美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

岩村城

岩村城の歴史は古く鎌倉時代に築城され大政奉還まで権威を保った城主たち

投稿日:2022年8月19日 更新日:

 岩村城といってもどういう経緯で、この東美濃の岩村に城が築かれたか?

又どんなお殿様がいたのか?
知りたくないですか?

 

 

標高717m城山を選んで城を築いた加藤景廉公遠山景朝公の親子が見定めた360°見渡せる頂上、城主が替わるたびに改修された岩村城。

 

 

徳川時代にもっと改造した城内の石垣の多さ、さぞ当時の農民は駆り出されたと推測します。

 

 

松平といっても○○松平が沢山あるが、最初に赴任したのは大給松平家宗家の松平家乗で、徳川家康一字を貰った若きプリンス松平家乗(大給松平家​​​​6代当主)であった。

 

 

大給松平家徳川家康松平家とは、大叔父さんの親が兄弟で、すぐ上の兄貴の松平乗元が大給家の始祖家康の方はすぐ下の弟の松平長親松平親氏の跡を継いで松平直系となった(徳川家康は松平元康で第9代目)

     ▲松平親氏の系列

 

 

その乗元の直系の第7代・松平乗寿の孫が分家して、大給松平家の乗政流大給松平家の松平乗紀が岩村城主として入り第7代・松平乗命で明治を迎えている。

 

 

いわゆる大給松平家7代宗家の松平乗寿の孫が、松平乗紀が元禄15年(1702年)に国替で小諸藩から岩村藩に移ってきて松平乗命まで続いたということです。

 

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鎌倉時代にお城が築かれる

岩村城創業は文治元年(1185年)一説では建久六年(1195年)に、加藤景廉が源頼朝から遠山荘の地頭に補せられたのに始まる。

 

 

どうして今の場所にお城を築いたかは定かでないが、山上邑が関係してると思います。

その記事があるので興味のある方は、上記の山上邑をクリックしてご覧になってください。

 

 

景廉の嫡男・加藤景朝は岩村に住み遠山姓に改名して遠山景朝に称した。

 

 

その子孫は岩村を中心に遠山庄内に繁衍※1して東濃の一大勢力となった。

※1.繁衍(はんえん)とは、しげりはびこること。ふえひろがること。

 

 

なかでも苗木、明知遠山氏は明治維新にまで及んだが、本家岩村遠山氏は天正元年武田信玄の家臣・秋山晴近に滅ぼされたので、文治元年(1185年)より天正元年(1573年)まで388年間岩村遠山氏は滅びたのである。

 

この間を遠山氏時代とする。

 

 

 

武田信玄の城となった

天正元年岩村城主となった秋山晴近は遠山氏最後の城主・遠山景任の妻・おつやの方を妻にして、天正三年(1575年)に織田信長に僅か3年で滅ぼされた。

 

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織田信長の城となった

岩村城を奪還した信長は、家臣・川尻慎吉を天正三年より天正十年(1582年)まで城主とし、武田氏が滅びて、甲斐新府の城主として移るまで、いままで城下があった冨田にあったものを現在の城下町に移して行った。

七年間岩村にいたことになる。

 

 

森蘭丸が後の城主になる

天正十年(1582年)3月から岩村城主となった同年6月2日に本能寺の変のため戦死したので、僅か三ヶ月の城主でした。

 

 

本能寺の変には、明智光秀は出向いていないことがわかった。

新聞記事で証拠がわかった。

 

 

という事は誰が首謀者で信長を討ったか謎で光秀の軍旗で攻めているので光秀の謀反となっていると思う。

 

 

蘭丸の跡を兄の森長一が城主になる

森長一は可児郡金山城ににいて岩村城を併せて治めていたが、ところが天正十二年(1584年)に長久手の戦いで戦死したので、弟・森忠政によって治められることになり慶長四年(1599年)に至った。

 

 

従って森氏の岩村城は天正十年から慶長四年まで十八年間であった。
但し、この間岩村城にいて直接事を執ったのは森氏の家臣・各務兵庫であった。

 

 

彼は城代として岩村にあって近代的な城郭を建設した。

 

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豊臣時代到来田丸直昌岩村城主になる

慶長四年(1599年)豊臣氏の家臣・石田三成は森忠政を川中島に移し、川中島にいた田丸直昌を岩村に入れた。

 

 

ところが翌年、関ヶ原の戦いに三成軍が敗れ、徳川家康が天下の政権を握るや、西軍に属した田丸直昌を逐い、慶長六年(1601年)正月松平家乗を岩村城主とした。

 

 

かようにして天正元年から慶長六年まで僅か28年間に八代の城主が交替した。

 

 

岩村城はこの間が最も激しい変遷のあった時代である。
誠に戦国時代の慌ただしいさであった。
この時代を戦国時代とする。

 

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徳川時代初代城主・松平家乗

初代岩村城主となった、大給松平宗家6代の松平家乗から約300m年弱の泰平が続き、岩村城は形式的な存在となり、城主は城麓の藩主邸に住み、これを中心に城下町を経営して政治・経済・文化の中心とした。

 

 

かくて岩村は東濃文化の中心地となった。

この間城主は松平氏二代、丹羽氏五代、再び松平氏が七代を経て明治維新となった。

この間、徳川の世267年間が岩村城時代である。

 

 

松平氏は3万石の小藩であったが親藩として幕府の閣老にも列し雄藩であった。

 

 

かようにして、岩村城は、文治元年(1185年)から慶応四年(1868年)まで続いたのである。

 

 

中世から近世に及びおよそ武門政治の行われた全期にわたって城の在ったことは日本の城史にも見ないところである。

 

 

霧ヶ城の名城たるゆえんは、その要害というよりも、その長い歴史に名城たるゆえんがあると思う。

 

 

以上の如く岩村城史を大まかに三つに分けると、遠山時代(中世期遠山荘時代)、戦国時代(諸氏交替時代)、岩村藩時代(松平本家・丹羽氏・松平分家時代)であると思います。

 

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岩村城歴代の城主

遠山時代

加藤景廉:文治元年(一説には建久六年)頼朝公に遠山荘の地頭に補せ                         られた。承久三年8月3日卒
 上が藤に三つ目結    

遠山景朝:承久年間遠山荘岩村に存在。建長年間に歿。
 丸に二つ引     

   この間200年間の家系図不詳
遠山頼景:永正年間存在
遠山景友:大永四年歿
遠山景前:天文中在城、弘治二年卒
遠山景任:永禄中在城、元亀三年卒
御  坊  丸:遠山景任の養嗣子となり、元亀三年8歳にて家督を継ぐも                    人質になって天正元年に秋山伯耆守によって甲斐に行く。

 

 

戦国時代

秋山伯耆守晴近:天正元年三月岩村城主になるも天正三年滅亡長良川に             て逆磔で歿

三階菱

 

川尻肥後守慎吉:天正三年より天正十年まで城主

右三つ巴

 

森蘭丸長定:天正十年三月(18歳)同年六月に本能寺で戦死

鶴の丸

森武蔵守長一:城代・各務兵庫が天正十年六月より天正十二年まで
森左近太夫忠政:城代・各務兵庫が天正十二年より慶長四年まで

 

田丸中務具忠:慶長四年より慶長五年まで城主

八段の鞫挟み

 

徳川時代・岩村藩

松平和泉守家乗:慶長六年正月より同十九年まで

蔦の紋

松平和泉守乗寿:慶長十九年より寛永十五年まで

 

丹羽式部少輔氏信:寛永十五年より正保三年まで

丸本骨上がり総檜扇の紋

丹羽式部少輔氏定:正保三年より明暦三年まで
丹羽式部少輔氏純:明暦三年より延宝二年まで
丹羽長門守氏明:延宝二年より貞享三年まで
丹羽和泉守氏音:貞享三年より元禄十五年まで

 

松平兵庫頭乗紀:元禄十五年より享保元年まで

蔦の紋

松平能登守乗賢:享保元年より延享三年まで
松平能登守乗薀:延享三年より天明元年まで
松平能登守乗保:天明元年より文政九年まで
松平能登守乗美:文政九年より天保十三年まで
松平能登守乗喬:天保十三年より安政二年まで
松平能登守乗命:安政二年より明治維新まで

 

 

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東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。