【日本三大山城】美濃国岩村城の歴史と日本史

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

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女城主の里の農村景観日本一にある民宿「茅の宿」にある「釣姫」さまのお雛様。

投稿日:2018年2月8日 更新日:

女城主の里(恵那市岩村町富田)の茅の宿に尾張藩釣姫のお雛さまが保存されてます。

葵の紋こそ入ってないが庄屋さんが、現・岩村の隆崇院から払いて貰ったお雛様が3月3日より4月3日まで飾ってあります。

 

 

尾張徳川家12代斉荘(なりたか)さま四女釧姫(せん姫)のちに釣姫様(ちょうひめ)は天保14年卯年4月21日御誕生しました。

 

 

明治4年に岐阜美濃国岩村城主松平乗命(のりとし)にお興し入れ、新調してきた漆塗りの駕籠の長旅で、漆にかぶれてしまわれ、岩村城に着いてまもなく熱を出し発病されてしまったのです。

 

 

御典医の手厚い看病にも及ばず岩村にきて、わずか3ケ月目に遠い黄泉の国(よみのくに)へと旅立たれたのです。
殿様をはじめ、家来衆・領民一同悲しみに包まれたことは言うまでもないことです。

 

 

釣姫(ちょうひめ)様のお付きの御女中名古屋城から来た御老女稲垣岸野だが岩村へきて僅か3ヶ月で釣姫様は不帰の人となってしまった。

 

 

岸野のお墓の近くに住んで(現岩村の隆崇院)釣姫さま霊を弔い、やがて血縁から養女を迎え、隆崇院住職得忍師養子にして、稲垣得忍と称した。

隆崇院の写真が上記の隆崇院をクリックすると載ってます。
また、隆崇院が石室千体仏を守っています。その記事も石室千体仏をクリックしてもらうと開きます。

 

 

岸野釣姫(ちょうひめ)の供養を専一※1にしてこの地で逝去した。
岸野亡きあと得忍師は寺を去り、還俗※2をして岩村に住むが、晩年は北海道帯広で没した。と記されている。

※1:ご自愛専一「まず第一に自分自身を大切になさってください」という意味。
※2:僧侶になった者が、戒律を堅持する僧侶であることを捨て、在俗者・俗人に戻ることをいう。

 

 

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釣姫(ちょうひめ)の遺品が町内に大切に保存されているが、岩村藩に貢献した人へのお礼の品であったり、釣姫(ちょうひめ)の供養に一生を捧げた功徳に対しての品であったりします、町内の心ある人達が善意のもとでの供養を支援協力したことが、今日ある「釣姫宝物」の存在と思われてならないです。
(詳しい事を知りたい方は、郷土読本の西尾精二090−2610−2354まで)

 

   

   下記の写真のものが釣姫様(ちょうひめ)お雛様です。
これは現在富田にある「茅の宿・とみだ」にあります。
今年は終わりました。

 

              ▲品のいい顔立ちのお雛様(葵の紋がどこにもない、流れ流れて葵の紋だけ失った

 

富田村の庄屋さんであった、本家上田寿夫さんが(故人)隆崇院から譲り受けて所有していました。
(このことは、西尾精二さんの話しで、直接本人から聞き確認しましたというコメントをいただきました)

 

 

その後分家の上田さんに渡って、現在は「茅の宿・とみだ」で預かって展示時期が来た時に飾っています。

 

   ▲茅の家 お問い合わせ先:0573−43~4021  Eメール:kayabuki_tomida4021@yahoo.co.jp

        ▲2018年2月27日(火曜) 中日新聞 朝刊(東濃版)掲載された。NPO法人「農村景観日本一」を守る会
              全国最高賞を受賞 写真左側から小坂恵那市長・吉村巧平理事長・細井健吉副理事長

 

                   ▲国道363の近くに道路誘導看板があります。

 

茅の宿とみだ
特定非営利活動法人 農村景観日本一を守る会が運営してます。
営業時間:AM11:00~PM14:00 営業日:土・日曜日(但し、年末から翌年2月末は冬季休業日)
駐  車  場:有
※団体様(8名様〜)食事会・お弁当・ご平餅の販売は予約です。

お食事処 
茅のふるさと定食   縁起の良い手打ちそば‥‥900円〜(各種)
※お米・蕎麦は地元産100%使用しています。

 

また、石見五万石から岩村藩へ嫁入りのときのお雛さんもあります。
立派なお雛様ですから、岩村資料館にお立ち寄りください。

 

▲茅の宿にあるお雛さん

 

 

釣姫さまのことは「釣姫」を参照してください。

 

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雛まつりの始まりの起源は、季節の節目や変わり目に災難や厄から身を守りより良い幕開けを願うための節句が始まりとされています。

 

 

今の幼い子に教えておきたい雛祭りの言われ、雛祭りにお雛さんは欠かせない人形です、昔は飾るものでなく川に流していたと言われています。

 

 

ひな祭りは、古くは「上巳の節句」「弥生の節句」などの呼び名があり、五節句(「人日」「上巳」「端午」「七夕」「重陽※3」の一つに当たります。

 

 

女の子がいる家ではこの時期にひな人形を飾り、白酒や桃の花を供えてお祝いをします。
ひな祭りの起源は中国までさかのぼれるとされています。

 

 

昔、漢の時代の除肇(じょちょう)という男、3人の女児をもうけたにも関わらず、3人の女児が3日以内に亡くなってしまいました。
その嘆き悲しむようすを見た同じ村人たちが酒を持ち、女児の亡骸を清めて水葬したことに由来しているとされています。

 

 

それが平安時代になると「上巳の祓い」といって、3月3日に陰陽師を呼びお祓いをさせ、自分の身に降りかかる災難を自分の生年月日を書いた紙の人形(ひとかた)に移らせて川に流しました。

 

 

この厄払いはの様子は今でも下鴨神社で行われ「流しびな」の行事が再現されています。
この紙のひな人形が発展し、現在の豪華なひな人形になったとされています。

 

▲下鴨神社

 

 また、ひな壇を設けるようになったのは、江戸中期からだそうで、それまでは畳に直に絨毯を敷き人形や調度品を飾っていた胃とか言わていれます。
京都の宝鏡寺が別名「人形寺」とも言われ、光格天皇遺愛の品の他、多くの人形が
納められています。

 

 

10月には人形供養の行事が行われます(詳しくは「人形寺」にお問い合わせください)以上がひな祭りの始まりです。
※3重陽とは: 紫式部は、こんな歌を読んでいます。

「菊の花 若ゆばかりに袖ふれて
            花のあるじに 千代はゆずらむ」

 

 

旧暦の9月9日は、重陽の節句と呼ばれ、平安時代には前日の9月8日に菊の花を真綿でおおって菊の香を移し、その翌日の朝に露に湿った、この真綿で顔にあてて、若さと健康を保とうとする行事がありました。
これを「菊の着せ綿」と言います。

 

 

『紫式部は藤原道長の北の方(妻)である源 倫子から「菊の着せ綿」を贈られて感激したようで、当時は綿は大変高価なものでした。
いくら道長の娘(彰子)にお仕えしていると言っても、自分には身分不相応と遠慮したのでしょうか?

 

 

▲紫式部像

 

道長の栄華、そして紫式部の思慮深さが偲ばれる歌です。
この日、紫式部は藤原道長の北の方(奥さん)・源倫子から菊の着せ綿を贈られて大変感激したようです。

 

 

当時綿は大変高価なもの。
いくら道長の娘・彰子にお仕えしているといっても、自分には身分不相応と遠慮したのでしょうか。

 

 

「(着せ綿の菊の露で身を拭えば、千年も寿命が延びるということですが)私は若返る程度にちょっと袖を触れさせていただき、千年の寿命は、花の持ち主であられるあなた様にお譲り申しましょう」とその着せ綿を丁寧にお返ししようとしたとのことです。
道長家の栄華、そして紫式部の思慮深さがしのばれる歌ですね。

 

 

旧暦9月9日は陰陽道の考え方から縁起のよい陽数(奇数)の最大値である9が重なることから「重陽」と言われています。
五節句(人日・上巳・端午・七夕・重陽)の中でももっとも重んじられてきました。

 

 

「重陽の節句」は、別名「菊の宴」ともいい、古くから宮中に年中行事の一つとして伝わっています。

 

 

菊は翁草、齢草、千代見草とも別名を持っており、古代中国では、菊は仙境に咲いている花とされ、邪気を祓い長生きをする効能があると信じられていました。
その後、日本に渡り、菊の香と露とを綿に含ませ身をぬぐうことで、不老長寿を願う行事として定着したようです。

 

 

宮中の重陽の行事としては、平安時代前期の宇多天皇のころに始まりました。
近世に入ると「白菊には黄色の綿を、黄色の菊には赤い綿を、赤い菊には白い菊を覆う」との記述が見られるようになります。

 

 

重陽の日に菊の花が咲かない年は、綿で菊の花を造ったという記述もあります。
この日は観菊の宴が催され、菊の花を酒に浸した菊酒を酌み交わして、人々は延命長寿を祈りました。

 

 

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