美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

阿木城

中津川市の阿木城は岩村城を守る遠山十八城の一つであった

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 阿木城跡ってどこにあるんですか?という質問がよくあるんですが、
阿木字大門前(見沢地区)にあります。

 

 

阿木八幡神社裏の小高い山が阿木城跡です。

登り口は恵那ディーゼル横の道を野内の方へ上がっていくと右側に見沢のお墓があり、そのお墓を通り越したすぐ左側に阿木城跡の標柱があります。

 

 

そこが阿木城跡への登り口です。

さて阿木城ですが、岩村城主・遠山景長の頃(1330年頃)分家したと思われます。

 

 

この後、いつの頃か堀田土井守という者が見沢に住んでいて阿木城を守っていたとされています。

 

 

また、久須田にも少しばかり高い土地に屋敷跡があり、堀田といっています。

 

 

そこから一直線に阿木川を渡り八幡神社に通じる道があったようです。

 

 

今でも堀田屋敷と八幡神社の中間地点に鳥居が建っています。

堀田氏は阿木城に立てこもり武田軍と戦いましたが、武田の軍勢になんなく敗れ、城も焼かれてしまいました。

 

 

岩村城も武田軍の手に落ちました。
その後は織田、徳川時代と移り変わり、徳川時代にはお城は使用されず代官所が置かれました。

 

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阿木城の立地

阿木川の右岸の丘陵地の小山標高541m、比高90mに立地します。

阿木城のある地域は中津川や恵那方面からくる街道が集まる所で岩村の北辺に位置する軍事的要術になり、東濃に動乱が続いた時代には重視された地域です。

 

 

城跡は阿木地区の中心部の城ヶ峰と呼ばれる山に城はあった。登路は南の尾根先の林道端に登山口の標識があり良い道が残っています。

 

 

城ヶ峰と呼ばれる城山の南側登口には多数の出曲輪が置かれており、上部には本曲輪、二ノ曲輪、腰曲輪などが見られる。また山の中腹に岩村八幡神社から勧請された八幡神社が祀られている。

 

 

 

城主と城履歴

戦国時代に岩村遠山氏が岩村城防衛のために建てた遠山十八城の一つで、一族の安木遠山氏の居城であったが、岩村城が武田方の家臣・秋山虎繁(信友)に落とされた後は織田・遠山方の最前線基地として整備されていた。

 

 

『恵那郡史』天正15年によると、天正元年織田信長が岩村城の押さえとして築いた十八砦の一つされ『丹羽氏聞書』の中の「岩村近辺城主覚」によると「阿木村の戸田甚左衛門殿被居申候。」とある。

 

 

また、『岩村府誌』では大藤権充、堀田某を城主として載せているが、細かいことに継いては史料等なくはっきりしない。

 

 

ただ、天正2年(1574年)2月武田勝頼は大軍を率いて美濃に侵入し、中津川の諸城大井城の恵那郡の南部土岐の城砦は武田の手に落ち明知城、飯羽間城も落城している。

 

 

従って、当然阿木城も武田の手中にあったものと思われる。
その後復興することはなかった。

 

 

この時代が武田氏の最も勢いあった頃で、織田信長は土岐の諸城を修復して河尻慎吉(後に岩村城主になっている)に守らせて防衛線を後進させている。

 

 

この時に信長の築いたとする十八砦の多くは武田の手の中に落ち、阿木城も武田しにより手を加えられて岩村城の防衛線の一環に組み込まれたものと思われる。

詳しいことはわからない。

 

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城跡

山頂の主郭1は千畳敷と呼ばれ直径50mのほぼ円形をしていて、東西2ヶ所は枡形虎口の痕跡と思われる窪地があり登路がある。

 

 

城ヶ峰と呼ばれる城山の南側登口には、多数の出曲輪が置かれており、上部には本曲輪、ニノ曲輪、腰曲輪などがあった。

 

また、山の中腹に岩村八幡神社から勧請された八幡神社が祀られていた。

 

 

周囲は8mの切岸※1が取り巻いていて、主郭を2と3の曲輪が全周している。

※1.切岸(きりぎし)とは、山腹を垂直に削り人工の岸としたものを切岸といい、切通しや堀割などと同様に、敵の侵入に対する中世の防御施設です。

山や海といった自然の地形を利用し、まち全体を城に見立てて鎌倉のまちは造られたといわれます。

 

 

2は幅広く3は最大幅m平均数mの曲輪で、所々に土塁が残っているので、往古は横堀状に土塁が連続していたことも考えられる。

 

 

西側へ延びる主尾根には、千段の腰曲輪の下に11mの㋑の堀があり、その下は地山になっている。

 

 

後背部に当たる東の尾根には、東側から登る道があり、そこに上幅14mの本城最大の堀㋒があり、続いて上幅の㋓の堀で搦手筋の尾根続きを遮断している。

 

 

殊に㋒の堀の内側の壁は10mあり、しかもこの堀は逆くの字に折るこによって、東の尾根との間を断ち切り、北野の斜面へ竪堀として長く掘り下げることで、北の斜面への侵入を防いでいて、なかなか巧妙な縄張りである。

 

 

東尾根の最下段6の曲輪は㋒の堀との間は竪土塁で守まれ通称「イドツクリ」といわれる場所であるために水の手曲輪であった可能性もある。

 

 

大手は現在登山路のある南の尾根で、南からの道は、やがてAの地点で道は直角に折れて、二つの曲輪の間を抜ける。

 

 

東側の曲輪は道に面して、土塁状高まりがあり大事な防御点となっていて、ここに城門があったものと思われる。

 

 

道は西側へ竪堀を設けた所を過ぎて、直角に曲がって進むがこの時に左右の曲輪がから常に横矢を受けることになる。

 

 

北側上部の4の曲輪と東へ進む7の曲輪へ分かれる。

4へ入った道は西の尾根筋あるいは3へ登り、この道は北側上部の4の曲輪と東へ進む7の曲輪へ分かれる。

 

 

4へ入った道は西の尾根筋あるいは3へ登り、この道は3を西から北へ回り込んで北の虎口から主郭1へ入る。

 

 

7を東へ進むとこれは搦手あるいは2を経て、南の虎口から主郭1へ達する。こうした順路の所々には関門があったと思われる箇所があり、主郭1へ辿り着くことは困難である。

 

 

阿木城の特色は主廓1が広大な円形をしていて、それに取り巻いて2と3が全周している。

 

 

ここだけ見れば、まさに「円形の得」で、どこにも死角がなく最も守り易い縄張りで、これを中心に三方向に派生する尾根上に曲輪や堀を配して備えている。

 

 

いってみれば単純な縄張りといえ、その点特異であると同時に築城者の力量がよく出た城として貴重な遺構といえる。

立地からしても岩村城にとって大事な城であったと思われる。

 

 

-阿木城

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。