【日本三大山城】岩村城の歴史

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

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岩村城下町で朝ドラ『半分、青い。』を撮影、そんな町が信玄×信長の戦いの舞台になった。

投稿日:2018年10月11日 更新日:

遠山家最後の城主・遠山景任亡き後、おつやの方(女城主)の岩村城での戦い。

おつやの方は朝ドラ主演の鈴愛のような綺麗な女性だったのだろうか?

 

「岩村城の戦い」はなんで起こったかと言う事を知らないと遠山景

任が浮かばれないような気する。

 


元亀3年(1572年)〜天正3年(1575年)に美濃国恵那郡岩村城で武田信玄と織田信長で城争奪戦が行われた。

 

 

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まず、岩村城はどうして築城されたか?

 

             ▲加藤景廉

 

それは藤原利仁流を祖とする美濃国の遠山氏は、加藤景廉源 頼朝時代

遠山荘の地頭となり、その嫡男であった加藤(のちに遠山)景朝が在地に下

りて岩村に居を構えたことに始まる

 
加藤景廉とは、どいう人物かというと上の「加藤景廉」と「遠山荘の地頭」をクリックしてください。

 

 

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遠山氏は氏族繁衍(はんえん)して七流に別れて恵那郡を領したが、これを遠山七頭(七頭山)という。

 

令和2年NHKで放送する明智光秀が、この城から出たと言ってる。僕は違うと思う。行くだけ損です。何故かというと城跡には何にもない、光秀の産湯を使った井戸があるけど、セメントで囲われている井戸では信用できない。

もう一方の可児市の明智城は、土岐明智氏の出自であり、『美濃国諸旧記』には、康永元年(1342年)、「長山」に土岐頼兼が城を築き、弘治2年(1556年)の明智光秀の叔父明智光安・光久が城主であった時、稲葉城主斎藤義龍の攻撃を受けて落城したとする。

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▲苗木城跡                                            ▲明知城跡                                              ▲岩村城跡

 

中でも三頭(三頭山)と言われた苗木・明智・岩村の3つが主要な分家で、景朝の子景重が明知遠山氏の祖・景員が岩村の祖にあたるが、苗木は何度か系譜が絶えてしまった。

 

                  ▲美濃源氏発祥の地  土岐氏一日市場館跡

 

鎌倉時代初期においては、美濃源氏たる土岐氏と源 頼朝の側近の子孫たる遠山氏は並び立っていたが、南北朝時代には土岐頼遠※1活躍して美濃国の守護職を得たこともあって、岩村遠山氏より土岐氏の方が優位となった。

 

 

遠山氏も武家方の一勢力として各地を転戦したり、宮方※5であった隣国の飛騨国司姉小路家と争ったが、『太平記』『遠山家譜』によると岩村城主加藤光直の弟で苗木城主であった遠山五郎景直土岐頼遠と領土争いの訴訟があって城を追われ、宮方の新田義貞軍に加わっていたという。

 

 

足利尊氏に従って各地を転戦した明知遠山氏(遠山景重の玄孫※6遠山景房は武功多く、市島郷の地頭※7 職を与えられたが、元中7年(1390年)その子である遠山頼景は、宗家の遠山持景の養子となって遠山氏惣領として遠山荘地頭職安堵とされる。

 

 

遠山頼景の子が景友(季友)、孫が景前である。遠山景前の頃には土岐氏は凋※8(ちょうらく)し、東美濃では遠山七頭の国衆が台頭して、諸城を築いて軍外勢力を拒むようになった。

 

 

岩村遠山氏総領格ではあったが、統一されておらず、美濃の動乱の煽※9りで明確な支配者のいない半独立状態となっていた。

 

 

天文23年(1554年)信濃国を領国化しようとしていた甲斐武田氏南信州と美濃の国境である伊那郡を制圧すると、川中島の戦いで長尾景虎(上杉謙信)と争うと同時に武田晴信は弘治元年(1555年)東美濃にも侵攻して岩村城を包囲したため、景前は降参した

 

 

以後、遠山氏のいくらかは武田氏に主従することになったが、引き続き斎藤氏尾張の織田家連携するものも見られる

 

 

弘治2年(1557年)7月13日景前が亡くなり、嫡男であった景任が跡を継いだが、まだ若かったことから遠山七頭の中に従わぬ者があって後継者争いが起こった

 

 

これに対して武田氏が東美濃に派兵して調停し、その後ろ盾を得た遠山景任が岩村城主となった。

 

 

以後、東美濃においては遠山宗家と武田信玄との主従関係に基づく武出支配が成立し、遠山氏は武田方に人質を出したが、他方で同年(1557年)斎藤義竜が父道三を長良川の戦いで破って美濃を手中に入れると、遠山氏の中では、明知遠山氏の遠山友行義龍に与して※10 9月の明知城攻めに加わるなど、一時的に斎藤氏に与した。

 

 

また、従来の織田氏との関係も維持されており、これが台頭して濃尾に勢力を伸ばすと、むしろ接近して行った。

 

時期は不明ながら、景任が織田信長の叔母(織田信定の娘)娶って親戚関係を結ぶなど、複数の勢力に属するという関係を築いて行った

 

 

特に永録6年(1565年)に武田軍が金山城の森可成※11(もりよしなり)と米田城の肥田玄蕃寮※12(ひだげんばりょう)を攻撃した後、信長が景任の弟直景の娘を養女として信玄の庶子※13 諏訪勝頼の室とする縁組ををまとめたのも。

 

 

 

遠山氏を介した織田・武田両家の連携の一環であった

 

 

元亀3年(1572年)武田信玄は西上作戦を開始する前に、木曾義昌と遠山直景に命じて飛騨の三木自綱※14(みつきよりつな)を攻めさせたが、この戦いで直景が5月18日に戦病死・景任は負傷した。

 

 

直景には他に子がいなかったことから、信長が飯羽間遠山氏遠山友勝をして苗木遠山氏の跡を継がせた
遠山友勝の嫡男友忠の妻は信長の姪であった。

 

 

さらに8月14日に景任も病死して岩村遠山氏の血統が断絶したので、信長は東美濃の支配権を奪う好機として、岐阜城留守居の河尻秀隆や織田信広を岩村城に派遣して占領すると、自らの子(御坊丸のちの織田勝長)を亡くなった景任の養嗣子として継がせ、叔母のおつやの方を後見人とした。

 

 

東美濃の支配権が信長に奪われたことに対して、駿河国に侵攻していた信玄は、伊那郡代秋山晴近と依田信守を東美濃へ派遣して岩村城の奪還を命じた。

 

 

包囲された岩村城には以後も武田氏に仕えた者が多く、降伏して御坊丸を甲斐に人質として出し、信玄の許しを得て秋山虎繁が岩村城に入っておつやの方を妻とすることで(遠山氏と武田氏の)和議を成立させた。

 

 

しかし以後は秋山が岩村城主となるので、岩村での遠山氏の支配は終わりを告げた。

 

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ここから「岩村城の戦い」の記事です。
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元亀3年(1572年)の織田信長の岩村城への遠征

元亀3年8月14日、岩村遠山氏として東濃で勢威を振るった岩村城主の遠山景任(加藤景廉没 承久3年1221年後から351年続いた遠山氏)が子供がないまま病死してしまった。

 

 

織田信長は織田信広、河尻秀隆らを派遣して岩村城を占領し、信長の五男御坊丸(のちの織田勝長)を遠山家の養嗣子に据えた。

しかし御坊丸はは幼児のため、景任の妻であるおつやの方(信長の叔母)が務めた。

 

 

元亀3年(1572年)の10月に信玄の西上作戦遠征始まる。

10月3日、それまで諸勢力に向けて上洛することを宣伝してい武田信玄が西上作戦を開始した

 

 

同年12月、秋山虎繁は武田軍を引きつれて東美濃の遠山氏の本拠地岩村城を攻めた

 

 

遠山氏は以前は武田氏に臣従(しんじゅう)していたが、この頃は織田信長の叔母が岩村城主となっており武田氏とは敵対関係となっていた

 

 

岩村遠山氏は武田軍(秋山に)岩村城を包囲されて危機となったため、当時
女城主であったおつやの方が、秋山虎繁と結婚するという条件で降伏し、上村合戦で討死せず生き残ったいた岩村遠山氏とその一族は武田氏の軍門に下った

 

 

同年11月14日岩村城は武田方になり、下条信氏が入城した。
信長は11月15日の書状で延友佐渡守(のぶとも さどのかみ)に、「岩村の儀は是非も無し」と攻を労い土岐郡日吉郷・釜戸本郷を与えた。

 

 

なお、岩村城の近くには、遠山氏の菩提寺として臨済宗妙心寺派の大圓寺があり、住侍務めたこともある武田信玄とは旧知の間柄の名僧で、信玄から恵林寺へ戻るように何度も依頼が来たが希庵はこれを断固拒否した

 

 

これを恨んだ信玄は大圓寺の焼き討ちと希庵の殺害を命じ、元亀3(1572年)岩村城開城から約2週間後の11月26日、大圓寺は武田秋山軍の兵火により焼かれ、希庵は供の者と寺から逃亡した。

 


▲希庵塚                                                            ▲希庵橋

 

 

これを知った秋山虎繁は刺客3人を送った
彼らは希庵一行に追い付き、飯羽間川にかかる橋の上で全員を殺害した。
ところが半月待たない内に3人は狂ったり、狂った馬から落ちて命を落とした

 

 

それに留まらず、その5ヶ月後に信玄が死亡している。

 

 

一説には信玄の重病を知った希庵の口封じが目的とも言われる。
殺害された希庵らは飯羽間の村人達によって付近に葬られた、希庵塚として今も付近の人達が世話をしてる

 

 

同年12月22日には、三方ヶ原の戦いが起きている。

 

 

元亀4年(1573年)の武田氏の遠征

元亀4年(1573年)2月下旬、おつやの方は織田掃部※16(おだかもん)の肝いりで秋山虎繁と祝言を挙げ御坊丸は甲府へ送られた。

 

 

翌3月6日、武田信玄は織田信長の東濃出陣の報せを受け、秋山虎繁に美濃出陣命じた。

 

 

同3月15日には岩村城を攻めていた馬場信春※17 の率いる兵800が織田軍に攻めかかると、織田信長は1万の兵を引かせた引かせた。

 

 

これを武田方の越中国勢30騎、飛騨国勢30騎、岡部正綱※19 50騎が追撃し、徒歩の兵27人を討ち取った。

 

 

その後、岩村城は落城し、岩村地衆も降参、秋山虎繁は再び岩村城へ入城した。

 

 

元亀4年(1573年)4月12日武田信玄は上洛半ばにして病死した。
武田家の家督は4男の武田勝頼が継いだ。

 

 

天正2年(1574年)の戦い信長と武田勝頼の戦い。

天正2年(1574年)1月27日、武田勝頼は織田信長をさらに圧迫するために、岩村城に進出して明知城を包囲し明知城の戦いをした。

 

 

翌2月5日、信長は嫡男の織田信忠とともに出陣したが、到着前の2月6日に明知城で飯羽間右衛門の裏切りがあって落城したため、東濃の神篦城(現・鶴ヶ城)に河尻秀隆を、小里城に池田恒興を配置し、2月24日に岐阜城に撤退した。

              ▲鶴ヶ城跡登り口

                 ▲鶴ヶ城本丸跡

 

この時、織田信長は6万人を率いたとされるが、山県昌景※20 が兵6,000人を率いて鶴岡山に進出すると、信長は兵を引いたという。

 

 

 

天正3年(1575年)の織田氏の遠征

天正3年(1575年)5月21日武田勝頼は、長篠において織田信長・徳川家康連合軍に大敗し、山県昌景・馬場信春ら多くの家臣を失った(長篠のい)。

 

 

このため織田・徳川による武田反攻が始まることとなる。
信長は嫡男・信忠に軍を預けて岩村城に侵攻させた。

 

 

これに対して武田勝頼は援軍に向かおうとし、勝頼の動きを聞いた信長も11月14日に京から岐阜へ向かった。

 

 

上村合戦で武田(秋山軍)との戦いで生き残った明知遠山氏と苗木遠山氏の一族・郎党達は織田・徳川方につき、これより半年前から、中津川に遠山左衛門、竹折に土岐三兵、大川に小里内作、上村に遠山興介が駐留して、各方面からの補給路を断った。

 

 

そのため岩村城内は、飢餓状態となり、この窮地を脱するべく、岩村城に立て籠っていた武田方と遠山方は11月10日に岩村城近くの水晶山の織田方の陣地に夜討ちをかけるなどして信忠軍に対抗したが、

 

 

河尻秀隆・毛利秀頼・浅野左近・猿萩甚太郎等に反撃されて、武田方に付いていた遠山氏の一族・郞党達の遠山五郎友長・澤中左忠太光利・飯妻新五郎・小杉勘兵衛等が討死し大将格21人に籠城兵3千人の内1千人百人を失ったため武田方は戦意を失った。

 

 

窮地に陥った秋山虎繁は、塚本小大膳を使者に立て、信長に降伏を申し出て、織田方に受け入れられた。

 

 

しかし、自分の叔母のおつやの方を妻にして岩村城を乗っ取った秋山虎繁と、虎繁と結婚して武田方に寝返った叔母のおつやの方を増悪していた信長は、11月21日に城将の秋山虎繁・大島杢之助・座光寺為清が赦免の参礼に来たところを捕らえて岐阜に連行し、おつやの方も岐阜城近くの長良川の河原で逆さ磔の極刑に処した

 

 

武田方に組して籠城していた遠山氏の一族郎党は、馬木十内・馬坂求馬・須渕傳左衛門・久保原内匠・大船五六太が討死し、遠山二郎三郎・遠山市之丞・遠山三郎四郎・遠山徳林斎・遠山内膳・遠山藤蔵らは城中の市丞丸に入り自刃した。

 

残党は全て焼き殺された。

 

 

また、岩村城に立て籠もっていた甲斐や伊奈から来たいた武田方の者達は、上村経由で伊奈方面を経て帰ることを許されたが、木ノ実峠で織田軍によって全員が殺された。

 

 

この結果を聞いた武田勝頼は甲斐へ引き返した。

 

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※1:土岐頼遠(ときよりとお)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、守護大名、美濃守護。土岐頼貞の        七男。兄弟に土岐頼清、長山頼基、土岐頼兼、土岐頼明など多数。子には氏光、光明、光行、直頼など          がいる。父と共にはじめは、鎌倉幕府の執権※2北条得宗家、および六波羅探題※3に仕えていた。
     後に後醍醐天皇に呼応して反鎌倉幕府側として決起、のち足利尊氏に仕えて各地を転戦した武将であり、い      わゆる「婆娑羅大名」※4(ばさらだいみょう)の一人として知られています。

※2:執権(しっけん)とは、鎌倉幕府の職名。鎌倉殿を助ける政務を統括した。

※3:六波羅探題(ろくはらたんだい)とは、鎌倉幕府の職名の一つ。承久の乱(1221年)ののち、幕府がそれま        での京都守護を改組し京都六波羅の北と南に設置した出先機関。探題と呼ばれた初見が鎌倉末期であり、そ    れまでは単に六波羅と呼ばれていました。

※4:婆娑羅大名とは、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将に、佐々木道誉(どうよ)という人物がいました。当    時、派手な格好で身分の上下に遠慮をせずに振舞う者達の事を「娑婆羅」と言いましたが、佐々木道誉はそ    の風貌や生き様から、「娑婆羅大名」と呼ばれました。

※5:宮方とは、宮川につく人々。南北朝時代の吉野方。↔︎武家方。

※6:玄孫(げんそん)とは、曽孫の子。孫の孫。やしゃご。

※7:地頭とは、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衛領(公領)を管理支配するために設置した職。地頭職という。    守護とともに設置された。平安政権期以前から存在したが、源 頼朝が朝廷から認められ正式に全国に設置し      た。在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみて、直接、土地や百姓などを管    理した。また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んでいた。

※8:凋落とは、勢いが衰えること。落ちぶれること。など

※9:煽とは、平仮名で(あおる)と読む、”うちわなどで風を起こす、それで火を強くする“ ”相手を刺激して、    ある行動をするように仕向ける“という意味で使われます。

※10:与する(くみする)とは、同意して仲間になる、味方する。力をかす。

※11:森 可成とは、戦国時代の武将。土岐氏後にオドかの家臣。美濃国金山城主。

※12:肥田玄蕃寮とは、肥田玄蕃助軌休  肥田玄蕃充忠政、直勝とも。生没年不詳(墓所は岐阜県 竜洞寺)土岐氏     の一族で、可児市広見(当時の明智荘)出身といわれている。

※13:庶子(しょし)とは、正室でない女性から生まれた子供を指す語。結婚(婚姻)制度の確立により生じた概念    である。そのような制度が確立していない社会においては、母親の身分や両親の関係によって区別を受けた    以外に摘出庶子といった区別は意味を持たなかった。

※14:三木自綱(みつきよりつな)とは、生年天文9年(1540年)〜天正15年4月25日(1587年)飛騨国の戦国大     名。三木良頼のこ。初名は光頼。左京大夫、大和守、侍従。父良頼以来、飛騨国司家の名跡を継ぎ、綾小路       自綱ともいう。元亀3年(1572年)父の家督を相続。上杉謙信に属す一方で織田信長にも接近し天正7年    (1579年)ころ松倉城を築城。同10年から翌年にかけて江馬氏、広瀬氏らを討ち、飛騨一円をほぼ制圧す       ると、家督を子の秀綱に譲り広瀬高堂城へ移る。その後、越中の佐々成政と結んで羽柴秀吉に敵対したた       め、同13年秀吉の武将金森長近軍の侵攻を受け、松倉城の落城以前に高堂城を開城して降伏。以後は京都に       住みした。妻は美濃斎藤道三の娘という。

※15:秋山虎繁(あきやまとらしげ)とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐国武田家臣で譜代家老衆。     武田信玄・武田勝頼期に活動が見られる。武田二十四将にも数えられる。諱は『武田国志』による「信友」     や近世の軍記物に依る「春近」「晴近」「信近」とする説もあったが、近年は『戦国遺文』『山梨県史』の       編集事業に伴う文章調査によって武田家臣の実名の確定作業が行われ、確実な諱は署判部分の写しにより      「虎繁」であることが指摘されている。「虎」は武田信虎からの偏諱(へんき)であると考えられている。ま     た、実名の誤伝のうち「晴近」は虎繁の童心である「春近衆」が誤伝したと考えられている。

※16:織田掃部とは、織田忠寛 生年不詳 天正4年12月15日(1577年1月3日)は、戦国時代の武将。織田信長       の一族。津田一案、または、受領名の掃部助から、織田掃部と称された(丹波守とも)。法号は一安。この     名は不詳だが、文献には忠遼・信昌の名が記されている。尾張日置城主。

※17:馬場信春/馬場信房とは、戦国時代の武将。後代には武田四天王の一人に数えられる。

※18:岡部正綱とは、今川家に仕え、武田家に仕え、徳川氏の家臣。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。      岡部久綱の子で岡部長盛の父。次郎右衛門尉。

※19:山県昌景とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての日本の武将。甲斐武田氏の家臣で、譜代家老衆。後代       には武田四天王の一人に数えられる。

 

 

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