美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

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11代将軍・徳川家斉の孫娘・釣姫が岩村藩に御輿入れ!しかし悲劇にあう

投稿日:2018年1月1日 更新日:

 尾張藩62万石のお姫様が、わずか3万石の小藩の殿さんのもとへお嫁入りされた。

その父上は・名古屋城主徳川斉荘、その父上が、なんと第11代将軍・徳川家斉です。

 

江戸城・名古屋城の徳川家と親戚になった岩村藩

 

 

 

 

将軍・徳川家親戚筋になった美濃国岩村城釣姫さまの嫁入り物語。

 

 

釣姫(ちょう姫)は、尾張徳川家12代斉荘の四女の姫様として生まれ。

 

 

名古屋藩主12代斉荘(なりたか)は文化7年、6月13日に11代将軍徳川家斉の12男として、母お長の方(側室)の間に生まれ、幼名を要之丞。
12代将軍は側室お楽の方と間にできた家斉の次男徳川家慶です。

 

 

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1810年(文化7年)6月13日父である将軍徳川家斉の御台所近衛只子寔子(広大院)の養子となる。

 

1813年(文化10年)12月25日田安斉匡の養子となる。

1820年(文政3年)6月5日に元服、父家斉から偏諱(へんき)を与えられ斉荘 と名乗り、従三位に叙し、左近衛権中将に仕官し、右衛門督を兼任する。

 

1829年(文政12年)7月5日参議に補選。

1836年(天保7年)8月21日権中納言に転任。

1839年(天保10年)3月27日尾張藩主になる。

12月16日従二位に昇叙、権大納言に転任。

1845年(弘化2年)7月6日薨去。(この字を使うことは→身分の高い人の死、日本では皇族および三位 以上の人の死のこと)※日付は:旧暦です。)

 

 

※名古屋城主初代松平家の徳川義直・2代光友・3代綱誠・4代吉通・5代五郎太・6代継友・7代宗春・8代宗勝・9代宗睦・10代斉朝・11代斉温・12代斉荘(この方が釣姫様の父上)・13代慶臧・14代慶勝・15代茂徳・16代義宣まで続いた。

 

 

釣姫様嫁ぐ先が、なんと驚くなかれ62万石から3万石の美濃国岩村城の松平乗命(のりとし)のもと、岩村藩主第7代最後の大給松平家8代。

 

 
▲徳川家康が造った平和のシンボルの名古屋城         ▲金のシャチホコ 

   

 

ここで松平乗命(のりとし)の生い立ち:嘉永元年(1848年)6月13日、第6代藩主松平乗喬の次男として生まれる。

 

 

安政2年(1855年)父の死去により七歳で家督を継ぐ。

万延元年(1860年)12月に従五位下・能登守に叙位※1・仕官する。

元治元年(1864年)に大阪加番に任じられ、慶応2年(1866年)の第2次長州征討※2にも参加している。

慶応3年(1867年)7月に奏者番※3に任じられ、12月陸軍奉行に任じられている。

 

 

しかし幕府要職にありながら、慶応4年(1868年)2月にあっさりと新政府に恭順(恭順とは→命令に対してつつしみ従うこと。かしこまって従うこと)してる。

 

明治2年(1869年)6月の版籍奉還岩村藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月の廃藩置県藩知事を免官※4された。

 

明治17年(1884年)の華族令で子爵で列せられる。

 

明治38年(1905年)11月15日東京で58歳で死去する。

 

 

※1:国家または公共に対して功労のあった者が死亡した場合には、その生前最後の日(ご逝去日)にさかのぼって叙位・叙勲が行われ、同時に位階が授与されます。

※2長州征討(ちょうしゅうせいとう)は、元治元年(1864年)と慶応2年(1866年)の2回にわたり、江戸幕府が長州藩の処分をする為に長州藩領のある周防国、長門国(以下、防長二洲と記す)へ向けて征討の兵を出した事件を指す。
長州征伐、幕長戦争、長州戦争などとも呼ばれてる。

特に慶応元年(1865年)5月の江戸幕府14代将軍徳川家茂の進発(出陣)に始まり、慶応3年(1867年)1月23日の解兵令に至る第二次長州征討は「長州再征」とも呼ばれ幕末政治史上の一大事件となったが、長州側の立場から当該事件を歴史的 に捉えた場合は四強戦争と呼ぶ向きもある。

※3:江戸幕府および藩の役職の一つ、城中における武家の礼式を管理すること。

※4:官職をやめさせること。

 

 

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尾張徳川家12代徳川斉荘の四女の釣姫(ちょうひめ)がお輿入れ。

明治3年(1870年)の秋ころ、岩村城主松平乗命(のりとし)の基に、突然釣姫のお輿れの話が持ち上がりました。

 

 

その年の12月に正式の使者の方が岩村藩に到着して、岩村城藩主邸で家老味岡大参事が責任者として逢って対応しました。

 

 

あまりにも段違いの縁談話しのため、ただただ平身低頭でお輿入れされる姫さまの名を聞くのを忘れ使者の方が帰ってから書状をみてビックリ仰天「釣姫」さまがお越しになると場内に伝えました。

 

【余談ですが】岩村では釣姫のことを「きん姫」と読んでるが、「鈞姫」の漢字はこれ。
       これだったら(きんひめ)でいいんですが正式の名前は「釣姫」という漢字                                 名ですから(ちょうひめ様が本当)です。

※上記の蝶姫をクリックして頂くと別の記事が書いてあります。

 

 

明治4年(1871年)1月14日の早朝名古屋城から嫁入り行列が岩村城に向かって出発しました。

 

 

徳川御三家名古屋城62万石のお輿入れだから格式が違います、その行列は目を見張るもので人数は、尾張藩の侍85人と岩村からの出迎えの役人、あとは駕籠、長持ち等の人足ら総勢で800人豪華絢爛の長い行列が続いてました。

 

 

 

 

 

釣姫様は葵の紋が入った新調の漆塗り御駕籠に乗って、両脇をお付きの女中が守っての長旅でした。

 

 

大曽根・多治見と通って、土岐の高山宿本陣でお泊りになって、翌朝下街道さらに大名街道(竹折・野井・塔ケ根)から岩村城下へお着きになりました。

(※宿泊された宿帳は土岐市教育員会保存の「釣姫様御通行諸事簿」高山本陣御深萱惣助宅に女中8名との宿泊が記録されています。

岩村藩領内には釣姫さまをひと目見ようとす る人達が衣服を改め沿道でひざまずいてお出迎えしました)
 

 

せっかく尾張名古屋から興し入れしてきたのに、釣姫(ちょうひめ)だけど新調してきた漆塗り駕籠長旅、漆かぶれてしまわれ、岩村城着いてまもなく熱を出し発病されてしまったのです。

 

 

御典医の手厚い看病にも及ばず岩村にきて、わずか3ケ月目遠い黄泉の国(よみのくに)へと旅立たれたのです。
殿様をはじめ、家来衆・領民一同悲しみに包まれたことは言うまでもないことです。

 ▲説明文は案内看板より引用しました。

   

お墓(上記の写真)には「清月院徳川氏諱釣墓」と書いてあり(「諱』を辞書で調べると→ひらがなで「いみな」と読む、人の死後にその人を尊んで贈る称号。諡(おくりな)と書いてある。)

 

 

裏側には【「夫人は諱を釣といい、徳川斉荘卿の4女、明治4年正月に岩村藩知事松平乗命(のりとし)公に嫁いだが、いくばくもなく病で亡くなられた。4月16日30歳、岩村の西にある隆祟院に葬る】と刻んであります。

 

 

ここからは岩村町の歴史探索をして見える西尾清二さんの言葉です。
岩村町史には、この釣姫(ちょうひめ)様のことは、僅かしか書かれていませんが、当時はまだ明治維新ちょんまげ姿の人ばかりでしたから、天下の徳川御三家尾張藩から岩村の小藩へのお嫁入りは世間に広く話題になりました。

 

 

釣姫(ちょうひめ)様の終生のお世話を願って尾張名古屋城から付き添ったお女中「稲垣岸野」は墓地のある隆祟院に供養堂を建てて墓守りをしました。

 

 

遺品の中には君が代刺繍された打ち掛け文机、お膳、湯桶、薙刀、雛道具など紋入りの立派なもので、岩村城下町の有力者等に形見分けされました。

 

 

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