年に高僧希菴玄密の暗殺を命じた

投稿日:2021年8月10日 更新日:

 岐阜県恵那郡岩村町の大圓寺(現・恵那市)臨済宗妙心寺大寺でした。
建武年間(1334年〜1335年)遠山氏一族菩提寺として岩村城に創建され、遠山景前の時代に再興された。

以前の城下町は、現在の城下町より北にありました。

 

大圓寺跡は現在大藪になっているが、敷地に石垣が所々に残っていて、井戸址、敷地址、道路址や発掘された五輪塔が残されています。

 


                                  ▲城下町の移動は、織田信長の重臣・河尻慎吉が天正年間に行う。

 

 

跡地からは鎌倉・室町時代古瀬戸系の椿手の骨壷、無釉の印花陶器、天目釉の茶碗や徳利、常滑系甕※0、瓦器、須恵皿、山茶碗、おろし皿、古井戸柵、木箸、宋からの渡来銭(周通元宝・天禧通宝・煕寧通宝・天聖元宝)が出土している。

※0.(かめ)とは、タイルや瓦などの表面を、釉(うわぐすり)を施さないで仕上げること。

 

                       ▲渡来銭

 

妙心寺管理職を務め天下に名声をはせた希菴禅師が住職だった頃は全国から修行僧が訪れおおいに栄えた。

 

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しかし希菴禅師が武田信玄の意に逆らい元亀3年(1572年)地元・飯羽で刺客によって殺害されると同時に大圓寺が焼かれた。
十数ヘクタールに及ぶ広大な寺域を失った

 

▲いまでは、この銘が建っている。周辺は草ぼうぼう竹藪がぼうぼう雑草がぼうぼう、三拍子揃ったぼうぼう、恵那市は何を考えているんだ!歴史を大事にしない所は発展しない。

 

 

岩村遠山氏の菩提寺大園寺の高僧の暗殺に信玄が関わってた

岩村城の発祥は、加藤景廉源頼朝がら遠山荘地頭を命じられたのが始まりです。

※.遠山荘とは、遠山とは、古くは美濃・信州・三河・遠江にまたがる山岳地帯の総称で、とくに美濃国恵那郡のことを指した。遠山荘は吾妻鏡の文治元年の条に記載だある。

 

 

加藤景廉源頼朝重臣で側から離れられず、嫡男・加藤景朝築城させ、名を遠山景朝改名させた。

 

 

景朝の子が飯羽間城明知城苗木城を築城する。
その遠山一族が総力を上げて、建武年間(1334年〜1335年)菩提寺とした。

 


▲大圓寺の碑

 

東濃無双の禅刹大圓寺を、大應派※1の始祖第一の逸足※2峰翁祖一が創開した。

※1.大應(だいおう)とは、日本臨済宗の一派。建長寺の紹明(諡号・円通大応国師1235年〜1308年を祖とする。)この配下に大徳寺派関山派が生まれた。

紹明(紹はジョウとも)は駿河の人で九州地方の名刹にも住したが、名刹を避けた枯淡・峻厳の行を教えた。

 

※2.逸足(いっそく)とは、足の速いこと。また、そのもの。駿足。「良駿逸足」。優れた能力ををもっていること。また、その人。逸材。「高材逸足の土」

 

峰翁は鎌倉幕府の執権・北条時宗の異父弟と云われ、兄弟の孫に足利尊氏の妻がある。

 

 

大圓寺峰翁禅師により創建されたが、二世・玉林宗璨、三世・月菴宗光・進叟性勝と峰翁の門下の高僧が住職で、大圓寺は大変栄えた有名な寺であったと云われます。

 

 

その後、約100年位衰徴した時期を経過し、天文3年(1534年)に時の岩村城主・遠山景前※3信仰篤く大圓寺を中興するため、妙心寺関山派の後継者で禅昌寺始祖である明叔慶浚※4を礼を尽くして迎えた。

※3.遠山景前とは、最後の遠山氏の遠山景任の父、おつやの方義父景前が岩村遠山氏の当主であった天文3年(1534年)小笠原貞忠は信濃府中家の小笠原長棟に松尾城を攻められると敗れ、甲斐の武田氏を頼って逐電したので、遠山氏は恵那郡(現在の竹並駅〜中津川駅あたり)の旧領を取り戻し岩村遠山氏は再び勢いを復活した。(苗木遠山氏は依然木曽氏の傘下にあった)。

景前は、一時期衰顕微していた菩提寺の大圓寺の甲斐の惠林寺を再興した名僧・明叔慶浚を招いて再興し、天文7年(1538年)には、遠山景前と思われるが、恵那市大井町の武並神社に梵鐘を寄進した、その名には「濃州恵那郡遠山荘大井郷正家村武並大明神之鐘 天文七年戊戌七月十二日鋳之」とあった「巌邑府誌」。また、天文16年(1547年)の冬、岩村城内に八幡神社を造立する。

その棟礼には、「遷宮師  棟梁熱田宮住人・栗田源四郎守  宗教
天文十六年丁未霜月十日」(巌邑府誌)とある。

 

※4.明叔慶浚(みんしゅくけいしゅん)とは、生年不詳・天文21年8月28日(1552年9月16日)は戦国時代末の臨済宗妙心寺派の高僧で、飛騨国の豪族・三木直頼の義兄。諡は圓應大通禅師。希菴玄密の師とされる。​​​​

 

 

高僧の徳をしたい全国から修行僧が集まり、美濃国の大圓寺の名は高まった。
明叔は天文10年御嵩の愚渓寺(ぐけいじ)へ転じたので遠山景前は名声の高い希菴玄密を大圓寺に迎え入れる

上記の希菴玄密を大圓寺をクリックしていてだくと関連記事が書いてあります。

 

 

希菴禅師は花園妙心寺の始祖・開山慧玄※5の門下中の秀でた名僧でありました。

※5.開山慧玄(かいざんえげん)とは、建治3年(1277年)1月7日・正平15年/延文5年12月12日(I1361年1月19日)は、鎌倉時代末期から南北時代の臨済宗の僧で開山は号。慧玄は諱。花園上皇に招かれ、妙心寺の開山となる。

信濃国高井郡の国人領主・高梨氏で高梨高家の子とされる。朝廷から本有円成、仏心、覚照、大定聖応、光徳勝妙、自性天真、放無量光の国師号が与えられ、また、明治天皇から無相大師と追諡された。

 

 

希菴玄密は京都の人で幼年時代、建仁寺の月谷禅師に随って得度し、圓谷禅師、雪峰和尚について文墨を究める。

希菴玄密は兄弟4人が出家して僧になり、その中でも飛び抜けて将来性のある人物と、希菴の母親の葬儀に来た仁岫禅師が見抜いていたと印されている。

 

 

希菴は安国寺(伊勢)隣松寺(桑名)恵林寺(塩山)継統院(甲斐)弘治二年禅昌寺へ移る等、その他多くの寺に住山した。

 

 

永禄三年希菴は正法山妙心寺に出世は5回に及んだ。
雪江禅師の定めた一住三年制を一住一年に改め同門の出世を道を開いた。

 

 

武田信玄は天文年間に既に関山僧を惠林寺に請じており、ときの関山派の五名僧と言われた希菴玄密の名声を聞き惠林寺へ永禄六年の冬に迎え、信玄の信任は一際篤く信玄の生母・大井氏の13回忌の法要を営む、その後希菴は京都へ移り、また再び大圓寺へ戻り元亀年間には岩村に住んだ。

 

 

武田信玄は、その後も三度派遣したが※6をもって固く辞して受けなかった。

※6.(げ)とは、仏典のなかで、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文の形式で述べたもの。「偈陀(げだ)」「伽陀(かだ)」とも音写し、意訳して「偈頌(げじゅ)」という。対して散文部分を「長行」という。

 

 

当時の信玄の威望※7は絶頂で、天下制覇の野望に燃えていた時に希菴玄密要請を峻拒※8したので。信玄の怒りにふれた。

※7.威望(威某)とは、​​​​威光人望。
※8.峻拒(しゅんきょ)とは、​​キッパリと拒むこと。厳しい態度で断ること。

 

 

秋山伯耆守(ほうきのかみ)信友は大圓寺の希菴を消せという命を受け、部下の三人に希菴禅師の命じた

 

 

ときに元亀三年11月27日大圓寺にある希菴禅師を覗わしめ、大圓寺を焼いた

 

 

希菴は傳燈の法脈を懐にして難を避け、飯場に至ったが、刺客はこれを逐って橋の下に伏せる希菴禅師を暗殺した。

 

    ▲飯場のここで希菴禅師は暗殺された。いまでは希菴橋という名がついてる。

 

 

希菴が殺されたこと「甲陽軍鑑」末書九品之九に所収

関山派名和尚希菴と申すを、甲州へ御呼び候えども御越なきとて、信玄公秋山伯耆守に被仰付御ころし候。元亀三年十一月廿六日に如此。
伯耆守申付候出抜は伊那の松沢源五郎 小田切与介 林勘介是三人なり、何れも十五日の内に狂気さし、あるひは癩狂をかき落馬して死する也。
信玄公も其次の年天正元年四月十二日に御他界也。
禅宗の名知識などに悪しく御あたり有るべからず候其のため有り様に書付申付候也云々

 

※上記の癩狂(かったいきょう)は、「癩」はてんかんにほぼ相当し、「狂」は行動異常や妄想を主症状とする精神病を刺してきた。

 

 

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