美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

遠山十八城 飯羽間城

飯羽間城の場所は岩村城の西北にある支城の中でも最前戦城であった

投稿日:2022年6月1日 更新日:

 飯羽間城には、伝説“姫塚”という話が伝わっております。

上飯羽間に姫塚と呼ばれる塚があります。

 

 

もともとは五輪塔(上から空、風、火、水、地を合わせた石塔)、いまは塔身の水のみを残し、左右に立派な供養塔が残っています。

▲この五輪塔は岩村藩・松平家のを参考に載せました。

 

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『姫塚の由来の伝説の話』
一説は、天正二年(1574年)武田信玄軍の攻撃により飯羽間城は落城していまいます。

城主に幼い姫がいましたが、里人たちはこの姫を憐れんで武田軍から匿いましたが、間もなく姫は父の死を悲しみ抜いて死んだので、ここに葬ったそうです。

 

もう一説は、木曾義仲に菊姫という妹がいましたが、義仲の死後遠山荘の一寒村に隠れて住みました。

 

菊姫は美しく、妖艶で有名な武将の妹ということで里人は大切にしました。

 

菊姫が亡くなると塚を築き丁重に弔ったといいます。

     ▲イメージ

 

※どちらの説にせよ、悲しい話の姫様を供養した塚です。

という飯羽間城です。

 

 

場所は岩村町飯羽間という地区で、岩村城(東にあります)それの反対側西北で山岡町久保原に行く道沿いにあります。

 

 

創築年代は鎌倉時代末期(1330年頃)、創築者は遠山氏で個人名は不詳です。城の形式は平山城、遺構は曲輪・土塁・堀切・竪堀、規模は280m×370mです。

 

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岩村城の最前線として築かれた城

 

    ▲遠山十八条

 

飯羽間城岩村城の西北にある支城です。

▲飯羽間城です。写真に向かって右に回って真っ直ぐ進めば姫塚に行きます。久保原に行くには、右に回って直ぐを左折すれば行きます。

 

岩村本城の創築は、文治元年(1185年)に、源頼朝の重臣・加藤景廉が遠山荘の地頭に補されたに始まり、景廉の子・景朝は地名をとって遠山姓を名乗った。

※上記の加藤景廉をクリックして貰えば詳しい記事があります。興味ある方はご覧ください。

 

 

遠山氏は岩村を宗家とし、一族を次々と分派させ、恵那郡各地に築城とて支城とし、勢力地盤の拡大を図った。
いわゆる遠山十八城である。

 

 

その中で、岩村・明照・明知・飯羽間・串原・苗木・安木の有力なものを遠山七頭(七遠山)といい、さらに岩村・明知・苗木遠山三家と称され、最も親密な間柄であった。

 

 

これら支城は、お互いに連携をとりつつ本城の外郭防衛線を形成していたが、飯羽間城は岩村本城に最も近距離に位置した重要な支城であった。

 

 

したがって元亀元年(1570年)より始まった武田信玄の東濃侵略に際して、他の支城と同じく攻略され、城主・遠山右衛門尉は捕われたが、武田に忠誠を誓い許された。

 

 

岩村城が武田の武将・秋山伯耆守信友に奪取され、美濃侵攻の本営となったので、各支城はそのそのまま立場を変えて、今度は武田の前進拠点となった。

※上記の秋山伯耆守信友をクリックしてもらうと、武田軍の非道で遠山氏の菩提寺・大圓寺の和尚希庵和尚を殺害の記事があります。興味ある方は読んでください。

 

 

天正元年(1573年)4月信玄が没した。

同3年武田勝頼を長篠合戦で大破し、勝利を収めた信長は、ようやく反撃に転じ、織田信忠を総大将とする大軍を東美濃に出陣させ、武田勢の立てこもる支城を次々と攻撃して回復し、岩村城を包囲、ついに岩村城を奪還した。

※ここに織田信忠が岩村城を攻めた時に陣を張った丘を大将陣といいます。詳しく書いた記事があります、大将陣をクリックして読んでください。

 

 

秋山伯耆守信友と信長の叔母・おつやの方夫婦を捕らえ、ここに東美濃より武田勢を完全に駆逐することができた。

また、上記の秋山伯耆守・おつやの方をクリックしてもらうと詳しい記事があります。

 

 

精鋭を誇った武田の騎馬軍団も、長篠の敗戦を境に威力を失い、戦線を縮小し兵を収めて撤退せざるを得なくなった。

 

 

天正10年3月、信長は武田征伐を開始、信忠を先鉾総大将とし織田・徳川連合の大軍を信濃へ出発させ後詰めとして信長もまた3月岩村城に着陣して総指摘にあたった。

 

 

この時、先に武田方に寝返った飯羽間城主・遠山右衛門尉は引き出され、坂井越中守の手にかかって処刑された(信長公記)。
飯羽間城はこの戦いが終わると廃城となった。

 

 

 

飯羽間城の役目縄張り

飯羽間城は、岩村城の北方大手筋を扼し※1、明知・苗木城との繋ぎの城としての役割を持つ重要な城であった。

※1.扼し(やく)とは、強く押さえる。締めつける。要所を占める。の意味。​​

 

 

岩村川とその支流飯羽間川の左岸の低い山に築かれた平山城で、守りの城というより、むしろ野戦攻撃拠点として有効な城であった。

 

 

城山は主郭のある山と、その南側に尾根が続いた小山からなり、その間に東向きに間口した洞があり、大手口となっている。

 

 

祠の右手(北)には主郭部から、張り出した尾根に段郭状の大手曲輪があり、左手(南)の小山には帯曲輪状に上下二段になった出曲輪があり、ともに大手口を挟んで向かい合っている。

 

 

大手道は祠の中へ通じ、斜面を屈折して上がると三の曲輪に達し、二・三段の帯曲輪状の削平地が東西に細長く伸びている。

 

 

上段には土塁があって二の曲輪と区画され、土塁中央に虎口がある。
また、三の曲輪東側の西南に一段高い一の曲輪があり、北側に低く北の曲輪が配され、その西方に搦手曲輪がある。

 

 

また、三の曲輪西側から出曲輪に至る馬の背状尾根には三ヶ所の堀切が認められ、出曲輪の周囲に四条の竪堀があり、大手筋の防備を強化している。

 

 

外観は小山であり規模も小さいが、縄張には細心の配慮がなされ、曲輪周りの切岸も急傾斜で小ぢんまりした堅城である。

 

 

 

-遠山十八城, 飯羽間城

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