【日本三大山城】美濃国岩村城の歴史と日本史

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

中山道 大井宿・本陣 未分類

美濃国岩村藩の大井宿は中山道46番目の宿場町、本陣跡の観光と甚平坂石仏群。

投稿日:2019年2月5日 更新日:

昭和30年代大井宿は「大井は中津のちょっとこっち」と言われてた時があった。

美濃国岩村藩から中山道の大井宿まで12里の近さで岩村領でした。

 

大井城は、永享年間(生長のあと、嘉吉の時代の前。1429年9月5日〜1441年2月17日までの期間を指す。

 

この時代の天皇は後花園天皇、室町幕府は足利義教将軍)の時代に大井行秀によって築かれた。   

 

 

⬇︎恵那市・中山道大井宿本陣地図

               

         ▲美濃国を通ってる中山道

 

大湫宿は中山道の47番目(尾張藩領)です。

「大井宿46番目」から京都の方面に行くと47番目の中山道の宿場町「大湫宿」美濃国土岐郡大鍬村(現・岐阜県瑞浪市)は存在しました。

 

 

大湫宿は慶長9年(1604年)に新設された宿場町で、尾張藩領であった。
この頃は、まだ尾張藩62万石と岩村藩2万石(後に3万石)の格差の間柄でした。

 

 

スポンサーリンク

 

 

のちに尾張藩祖父11代徳川将軍徳川家斉(いえなり)叔父は12代将軍徳川家慶・父家斉12男尾張藩主12代徳川家斉釣姫様が岩村藩に嫁いできて親戚になってしまいました。詳しい事は上記の釣姫をクリックしてみてください。

 

 

「大鍬宿」の本陣跡
今は大鍬小学校(廃校)の校庭になりました。
間口22間・奥行き15間、部屋数23、畳数212畳、別棟添屋という広大な建物で公卿(くぎょう)※1や大名、高級武士たちののための宿舎でした。

 

           ▲この場所に本陣があった。現在は廃校となっています。

 

またこの本陣には、数々の宮姫の他皇女和宮様が第14代将軍徳川家茂へ御降嫁のため文久元年(1861年10月28日)宿泊しました、家茂の死後には落飾し、静寛院宮と名乗った。

※1公卿とは、公家のの中でも日本の律令の規定に基づく大政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議等(もしくは従三位以上(非参議))の交換(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。

 

 

 

大鍬宿の脇本陣(保々家 登録有形文化財
建坪は間口16間余、奥行き6〜12間の98坪で部屋数19、畳数121畳、別棟4棟あります。

 

 

                 ▲脇本陣跡

 

門構え・玄関つきで一部改修・縮小されていますが、概ね※2往時のままの姿をとどめています。

※2:概ねとは、「物事の大体の趣旨」と「おおよそ」の2つの意味を持つ言葉です。

 

 

スポンサーリンク

 

 

大井宿は中山道の46番目の宿場。昭和40年頃芸者さんが多数いて、町全体が賑わっていた大井町。

               ▲歌川広重「木曽海道六十九次・大井」

 

 

大井宿は美濃国恵那郡太井村(現・岐阜県恵那市)

江戸方から、横町・本町・堅町・茶屋町・橋場と5町があった。
それぞれの町は6ケ所の枡形によって区切られていた。

 

       ▲枡形ふんだんに使われている太井宿

 

 

大井宿から槙ヶ根追分※3を経て、下街道を利用する旅人も多かった。
※3:槙ヶ根追分とは、竹折、釜戸、土岐、多治見を経て名古屋へ向かう下街道の分疑点です。

 

           


          ▲中山道「大井宿」の動画

 

 

大井宿中山道69次のうち、江戸から数えて46番目の宿場町です。

 

 

     

 ▲「大井宿」本陣と枡形地                                    ▲本陣横にある内城稲荷神社

 

格式高い本陣の門や、格子戸のある庄屋宅、うだつと黒壁の美しい旧家などが静かにたたずみ、当時のにぎわいを見せた大井宿の様子がしのばれます。

 

 

また、宿内には、敵の侵入を防ぐために、道が直角に曲がる「桝形(ますがた)」という構造の見られるところもあります。

 

 
▲取り壊された角屋                             ▲建て替えられた料理旅館「いち川」と道が幅員された。

 

 

中山道は江戸の板橋から始まり、近江の草津で東海道に合流するまでの百三十里(約536Km)67次をいう。

 

 

中山道が美濃国を通るのは、落合宿から今須宿※4までで、距離としては三十二里(約126Km) 宿駅は16あります。

※4:今須宿(いますじゅく)とは、59番目の宿場町。美濃国不破郡今須村(現・岐阜県不破郡関ヶ原町)に存在した。

 

 

今須を出ると、美濃国と別れて近江国へ入ります。

 

 

 

慶長5年(1600年)9月、東軍の徳川家康は「関ヶ原の戦い」で勝利を納めると、江戸と地方を結ぶことを計画して、街道に宿駅伝馬の制度を設けた。

 

 

 

街道はいずれも江戸を中心にしたもので、東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道官道とし、これらを五街道と言った。

 

 


支街道
としては、中国道・長州路・伊勢路・水戸街道などがあります。

これらの街道はいずれも軍事的警戒を主眼においており、初期から駅政、道路の改修、里程標(一里塚)や宿駅の設備にも力を入れ、旅人の宿泊や、助郷にも制度を設け、人馬の賃金なども定めた。

 

 

このようにして、中山道の整備が終わったのは、寛永(1624年〜1643年)の頃という。

 

 

中世の時代、東濃地方を東山道と鎌倉街道が通っていた

東山道は、井尻(いしり)志月(しつき)日吉→半原→釜戸→竹折→大井→千旦林→駒場→中津川→落合→妻籠を通ったとしている。

 

 

鎌倉街道は、可児から釜戸→竹折→大井→坂本→中津川→落合→湯舟沢を通り、御坂峠を超えて、伊那谷から諏訪を経、富士山麓を通って鎌倉へ入ったという。

 

しかし、いずれも詳細な道筋については明確な資料はなく、したがって中山道と、これらの街道との間に、どのような関連があったのか、不明なところが多いようである。

 

 

しかし、道路の改修は幾たびも行われた。
武田勝頼が東濃侵攻を企てた時も木曽義昌は改修を行っており、『御坂越記』では次のように記している。

 

 

「天正2年(1574年)3月、木曽義昌、武田勝頼ノ加勢トシテ東美濃発向ノ時、馬篭峠ノ道ヲ能(よく)シ、人馬ヲ通セシニヨリ、木曾ヲ通ルモノ多ク、御坂超スルモノ減ジケルニヤ」当時は、戦いになると軍勢が通りやすくするため、道路を改修し整備したようである。

 

 

大井宿の宿場は46番目、美濃国恵那郡大井村に存在した。

江戸方から、横町・本町・堅町・茶屋町・橋場と5町があった。
それぞれの町は6ヵ所の枡形によって区切られていた。

 

 

格式高い本陣の門や、格式戸のある庄屋宅、うだつと黒壁の美しい旧家などが静かに佇み、当時の賑わいを見せた大井宿の様子が偲ばれます。
また、宿内には敵の侵入を防ぐために、道が直角に曲がる「枡形」という構造の見られる地形があります。

 

 

菅原神社
江戸時代の初め、慶長年間の創建といわれ、学問や商売繁盛などの神様として敬われています。

 

大井宿石仏群
宿場のはずれに石仏を建て、悪病やはやり病が入るのを防ぎ、宿場の繁栄を祈りました。徳本和尚の南無阿彌陀仏の 碑やたん切地蔵など、めずらしい石仏が並んでいます。

 

高札場
江戸幕府の定めを知らせる掲示板。お上のご威光そのままに庶民を見下ろすかっこうに高札が掲げられています。

 

延寿院横楽師
戦国の頃ここへ移り住み、家内安全、病気平癒を祈る人が多かった。本尊の薬師如来は行基の作といわれています。

 

茶屋
旅人を泊めてはいけないと定めてありました。お茶を出し、あま酒・あじご飯・柿栗・駄菓子・ぞうり・わらじなどを売っていました。「みたけ屋」は特に餅がおいしく「餅屋勘兵衛」といわれていました。

 

毘沙門天
大井城の北の守りとして祀ったもので、その後位置がかわり現在の場所に移りました。

 

長国寺
行基が創建し根津甚平が再興したといわれる曹洞宗の禅寺です。
西行法師葬送の寺ともいわれ、西行の木像は兵火で焼失したものの、位牌は現在も残っています。

 

大井宿本陣跡
大名など身分が高い人が泊る家です。昭和二十二年の火災で上段の間のある建物は焼失しましたが、表門や庭園、老松は昔のままです。

 

内城稲荷
大井の城の守護神であったといわれ社前のひょうたん形の石は、武将吉村源斎が伊勢の川原でひろい「たばこ」の根じめに使っていたものといいます。

 

庄屋の家
大井村には井口・林・宮原・高木・村松・勝野・佐伯・古屋などの庄屋がありました。

 

桝型跡
幕府のお達しにより、宿場の道をわざわざ直角に曲げてつくった交通の要害です。宿内の六か所で折れ曲っておりこんなに数が多く整然としているのは道中一つです。

 

大井橋(大橋・中島橋)
巾二間・長さ二十三間のらんかん付の木橋でした。それより前は川の中央に石で小島をつくり、橋を二つかけていました。そのため「中島橋」といいました。

 

スポンサーリンク

 

 

「中津川宿」は45番目の宿場町 です。(岩村領)         

              ▲歌川広重「木曽街道六十九次・中津川」

 

美濃国恵那郡中津川村に存在した。
江戸方より淀川町、新町、本町、横町・下町と続き、本町に脇本陣があった。

 

 

近年、皇女和宮が江戸に降嫁(こうか)※6される際、中津川宿で食べた料理の文献が見つかり、それを忠実に再現したものが中津川市内の旅館で食べられます。

※6:降嫁とは、皇女や王女が皇族以外の男性に嫁ぐことをいう。特に内親王。女王が非皇族(臣下)に嫁ぐ場合を指す。

 

 

「中津川宿」(なかつがわじゅく)は中山道の45番目の宿場美濃国恵那郡中津川村(現・岐阜県中津川市)に存在した。

 

 

江戸方より淀川町・新町・本町・横町・下町と続き、本町に本陣と脇本陣があった。

 

近年、皇女和宮降嫁される際中津川宿で食べた料理の文献が見つかり、それを忠実に再現したものが市内の旅館で食べられる

 

 

 

東京方面に行くと45番目の宿場町「中津川宿」がある。

 

 

 

-中山道, 大井宿・本陣, 未分類

執筆者:

関連記事

岩村町の秋まつりは加藤景角と遠山景朝のまつりと岐阜県無形民俗文化財の獅子舞

岩村町の秋祭りは加藤景廉と息子遠山景朝の対面絵巻。 当時の衣装で城下町を二日間かけて繰り広げる。     八幡神社と武並神社のお祭り、この『岩村町の秋まつり』は、毎年 10月の第1 …

臨済宗妙心寺高層和尚・希庵和尚を襲撃した祟りで武田信玄の天下取りは幻に終わった

武田信玄があの時死ななかったら、天下を取っていただろうか?と記者は自問自答した。   嫌がる希庵和尚を無理やり自分の菩提寺の僧侶にしようと思ったことが運の尽き、希庵は頑として断ったため信玄は …

岩村城の女城主「おつやの方」絶世の美女の悲劇的な生涯、織田信長と武田信玄に翻弄される。

おつやの方とは?織田信長の祖父の子で叔母である、お市の方も叔母にあたる。 淀君・妹に初(京極高次の正室)と江(徳川秀忠の正室)とも血縁関係がある、おつやの方という人物が遠山氏最後の城主の正室であった。 …

鎌倉時代にどうして岩村に城が築かれたか?

岩村城に加藤景廉が登場した経緯、源 頼朝から遠州浅羽、伊豆牧之郷等と美濃国岩村の所領を与えられる。   加藤景廉(1166年〜1221年)は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけた武将で鎌倉幕府 …

気になる大給松平家の岩村藩と西尾藩の関係とは?

名鉄新安城駅から本線から別れていく三河線の途中にある西尾市、駅からさほど遠くないところにある西尾城。 三河国の西尾藩と岩村藩の関係。 西尾藩は、幾たびか城主が替り廃城となったりしても、大給松平家が江戸 …

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。