美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

岩村城

鎌倉時代に頼朝に守護地頭を補せられた加藤景廉は遠山荘を嫡男・景朝に任せた

投稿日:2022年8月21日 更新日:

   頼朝武家政権をつくって、それぞれの国に守護地頭をおいた。

そんな守護地頭の一つに恵那地方の遠山荘を加藤景廉が任された

 

 

守護とは、軍事や警察に関する役目、地頭とは荘園ごとに置かれ税の取り立てを主にする仕事でした。

税務署のような仕事です。

 

 

加藤景廉は恵那地方一帯の役目を担いました。

でも加藤景廉頼朝の重臣で鎌倉を離れることが出来ず、嫡男・加藤景朝を岩村に住まわせ城を築かせた。

 

 

岩村城の祖は加藤景廉だけど、この遠山荘の繁衍に力を注いだのは嫡男・加藤景朝で、のちに遠山景朝と改名遠山氏の始祖となった。

 

 

その後、明知城・苗木城・飯羽間城等を造り一代勢力に発展していった。

 

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鎌倉から戦国まで388年間遠山時代は続いた

徳川時代267年間も太平の世が続いたが、遠山時代でも岩村遠山時代は文治元年に遠山荘の守護地頭を補せられてから天正元年(1573年)まで388年間続いた。

 

 

岩村城創業のときからは、遠山氏は次第に繁衍していき遠山荘内に、子孫が各拠するようになった。

 

 

室町初期には十八子城※1があり、いずれも遠山一族が守っていた。

※1.十八支城とは、阿木城(別名:堀田城)明知城(別名:白鷹城)阿寺城、飯羽間城、漆原城、大井城、太平城、小原城(別名:合渡城・中山城)尾原城(巌邑府誌では:大波羅城・大羅城)落合城、柿畑城、霧ヶ原城、久須見城、米田城、神篦城(別名:鶴ヶ城)河手城(巌邑府誌では:河野・香野、豊田市)佐々良木城、瀬戸崎城、千旦林城、高山城、妻木城、督ノ城(別名:中津川城)苗木城(別名:赤壁城・高森城・霞ヶ城)野井城、馬籠城(別名:丸山城)丸山城、椋実城(別名:婪峰城)山室城(別名:下村城)となっています。

※上記の明知城をクリックすると詳しい記事があります。
※上記の苗木城をクリックすると詳しい記事があります。
※上記の飯羽間城をクリックすると詳しい記事があるます。
※上記の阿木城をクリックしすると詳しい記事があります。

 

 

その範囲も広く恵那郡の全円及び木曽及び土岐の一部に及んでいた。

かくして土岐氏と並んで美濃の豪族で在った。

 

 

それを打ち破ったのが武田信玄の臣・秋山晴近に城を奪われた。

元亀3年突如として武田信玄の臣・秋山晴近の侵入により、遠山一族も大打撃を受け、翌・天正元年には岩村城秋山晴近に攻められ、女城主だったおつやの方の応戦も虚しく遂に本家岩村遠山氏は滅亡してしまった

 

 

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岩村城の祖・加藤景廉

始祖たる加藤景廉源頼朝の功臣で、頼朝の伊豆挙兵に抜群の功績を挙げて以来絶えず頼朝及び頼家、実朝の側近に奉仕していたので、鎌倉を離れて岩村へ来れず住んではいない。

 

 

従って景廉の岩村城築城ということには疑問がある。
尚、景廉が遠山荘地頭に補せられたのも、文治元年説と建久六年説とがある。

 

 

それも確たる証拠があるわけではない。

文治元年説は東鑑に頼朝が諸国に守護地頭を置いたとあるものであり、建久六年説は遠山譜の説で

 

 

建久六年に頼朝奈良東大寺供養参列のために景廉等を伴って上京した、この折遠山荘地方因縁がある景廉にこの地方を通過して之を与えたということである。

 

 

景廉が地頭として与えられた荘園は全国に数ヶ所あり遠山荘だけではないから、景廉としては遠山荘に住まねばならぬ理由がない。

 

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遠山景朝と跡を継いだ遠山氏

しかし」嫡男・景朝遠山荘地頭世襲して住んだことは確かで、承久の乱のとき北条泰時の軍に従って上京し、戦い終わって一条信能を伴って来り、ここ岩村の地の合原で首を刎ねたことは東鑑にも承久記にも記載されており、遠山の姓も既に称している。

※上記の一条信能をクリックしていただくと詳しい記事があります。興味ある方は読んでください。

▲承久の乱で連行され、この場所で処刑された一条信能が祀られている巌邨神社

 

 

この頃父・景廉は存命していたのであるから、加藤景廉は遠山荘地頭には補せられたが、現地に就任したのは嫡男・遠山景朝が始めてであったと考えられる。

 

 

現在岩村で景廉を祀る城山八幡社(今は移され上町にあります)と、景朝を祀る武並神社とが共に祖神としている。

      ▲岩村城内にあった場所

   ▲図面に色を付けたものです。

 

   ▲現在の八幡神社の入り口です。

 

 ▲遠山景朝が祀られている武並神社の参道

 

※ここに八幡神社と武並神社の記事があります。岩村町では秋祭りとして第一の土日行われます。記事がありますので興味ある方は読んでください。

 

 

もし景廉がここへ来た祖先ならば、武並神社を祖廟とする理由がないかである。

 

 

従って遠山荘地頭としての祖先は景廉であり、遠山荘に住み遠山氏を称して、ここ岩村に城を築いたのは景朝であったということになる

 

 

今一つの問題がある。
遠山荘は荘園である。

 

 

荘園とは私有地であって領主又は本所というものがなければならない。

地頭というものは、そういう荘園に置いた官職であるからである。

 

 

しかるにその領主が何にであったか分からないのである。

或いは地頭即ち領主でなかったかかという事が考えられる。

 

 

岩村町字名に領家という所がある、そこに領家八幡址がある。
この八幡は城山八幡の元社あるという。
府誌にもその事がある。

 

 

そうするとこの領家は遠山氏を指しているようである。
現在岩村では加藤景廉を以って、この地方の開拓祖先としている。
決して別に領主なるものを伝えていないのである。

 

 

遠山景廉がここに住んでから遠山氏の子孫は次第に繁衍し郡内全円に及んだ。

 

 

岩村が中心であったことは確かであるが、明知遠山氏も早くから独立していた。

 

 

そして室町時代は足利方に仕え、明知遠山氏中心の諸村の地頭職に代々補せられている。

 

 

これに対し岩村遠山氏は主として南朝に奉仕したらしい。
かように遠山氏は繁衍したが各々独立していた。

 

 

本家岩村遠山氏はやはり一大勢力であったことは巨刹大圓寺を創立し、高僧・峯翁禅師を迎えている。

※上記の大圓寺をクリックしていただくと大圓寺の記事だあります。興味ある方は読んでください。

 

その後も明淑禅師、希菴禅師というような名僧を迎えていることはそれを証明している。

 

 

大圓寺は、当時美濃随一の大寺で、これに比するものは、虎渓山永保寺(現在も多治見市にある)があったが、これも土岐氏の勢力によるものであった。

▲上記の写真は大圓寺跡の石碑と標記看板です。

 

 

遠山氏歴代の中でも遠山景前は名君で仏教の信仰も厚かった。
明淑禅師希菴禅師を招聘したのは遠山景前であった。

※上記の希菴禅師をクリックしていただくと、武田の家臣・秋山晴近によって大圓寺が焼却され、信玄の命で希菴禅師が暗殺される記事があります。興味ある方は読んでください。

 

 

戦国時代に入って織田信長遠山氏の勢力を知り、これを利用して叔母であるおつやの方遠山景任政略結婚させて武田方の前衛としようとした。

 

 

鎌倉末期から室町時代にかけて遠山一族の栄えていたことは、当時の京都に於ける日記や番帳その他の記録類に盛んに出ているいることで分かる。

 

 

 

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東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。