【日本三大山城】美濃国岩村城の歴史と日本史

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

明智光秀

明智光秀は本能寺には行ってなかった事実判明 ー 誰が実行犯か?

投稿日:2021年1月7日 更新日:

本当に明智光秀”敵は本能寺“と言って信長のいる本能寺に攻めて行ったのか?
光秀は本当に信長を恨んでいたか?

 

 

自分が天下を取りたくて織田信長に謀反を起こしたというのが定説になっているが?
果たして本当にそうだろうか?

 

 

自分の器を知ってる理知ある光秀が、そんな簡単に行動起こすだろうか?

 

 

『明智家法』をみると
光秀「自分は石ころのような自分から信長樣にお引き立てて頂き、過分の恩恵をいただいた。〜中略〜一族家臣団は子孫に至まで信長様への御奉公を忘れては行けない」と崇めている。

 

 

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令和3年新年早々光秀が本能寺には行ってないというニュース!

2021年1月5日の中日新聞で光秀は本能寺には行っていないというニュースが飛び込んできた。

 

 

金沢市の古文書に、光秀は本能寺から八キロ離れた鳥羽(京都市南部)に控えていたとの家臣の証言あること富山市郷土博物館の荻原大輔主査学芸員(日本中世史)の調査で判明したとのこと。

 

 

下記の画像は中日新聞2021年(令和3年)1月5日(火曜日)23ページのものです。

    

上記の記事を読むと、映画・ドラマでは光秀本人が軍を率いて本能寺に向かったような事実は明確に裏付ける資料はないという。

 

 

萩原主査学芸員によろと、古文書は金沢市玉川図書館近世資料館所蔵の「乙夜之書物」(いつやのかきもの)

 

 

加賀藩の兵学者・関屋正春が本能寺の変から87年後の江戸時代に記した。本能寺を襲った光秀軍を率いたとされる斉藤利三の三男で、自らも従軍した利宗が、加賀藩士の甥に語った証言として「光秀ハ鳥羽ニヒカエタリ」と記されていた。

 

 

古文書には光秀軍の兵士たちが桂川で夜中に休憩を取っていた際に、本能寺へ向かうことを初めて告げられたことや、襲撃された信長が乱れ白い帷子を着て光秀軍を迎え撃った様子の記述もあった。

 

 

萩原主査学芸員は「事件に参加し重要情報に触れる立場の人物の話で、後世の加筆の跡も見られないため、信頼性は高いと考える」と指摘。

 

 

本能寺にいた信長側の家臣は数が少なく、光秀の本隊が出向く必要はなかったと分析した。研究をまとめた論文を近く発表する。

 

記事から引用、

 

 

これは推測ですが、斎藤利三徳川家康が話しあって、行った謀叛ではないかと思います。

 

何故なら後の三代将軍徳川家光の乳母は春日局即ち斉藤利三の娘お福(春日局)の子が家光じゃないか?

※上記の斉藤利三をクリックしてもらうと詳しいブログが書いてあります、興味ある方は読んでください。

 

 

そんな信長様を怨恨説・野望説で撃てるだろうか

本能寺の変の通説では、安土城「長篠の合戦」で武田軍を滅し、「岩村合戦」で織田信忠が東美濃国の岩村城も取り戻し、その祝いをするために徳川家康・穴山梅雪の招待の接待を仰せつかった光秀は。

※上記の岩村合戦をクリックしてもらうと、信長が家康に送った黒朱印状のブログがあります、興味ある方は読んでください。

 

接待の料理が悪かったため、信長が激怒して家康接待役解任して丹波国を召し上げたための怨恨説。

 

領地を召し上げられることは、その時代では普通だったなんじゃないかな。
帰るとこがなくなった光秀に、儂も後から行くからと言って京都で待ち合わせして、家康を討つ相談をするために京都へ呼んだとも考えられる。

 

共に秀吉の中国攻めに加わるよう命じた。

そこで勝ったら、そこの石見の国光秀にやろう。
と言ったのに危機説などとは・・・あろうはずがない。

 

 

天正10年6月2日(1582年6月21日)の早朝、京都の本能寺に滞在中の織田信長が家臣・明智光秀に襲撃されるという事件です。

 

▲亀山城から本能寺まで15K。斉藤利三の三男率いる15,000の兵を引き連れて桂川の河原で夜中に本能寺に向かった。この時光秀は鳥羽に控えていたと家臣の証言が出てきた。

 

 

寝込みを襲われ包囲されて自害、信長の嫡男・織田家当主織田信忠以下岩村城主で武田家に人質に取られていた幼名・御坊丸後の織田勝長がも宿泊してた妙覚寺から二条御新造に移って抗戦したが、まもなく火を放って自刃(じじん)した。

 

 

これによって織田政権の中心人物が失われた。
7年前岩村城の叔母おつやの方が逆さ磔の時「実の叔母を、このような非道の扱いをするからには、必ずやその報いを受けようぞ」と絶叫して処刑された。

※上記のおつやの方をクリックすると逆さ磔のことを書いたブログがあります、興味ある方はクリックしてください。

 

その報いがきたのだろうか?

 

 

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どうして疑問をもったのか?

明智光秀の生誕は確かなことはわからないけど、大永6年(1526年)土岐氏一族明智氏の出自とされています。

 

土岐氏といへば三管四職に準ずるぐらい位が高い一族。

 

斉藤道三に仕え、斎藤龍興に敗れて越前へ逃れ、朝倉義景に仕え将軍足利義昭に仕えながら織田信長に重用され使える。

 

 

そして信長の家来になって、比叡山の働きによって丹波国をもらう、近江坂本城を平定し丹波亀山城も兼任した。

 

 

そこで『信長公紀』太田牛一書をみる

「信長も御小姓衆も、当座の喧嘩を下々の者共仕出(しで)し候と、おぼしめされ候のところ、一向さはなく、ときの声を上げ、御殿へ鉄砲を打い入れ候。

是れは謀反か、如何なる者の企てぞと、御諚のところに、森蘭申す様に、明智の者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばすと、上意候。」

 

この時の「是非に及ばず」

という言葉の意味は?

 

”とんでもないことだ“と解釈すると面白い、信長は切腹したか裏口から逃げたか謎です。

 

 

続いて『言経卿紀』には、この様に書かれている。

「二日、戊子、晴陰、一、夘刻前右府本能寺、へ明智日向守(光秀)依謀叛押寄了、則時ニ前右府打死  同三位中将(織田信忠)妙覺寺ヲ出テ、下御所(誠仁親王御所)ヘ取籠之處ニ、同押寄、後刻打死、村井春長軒(貞勝)巳下悉打死了、下御所(誠仁親王)ハ辰刻ニ上御所(内裏)ヘ御渡御了、言語道斷之爲躰也、京洛中騒動、不及是非了」

の書があります。

 

       ▲言経卿紀

 

上記の「言経卿記』の最後に「不及是非了」と書いてあります、これは「是非に及ばず」と読みます。

「則時ニ前右府打死」とも書いてあります。
これは、即死んだというとことです。

 

 

続いて『ルイス・フロイスの記録』

「天王寺本能寺の誤りです)と称する僧院の付近に着いて、三万人は天明前僧院を完全に包囲した(中略)わが聖堂は信長の所より僅かに一街を隔てたのみであった故、キリシタン等が直に来て、早朝のミサを行うため着物を着替えていた予(ポードレ・カリヤンならん)に対して、宮殿の前で騒ぎが起こり、重大事件と見ゆる故暫く待つことを勧めた。

その後銃声が聞え、火が上がった。次に喧嘩ではなく、明智が信長に叛いてこれを囲んだといふ知らせが来た。明智の兵は宮殿の戸に達して直に中に入った。

 

同所では角の如き謀叛を嫌疑※1せず、抵抗する者がいなかった。」

とかいてる。

※1.嫌疑(けんぎ)とは、疑わしいこと。特に、犯罪の事実があるのではないかという疑い。「嫌疑がかかる」 

 

 

上記の「同所では角の如き謀叛を嫌疑せず、抵抗する者がいなかった。」

と書いていると言うことは、門番が抵抗もせずに中に入れたと言うこと。

 

 

すなわち本能寺では光秀軍が来ることを言ってあったから、易々と門を通過できたと解釈してもいいと思われる。
じゃあ誰が信長を討った?

 

 

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決定的の文章「本城惣右衛門」

また、本能寺へ着いた時の様子を光秀の家来・本城惣右衛門が身内に送ったとされる書状ある。

 

『本城惣右衛門覚書』です。

「明智光秀が謀反を起こし、織田信長様に腹を召させた時、本能寺に私たちより先に入ったと言う人がいたら、それは真実ではありません。

まさか、私たちが信長様に腹を召させるとは夢とも知りませんでした。

その時は、秀吉様が備中で毛利輝元樣と対峙していたので、明智さまが援軍を申しつけられたのです。

京都の山崎の方向へ行くのと思っていたら、逆の京都市内の方へ行けと命じられましたので、このときは討つ相手は徳川家康様であるとばかり思っていました。

また、本能寺という所も知りませんでした。
・・・門は簡単に開いて、中にはネズミ一匹しないほど静かでした。」

 

 

まとめ

長い間、光秀が ”敵は本能寺にあり“とかいって攻めいった、映画・ドラマはなんだったんだろう?

 

これで明智光秀のみかたが変わって行く。

 

 

 

-明智光秀

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