美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

明智光秀

明智城を訪ねてー落城後牢人になった光秀はどこでどうしたか

投稿日:2019年7月24日 更新日:

NHKで『麒麟がくる』という番組がありました。

 

明智光秀が足利義昭の家来になるまで、また信長に仕えるまでの経歴を調べてみたいと思います。

 

 

先ず、光秀の子於隺丸(おづるまる)の子孫、明智憲三郎の書いた「本能寺の変431年目の真実」を参考にしました。日本歴史学会会員。

 

一般的に生い立ちの文献はなくわかっていません。
私なりに纏めてみました。

 

 

 

明智城を訪ねて

生まれは美濃国の守護職であった土岐氏の支族で土岐明智氏ではないかと思われます。

 

                                    ▲入り口と思われる。

 

 

何故なら恵那市明智町(何年か前に明知町から明智町に町名変更しているから知の字が違う。光秀とはなんら関係がないと思う)また、明知城遠山明知城であって、岩村城女城主おつやの方のとき明智光秀織田信忠明知城を攻めてる。

上記のおつやの方をクリックして頂くと、岩村城と明知城のことと土岐明智が書いてあります。参考にしてください。

 

 

それで岩村城を攻め滅ぼし武田方の岩村城主秋山信友おつやの方岐阜の長良川で逆さ磔で処刑されている。

 

 

可児市の方明智城の方は1342年(康永元年)美濃源氏のながれをくむ土岐美濃守光衛により5代目にあたる明智頼清(民部大輔頼宗)の次男、土岐頼兼(下野守)明智と改名してこの城を築き、約200年の間明智氏代々の居城としてなった。

 

                                    ▲明智城趾

 

別名長山城また明智長山城とも呼ばれた。

 

 

(すでに遠山明知城は、1247年(宝治元年)岩村城主・遠山景朝(とは、源頼朝の家臣・加藤景廉の嫡男)の子で明知遠山氏の始祖・遠山三郎兵衛景重明知城を築き、代々守護したという)

 

 

1556年(弘治2年)9月19日、稲葉山城主斎藤義龍攻撃を受け、明智城代・明智光安は(宗宿)は弟光久と一族の溝尾庄左衛門、三宅弐部之助、藤田藤二郎、肥田玄蕃、池田織部、可児才右衛門、森勘解由ら870余人を集め籠城して自刃した。

 

 

光秀土岐氏後裔の東美濃・明智城主明智光安の甥であったが、1556年(弘治2年)斎藤義龍に明智城を攻められた。

 

 

一説によると光秀の父親は進士信周で母は明智光隆の妹で、明智光隆は病弱で子供に恵まれなかったので光秀を養子として引き取った言われています。

 

 

明智城は陥落するが、明智光安光秀に息子・弥平次光春、甥の次郎光忠を託された。

 

 

『明智軍記』では光秀は美濃・明智城主の家系で、落城した明智城から脱出し諸国を放浪した後に朝倉義景に仕えていたという事にされている。

 

 

このように『明智軍記』(俗書・俗説)『川角太閤記』の記事がまかり通ってしまった事実、面白く書いた劇物語

 

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明智光秀は足利義昭に仕える前はどうしていたのか?

『群書類従』に所収されれている『永禄六年諸役人附』という足利幕府の役人の名簿がある

 

 

1563年(永禄6年)第13代将軍・足利義輝の時代に『諸役人附』の名簿に、この中に足軽衆「明智」という名がある、これは光秀なのか?

 

 

この役人名簿は継ぎ足して書かれていて、後半部は第14代将軍・足利義栄の役人名簿なのか、義栄は義輝を暗殺した三好三人衆らが担ぎ出した将軍で義栄には引き継がれてない

 

 

名簿は第15代将軍・足利義昭に引き継がれた。

 

 

義昭義輝の弟で義輝が暗殺された時には、覚慶と名乗る奈良興福寺一乗寺の僧侶だった。

 

 

覚慶は義輝の側近だった細川藤孝に救出され、その後、還俗・元服して義昭と名乗り織田信長と上洛して第15代将軍となった。

 

 

1563年(永禄6年)の幕府役人名簿の前半部に明智という名前があったが後半部に無いということは、足利義輝には仕えていなかったことになる。
何故なら暗殺された時に討ち死にしてるはずである。

 

 

光秀の名が初めて出てくるのが、信憑性の高い『信長公記』の本圀寺の防衛戦とされている。

 

 

この戦いは1569年(永禄12年)1月4日に本圀寺に宿泊する足利義昭三好三人衆らが襲撃した事件だが、『信長公記』には本圀寺に立て籠もって戦った人物に明智十兵衛ら十三名の名が出てくる。

 

 

信憑性のある資料を総ざらいすると、光秀が仕えていた人物名を証言した人物が二名、一名は興福寺多聞院院主英俊光秀滅亡直後の1582年(天正十年)6月17日の『多聞院日記』に次のように書かれている。

 

 

「光秀は細川兵部太夫の中間だったのを織田信長に引き立てたられた」

 

 

中間とは、足軽と小者(雑用、使い走り)の中間の者を指す。

 

 

光秀細川兵部大輔※1藤孝に身分の低い中間として仕えていたと証言している。
※1:兵部大輔とは、仕えること。

 

 

もう一人はルイス・フロイス
日本で体験・見聞したことをフロイスが書いた『日本史』の中で彼はもとより高貴の出ではなく、信長の治世の初期には、公方様の邸の一貴人兵部大輔※1と称する人に奉仕していたのである。

 

 

フロイス「初めは将軍の邸の兵部大輔※1、すなわち細川藤孝に仕えていた」と言っている。

 

 

2人は興福寺多聞院院主英俊フロイドの言ってることを集約すると「明智光秀は細川藤孝に中間として仕えていて、その後は足軽になった」

 

 

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なぜ光秀が幕府奉公衆として出世したか?

親王の参加する連歌の会足軽衆の光秀が同座できたのは、やはり方向衆の藤孝の家臣という立場があったから、また、この時点で藤孝光秀の教養を高く評価していた、単なる足軽衆を超えた評価だった。

 

 

それでは、光秀はなぜ細川藤孝の中間から幕府の足軽衆になったのだろうか?

 

 

光秀の運命を左右する事件が1565年(永禄8年)5月に起きた。
松永久秀と三好三人衆による将軍足利義輝の暗殺である。

 

 

幕臣の多くが討死するとともに仕えるべき主君を失った。

 

 

近江で細川藤孝らが足利義昭を担いで義輝を継承すべく旗揚げをしたが、将軍職は空位のままで、義昭が将軍職を継げるかどうか全く見込みが立たない状況だった。

 

 

そこで幕臣は、義昭に従って近江へ向かう者と、そのまま京都に残る者とに分かれた。

 

 

義昭は近江に逃れると早々に7月には上杉謙信、武田信玄、朝倉義景、織田信長など各地の武将に幕府継承の支援要請を行い、10月には内書や禁制を発するなど幕府機能を発揮した。

 

 

しかし、旧幕府の一部しか連れて来ることできなかった義昭の自称「幕府」は甚だしい人材不足だった。

 

 

これを補うために大量の人材登用を行った、その中に、細川藤孝中間だった光秀もこの時足軽衆に採用され、欠員を穴埋めするために藤孝が自分の家臣だった明智光秀を押し込んだ。

 

 

◼︎光秀の生誕がはっきりしないで、あっちでもこっちでもフラフラした話が浮上するのではないのか?

 

 

先ず、①恵那市明智町(以前は明知町と言ってた)この城で光秀が生まれ、産湯を使ったという井戸がある。

 

 

そんなバカな話は無い遠山の城に土岐明智がどこでどうして結びつくんだろう

 

 

もう一つは明知城は岩村系列の遠山明知城遠山氏紋所定紋:丸に二引き、替紋:丸に六本格子 補項として「寛永系図丸に九字に作る」として使っていた。

         ▲遠山景元こと金さんが明知城の末裔

 

上記の遠山景元をクリックして頂くと金さんのことが書いてあります。

 

 

 

一方明智城紋所は有名な桔梗紋、これは土岐氏の家紋で、花びらが普通の桔梗の紋様よりも幅広で「土岐桔梗紋」という。

 

 

これがどう結びつくというのか疑問に思う。

 

 

②もっとも近い話は可児市の明智城ではないかと思う。
何故なら落城までの30年明智城で暮らし、1556年(弘治2年)の長良川の戦いで斎藤道三に味方した、光秀の叔父・明智光安ら明智一族は道三の敗戦で戦死、光秀に明智家再興を託されて逃げた。

 

 

逃げてその後は不明。
これが最も話が近いような気がする。

 

 

何故どうして本能寺で信長を討ったか?

【明智城落城説➕朝倉仕官説】
この話は本能寺の変から100年以上もたって出版された軍記物でつまり当時の物語で『明智軍記』が創作した話に過ぎません。

 

 

【信長・義昭両属説】
明智光秀が義昭の上洛時点で「光秀はすでに信長の部下になっていたことは事実とみてよい」さらに「義昭にも仕えていた」この資料を参考にしたのが『綿考輯録』

 

 

【怨恨説➕野望説】
本能寺の変から四ヶ月後に羽柴秀吉が家臣に顛末書と言える『惟任退治記』を書かせた。

 

その中に「光秀が自分を怨んで殺す」と言ったことや「時は今 あめが下しる 五月かな」と天下取りの野望を愛宕百韻とやばれる連歌に詠んだと書かれています。

 

 

【単独犯行説・謀反秘匿説】
『惟任退治記』に「光秀は密かに謀反をたくらむ」と書かれた。

 

 

【油断説➕偶発説】
信長が油断して生じた偶然のチャンスに光秀は謀反を起こしたことが定説なています。
本能寺の変は成功している。

 

例えば本能寺の変の当日、徳川家康は信長に会うために本能寺へ向かっている、信長は家康を本能寺へ呼び出して何をするつもりだったか?

 

また、本能寺で信長を討った後、二条城で信忠を討ちに向かっています。

 

何故同時に襲撃をしなかったか?もし信忠が京都を脱出していたら謀反は失敗していたはずです。
謀反を起こす場合失敗してもいいと思ってはいません。

 

 

【伊賀超え危機説】
東京大学史科編纂所が編纂した『大日本史科』という膨大な資料があります。

 

これは年月日順に出来事に関連した諸史科の記事を集めたダイジェスト資料で研究者の誰もがまずはじめに参考するものです。

 

その天正10年6月4日の頃には100頁以上に渡って家康の伊賀越えに関わる60件ほどの記事がダイジェストされています。

 

 

【中国大返し神業説】
本能寺の変の翌日の6月3日に夜、信長・信忠の死の報せを受けた秀吉は翌4日に毛利氏と緊急に和睦し、定説では6日に備中高松の陣を引き払い、台風の中を1日で80Km進む強行軍で7日に姫路城に辿り着いたことになっています。

 

実は、この行程を最初に書いたのも『惟任退治説』秀吉が都合よく書かせたもので正しいか正しくないか分かりませんが、この記事が定説になってしまったに過ぎません。

 

 

 

-明智光秀

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