美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

源義経の愛刀・愛馬

義経の愛刀の名前を徹底調査!自害した短刀の名前は?

投稿日:2022年6月6日 更新日:

   源義経といえば、牛若丸
牛若丸といえば、源頼朝の弟で平家を滅ぼし活躍した人物です。

義経の愛した刀の名前を徹底調査!自害した時の短刀の名前は?

その牛若丸の父・源義朝が平治の乱で殺害され、鞍馬寺に預けられて武芸を習得し、京の五条の橋で弁慶なる人物が1000本目の刀を奪うために牛若丸に戦いを挑むが負けて牛若丸の家来になってしまう。

 

 

源頼朝より義経の方が、今でも人気があるのはなぜか?
戦ったのは義経だからかもしれない。

 

 

宿敵である平家との戦いで愛刀膝丸/薄緑を使って平家をバタバタ倒した刀を持っていた。

 

 

義経と、我が岩村城の祖である加藤景廉とは同じ頼朝に仕えていたから顔見知りだった。
鎌倉幕府を創った兄より人気のあった義経。

 

スポンサーリンク

 

 

太刀の名は初めは膝丸/薄緑は義経が付けた名前

源九郎義経は、1159年5月9日(保元4年4月20日)誕生、平治と改元される。

 

 

父・源義朝、母・常盤御前との間に生まれる。
幼名は牛若、幼き牛若は京都鞍馬山の鞍馬寺に預けられて名を沙奈那王とされた。

 

 

そのうちに自分は源氏の一人である事を知り、憎き平氏を倒すために武術に励んで行く。

 

 

後に鞍馬寺を脱出して、母の知り合いの奥州・藤原秀衡の下に駆けつけ平泉で過ごした後、兄・頼朝が挙兵したとと聞き数名の家来・弁慶を引き連れて駆けつけ、頼朝軍に参戦して平家に勝利する。

 

 

後白河法皇より検非違使※1の任官を受けるが、このことで兄・頼朝の怒りをかい追討される。

※1,検非違使(けびいし)とは、平安時代初期以降主として京中の非違を検察するため設けられた令外官(りょうげのかん)。左右に分かれ、その役所を検非違使庁、略して使庁という。
使庁は衞門府(えもんふ)に置かれ、使官人も原則として衞門府官人が兼帯した。

 

 

藤原秀衛を頼って奥州平泉に落ち延びるも、藤原秀衛の死後、嫡子・藤原泰衛により攻められて、衣川館で自害し享年31歳だった。

 

スポンサーリンク

 

愛刀薄緑

義経が戦いに用いたのが、愛刀「薄緑」と伝えられています。
長さは2尺7寸(約80㎝)の優美な太刀で、初めにつけられた名前は「膝丸」です。

 

 

義経の先祖・源満仲は、天皇より国を守護するよう命じられ、それ相応した刀を持つために、筑前国三笠郡土山(現・福岡県西部)から優れた刀鍛治を招聘して、思い通りの刀が打てるよう八幡宮に祈願した。

      ▲義経の先祖は天皇だった。

 

刀工は2振り仕上げ、罪人の首を斬って試し斬りをして、一振りは膝まで斬れたため「膝丸」と名付けられ、もう一振りは髭まで斬り落としたため「髭切」と名付けられた。

 

 

 

膝丸は鬼退治にも出てくる

源頼光の逸話話にも登場します。
頼光が※2を患って伏せていたところ、身の丈7尺(約21m)の怪僧が現れ、縄を放って襲いかかってきました。

2.瘧(おこり)とは、間歇(かんけつ)熱の一種。多くはマラリアを指す。

 

 

源頼光が病を押して「腰丸」を振るうと怪僧の姿は掻き消えてしまいます。

 

 

駆けつけた重臣の四天王が血の跡に気づき、後を追うと、北野天満宮(京都市)の裏手にある塚で全長4尺の巨大な土蜘蛛を発見して殺し河原に晒した。

 

 

すると頼光の病が癒えたため、土蜘蛛を退治した「腰丸」のは「蜘蛛切」という号が与えられました。

 

 

蜘蛛切(膝丸)と髪切が源為義(上記の図参照)に受け継がれ、ある夜2振りの太刀が突然吼え出し、蜘蛛切は蛇のように鳴ことから「吼丸」「鬼切」(髭切の別名)は獅子のように鳴くので「獅子の子」と号を改めました。

 

 

その後、「吼丸」源為義から娘婿である熊野別当:熊野三山の統括者)の「行範」への婚礼の引き出物として贈られた。

 

 

貰った行範※3は、この刀は「代々源氏に伝わる刀なので、自分が持つものではない」と思い熊野権現に奉納した。

※3.行範(ゆきのり)とは、​​​​第19代熊野別当(熊野別当とは、9世紀から13世紀後半にけけて、現地において熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の統括にあったた役職。役職名自体は14世紀前半まで存続したが、熊野三山の統括職とそて内実は13世紀後半までのことであり、14世紀にはその職は実態を失っていた。

 

 

義経が譲り受けたのは、この熊野権現に奉納された「吼丸」だった。

熊野別当を継承していた源為朝の孫にあたる湛増(たんぞう)は、義経の出立に際してはるばる都へ上り、「私の母方の血筋である源氏の世になることは素晴らしい」と告げて活躍を願うと、「吼丸」を渡しました。

 

 

それを貰った義経はたいそう喜んで「薄緑」という名をつけたそうで、『平家物語』『剣巻』をみると次の一文があります。

 

 

義経が薄緑と名前をつける

薄緑は,「平治物語」「平家物語」「源平盛衰記」「太平記」に,源義経の刀として登場する。

 

 

義経が牛若丸と名乗っていた時代に熊野別当から受け継いだ刀で,義経は幾多の戦で薄緑を振るったとされている。

 

 

ちなみに薄緑という名は義経が付けたそうで,「平家物語」「剣巻」を見ると次のような一文がある。

 

 

「熊野より春の山分けて出でたり。夏山は緑も深く,春ほ薄かるらん。されば春の山を分け出でたれば,薄緑と名付けたり。この剣を得てより,日来は平家に随ひたりつる。山陰/山陽の輩,南海/西海の兵ども,源氏に付くこそ不思議なれ……」。

 

 

薄緑を授かった熊野の自然と,義経の感慨が読み取れるネーミングである。

 

スポンサーリンク

 

 

愛刀 “今剣”は三条宗近作

三条宗近の作風は、板目肌がよく約み、地沸がつき、小乱れ刃、匂が深く小沸がついて、三日月形の「打のけ」と称される刃文などが見られる。

 

 

義経が自刃したときに使った短刀は,今剣(いまのつるぎ)と呼ばれる短刀でした。

 

 

製作者は小狐丸と同じ三条宗近、伝説の名工である。

資料を調べると,今剣は最初から義経のものとして作られたわけでなく、鞍馬山を祈願のために訪れた宗近が奉納していったものでした。

 

 

奉納されたときは六尺五寸(約195センチ)もの刀で,今剣という名前は奉納時に僧侶がつけたものらしい。

 

 

経緯は不明だが,やがて今剣は義経のものとなり,守り刀として義経の懐にあったという。

 

 

あまりにも資料が少ないうえに,今剣が現存していないのでなんともいえないが,奉納時は六尺五寸だった今剣は、義経の最期では短刀になっているため,おそらく初期の太刀としての今剣はなんらかの事情によって折れたか,当時の義経には大きすぎたため作り直されたと思われる。

 

 

 

しかし作り変えられたといっても宗近作刀だっただけに,かなりの業物であったと推測できる。

 

 

 

また注目したいのが,守り刀という点。今剣は戦場で振るうためではなく義経を守護する,霊的?な刀として存在していたというのだから興味深い。

 

 

伝説の名工が鍛えて神仏に奉納したとすれば,確かに守り刀としてはうってつけである。

 

 

なにかしらの加護があってもよさそうだ。義経といえば壇ノ浦では船から船へと飛び移って戦う八艘跳びや,一ノ谷では崖を駆け降りて敵陣を奇襲するなど,当時の常識ではありえない戦略/戦術を駆使して戦ったことで有名だが,源氏を勝利に導いた義経の功績の陰には,今剣の力が作用していたのかもしれない。

 

 

最終的に義経は自害してしまったので,守り刀としての能力に疑問が残らなくもないが,好意的に解釈するならば今剣が最期に守ったものは、義経のプライドであったのかもしれない。

 

 

 

愛馬 “太夫黒”

日本史の中で最も有名な駿馬で、千厩産だったといわれる。

治承四年(1180年)、平氏追討を目指した兄・頼朝の挙兵を知った義経は、平泉から鎌倉へと出発する。

    ▲藤原秀衡から贈られた愛馬「薄墨」から「太夫黒」

 

この際、藤原秀衡が、はなむけとして贈った自身秘蔵の愛馬が「太夫黒たゆうぐろ」で、初めは「淡墨(うすずみ)」という名だった。

 

 

この馬が歴史に残る働きを見せたのが「一の谷の戦い」で世にいう鵯(ひよどり)越えの逆落としの場面である。

 

 

人馬一体となった奇襲戦術で名をはせた義経は、その後、検非違使(けびいし)少尉(判官(ほうがん))に任官。

 

 

同時に従五位下に叙せられ、黒毛の愛馬も位階の別称(太夫)から太夫黒と呼ばれた。

 

スポンサーリンク

 

 

家紋“竜胆紋”

源氏一族の代表家紋とされ、源を名乗る武家が好んで使用した。
竜胆紋のプロトタイプは、三花五葉のもので、葉が竹の笹に似ているところから笹竜胆とも呼ばれる。

 

 

リンドウ科の多年草で、秋深い高原に青紫の清楚な花を咲かせる。

 

 

-源義経の愛刀・愛馬

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。