【日本三大山城】岩村城の歴史

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

お城 加藤景廉 千体仏 岩村城 恵那市

岩村城の「千体仏」は、七年に一度のご開帳で領民の安泰繁栄を祈って建立した松平乗寿。

投稿日:2018年1月19日 更新日:

石室千体仏で金箔作り、一度は見ておきたい。

   日本には「千体仏」という仏像が各地域にそれぞれあります。

 

 

岐阜県養老にもある、また、京都(三十三間堂)千体仏※1奈良興福寺千体仏仙台市大満寺千躰仏津島市千体仏「西の八坂神社「津嶋神社」と呼ばれた牛頭天王信仰の総本社である津島神社の門前町として繁栄してきたこの町(津島)に、江戸時代行御僧『円空』が彫った千体仏が安置されている。

 

 

でも岩村町でご開帳の千体仏は金箔で千体あります。

常時みれるものではなく、年毎にみれるんです。

知る人ぞ知る岩村の「千体仏」をみて下さい。

 

 

平成30年(2018年)5月6日(日)で閉じました
次回は7年後の2025年にご開帳となります。
拝観有難うございました。
今後、それぞれの町の千体仏を探して記事にします。

 

             これは京都の三十三間堂です↓

     ▲平成30年3月23日撮影(三十三間堂)

 

 

※1京都(三十三間堂)『国宝  千手観音坐像』
 左右に、計千体の等身観音立像に囲まれており、お堂中心に安置されるのが丈六の坐像で「中尊」(ちゅうそん)と呼ばれています。

 

 

 

広々とした空間の巨像は、像高が3m余、檜材の寄木造で全体に漆箔が施されています。
42手で「千手」を表わす通例の像形で、鎌倉期の再建時に、大仏師湛慶(たんけい)が、同族の弟子を率いて完成させたものです。

 

 

全体の均整が保たれ、厚ぼったい感じのする一種の張りのある尊顔や、温雅な表情は湛慶の特徴的作風とされ、観音の慈徳を余すところなく表現しています。

 

 

        
    ▲千体千手観音立像                            ▲千体観音坐像

 

 

京都 (三十三間堂)『重文  千体千手観音立像』
 前後10列の階段状の壇上に整然と並ぶ等身大の1000体の観音像は圧巻で、堂内は、さながら“仏像の森”、三十三間堂ならではの特徴です。

 

 

各像は、頭上に十一の顔をつけ両脇に40手を持つ通形で、中尊同様の造像法で作られてます。

千体の中、124体は、お堂が創建された平安期の尊像、その他が、鎌倉期に16年かけて再興された像です。

 

 

その約500本には、作者名が残され、運慶、快慶で有名な慶派をはじめ、「院派、円派と」呼ばれる当時の造仏に携わる多くの集団が国家的規模で参加したことが伺えます。

 

また、観音像には、必ず会いたい人に似た像があるとも伝えられています。

 

 


 ▲275号線を走っていると看板があります。これは平成30年5月6日で終わりました。

 


       千体仏の仏像が全部写っています。

 

   

現在の恵那市岩村の石室千体仏は昭和5年1月に紛失、昭和11年に再入仏したものです。簡単にいうと盗難にあったのです。

 

 

ご開帳は建立当時から年毎の、陽春4月桜の咲く頃に開かれる。
今年はそのご開帳年である(平成30年は4月22日(日)〜5月6(日)).前回は2012年(平成24年4月22日〜5月6日)石室千体仏が御開帳されました。

 

 

平成30年4月2日(月)より放映の「半分、青い。」の朝ドラがスタートしましたので、この期間は観光客が多くて拝観に不便をおかけしました。

 

      ▲田園風景を走るラッピングした「半分、青い。」明知線。

 

もう放送は終わりました。

 

※ロケ地(ふくろう商店)のスナップ写真がいっぱい載せてあります。
※興味のある方はクリックして下さい。

 

 

 ▲陽春4月近郷はもとより遠方からも多くの参詣者が来ます。

 

 

仏像(阿弥陀像)は1千1体ある。

中尊1体はご身長1尺4寸(約42cm)座光共3尺6寸(約109cm)小仏千体3寸(約9cm)座光共4寸(約12cm)であるが、小仏1000体のうち10体は100体ごとの首像(かしらのぞう)として4寸(約12cm)座光共に5寸5分(約17cm)とすこし大きい。

 

 

仏像は木彫りで彫られていて、その上に金箔を施してあります。

 

 

それぞれ仏像の表情が異なっていています。
千体の金色に輝く仏像は凄いというに等しい、圧倒されます。

 

写真のように光り輝いています。

 

 

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恵那郡岩村藩の千体仏は、経塚で寛永9年関ヶ原の戦いから32年後の(1632年)岩村城主第2代松平乗寿(まつだいらのりなが)(大給松平本家)が、岩村城の鎮護(災いや戦乱を鎮め、国の平安を守ること)と領民の安泰繁栄を祈願して建立したもの。

※上記の岩村城主松平乗寿を検索すると。岩村城の登城口から頂上まで詳しく説明してあります、興味のある方はクリックしてください。

 

 

松平乗寿(のりなが)は菩提寺の龍厳寺に命じて浄土三部経千部を石筺に納め、地中に深く埋蔵し、その上に石室を設け千体の阿弥陀像を安置した。

 

 

6年後に二代藩主松平乗寿(のりなが)は国替えを命じられ、それによって浜松へ移り『大給松平家初代岩村城主 初代藩主松平家乗』(いえのり)(1601年〜1614年)年2代藩主松平乗寿(1614年〜1638年遠江浜松藩に転封を命じられる)。

 

 

その後丹羽氏が岩村城主となって、丹羽氏が5代 6 4年在城し岩村を治めた。

『丹羽家初代岩村城主』
初代藩主丹羽氏信(1638年〜1646年)
二代藩主丹羽氏定(1646年〜1657年)
三代藩主丹羽氏純(1657年〜1674年)
四代藩主丹羽氏明(1674年〜1686年)
五代藩主丹羽氏音(1686年〜1702年)

お家騒動が原因で領地半減となって越後高柳(現 新潟県新井市)へ移った。

 

 

その後信州小諸(長野県小諸市)から松平乗紀が転封してきたが、この松平氏は丹羽氏の前の岩村城2代城主松平乗寿(のりなが)の孫(父は松平乗政)が創立した分家大給松平の一族であった。

 

 

松平乗紀初代二代松平乗賢・三代松平乗薀・四代松平乗保・五代松平乗美・六代松平乗喬・七代松平乗命と続いたが廃藩置県を迎える。

 

 

約110年を経て石室千体仏が荒廃してきたので、岩村藩主2代松平乗賢(のりかた)大給松平本家の下国佐倉藩主(千葉県佐倉市)松平乗邑(のりさと)と協力して寛保元年(1741年)修復再営した。

 

 

石室を改修し仏像も新しく作り、前の古い仏像は供養して地中に埋蔵した。
石室の正面から左廻りに「美濃州岩村城邑一色千躰仏像再営記」が刻み込まれている。

 

   ▲石室に千体の仏さんがあります。

 

仏像中尊1体小像1000体あり、小像のうち10体100体ごとの首像として少し大きい。

全仏像とも金彩(金箔)が施してある。

 

 

石室千体仏を再営した乗賢(のりかた)乗邑(のりさと)松平乗寿(のりなが)の曾孫であり、2人とも老中大役に任ぜられた。

 

 

大給松平家岩村城主は。
信濃小諸藩の第2代藩主であった、転封を命じられ美濃岩村藩へ
初代藩主松平乗紀(のりただ)岩村藩大給松平家2代(1702年〜1716年)
2代藩主松平乗賢(のりかた)(1717年〜1746年)岩村藩大給松平家3代
3代藩主松平乗薀(のりもり)(1746年〜1781年)岩村藩大給松平家4代
4代藩主松平乗保(のりやす)(1781年〜1826年)岩村藩大給松平家5代
5代藩主松平乗美(のりよし)(1826年〜1842年)岩村藩大給松平家6代
6代藩主松平乗喬(のりたか)(1842年〜1855年)岩村藩大給松平家7代
7代藩主松平乗命(のりとし)(1855年〜1871年)岩村藩大給松平家8代

 

 

●最後の城主乗命(1871年)明治4年1月に正室として尾張藩62万石の釣姫(ちょうひめ)を迎えるも死去。

(1860年)従五位下・能登守※2
(1864年)大阪加番。
(1866
年)第二次長州征討に参加。
(1867年)7月奏者番に任命、12月に陸軍奉行に任じられる。
     しかし幕府の要職にありながら
慶応4年(1868年)2月にあっさりと新政府に恭順している。
明治2年(1869年)6月版籍奉還で岩村藩知事に任じられる。
明治4年(1871年)7月の廃藩置県で藩知事を免官される。
明治17年(1884年)華族令で子爵。
明治38年(1905年)11月15日東京で死去。

 
※2 江戸時代の守名乗り、武家官位というのは、幕府が一括して朝廷に申請してもらうわけ、旗本ならだいたい三千石以上かあるいは奉行などの役が付いた場合。位階は、一律で従五位下、普通の大名と同じです。大名と直参旗本はほぼ一律です。(例外は、旗本なら高家、譜代大名なら老中になったとき、外様なら国持、などです。

 

 

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恵那の観音霊場は、江戸時代に創設されましたが、盛衰を繰り返すなかで、これまでまの霊場を統合整備し昭和60年新たに「恵那三十三観音霊場」を復興されました。

※お遍路さんをやってみようと思う人は、恵那三十三観音霊場をみてください。

 

●恵那三十三観音霊場巡り(平成30年)
春季 ご開帳期間: 4月12日(木)〜 4月18(水)日
秋季 ご開帳期間:10月12日(金)〜10月18(木)日

 

いわむら
昔ばなし余話によると

   岩村藩主のお殿様和泉守に、とても美しい楓姫という姫がいました。
その楓姫を,松平左門という若者が好きになってしまいました。
殿様は参勤交代で江戸の方に言ってて留守、十五夜の晩に、左門は楓姫にあろうことか自分の心の気持ちを打ち明けて「結婚してくださいとプロポーズして」と頼みました。

 

 

楓姫は驚き、キッパリと断ることもできず、「江戸の殿様に許しを受けて来たならば・・・」といいてしまいました。
若い左門は、姫の言葉を信じて、その夜のうちに江戸え向かって旅立ちました。

 

 

どうしたことか左門は江戸にも着かず、家にも何の便りもなく、行方が分からなくなってしまいました。

 

 

ある夜、楓姫は夢を見て左門が大きな大蛇(おろち)に飲み込まれながら「この腹を切り開いても、姫と結婚して添い遂げて見せる」と叫んでいる夢を見て。

 

 

 

姫は自分の言った言葉を信じて江戸に旅たって、行方知れずになってしまった左門が可哀想で、自分のせいだと我が身を責めるあまり、とうとう楓姫は病の床に着いてしまいました。

 

 

ちょうどその頃、城下町の西の丘で、腹の裂けた白い大蛇が見つかると、楓姫の心は暗く閉ざされ、病気がますます重くなり、殿様は楓姫のことを大変心配しました。

 

 

 

そこで、腹の裂けた白い大蛇の見つかった丘の上に、金を塗った千体の仏様を立てて、行方知れずになってる左門の菩提を弔うと共に、楓姫の病気が治るように一心に祈ったとうことです。

 

 

 

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