【日本三大山城】美濃国岩村城の歴史と日本史

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

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大給松平家が岩村城主となった松平家乗とは?何をした人?徳川家康との関係は

投稿日:2020年10月13日 更新日:

こんにちは
戦国時代から江戸時代にかけて、松平氏といってもいっぱいあるので分かりづらいですよね。

 

 

系図をみて判断してください。

 

 

勝てば官軍とはよく言ったもんです。

関ヶ原の戦いで、家康が勝ったので徳川時代になって、松平家乗初代岩村城主となって移封してきた。

 

 

松平氏と松平家乗とは、どいう人物か調べてみたいです。

 

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松平氏とは、三河地方でいかなる豪族だったか?

もともと松平氏は、室町幕府に興った三河国加茂郡松平郷(現・愛知県豊田市松平町)の在地の小豪族であり、のちに江戸幕府の征夷大将軍家となった徳川氏の母体です。

 

 

松平氏はいっぱい氏族があっていっぱい何々松平家が誕生して行った。
徳川家康の改名前の松平家は、安祥松平家は三河武士でしたが、出身系譜は定かではないですが、15世紀後半に領地を拡大し、一族に分け与えました。

 

 

宗家の三代信光の子が○○松平家と名乗って行った。
四代の親忠の子も○○松平家と名乗って行った。
五代の長親も同様です。
六代の信忠も同様です。

 

 

これら「十八松平」と呼ばれれる家で、竹谷(たけや)・安城・形原(かたのはら)・大草・五井・能見・長沢・深溝(ふかうず)・岩津・大給・滝脇・副釜(ふつかま)・桜井・藤井・三木等です。

 

 

①竹谷松平家とは:松平信光の長男守家の流れ。三河宝飯郡竹谷(現・蒲郡市竹谷町)を領した。

 

②形原松平家とは:松平信光の四男与副の流れ。三河宝飯郡形原(現・蒲郡市形原町)を領した。

 

③大草松平家とは:松平信光の五男光重の流れ。三河額田郡大草(現:愛知県額田郡幸田町)を領した。

 

④五井松平家とは:松平信光の七男忠景の流れ。三河宝飯郡五井(現・蒲郡市五井町)を領した。御油とも書くます。

 

⑤深溝松平家とは:信光の子・五井松平忠景の次男忠定の流れ。三河額田郡深溝(現・愛知県額田郡孝田町深溝)を領した。

 

⑥能見松平家とは:松平信光の八男光親の流れ。三河額田郡能見(現・岡崎市能見町)を領した。

 

⑦長沢松平家とは:松平信光の十一男親則の流れ。三河宝飯郡長沢(現・豊川市長沢町)を領した。

 

⑧大給松平家とは:安祥松平家親忠の次男乗元の流れ。三河加茂郡大給(現・豊田市大内町)を領した。

 

⑨滝脇松平家とは:安祥松平親忠の九男乗清の流れ。三河加茂郡滝脇(現・豊田市滝脇町)を領した。

 

⑩福釜松平家とは:安祥松平長親の次男親盛の流れ。三河碧海郡福釜(現・安城市福釜町)を領した。

 

⑪桜井松平家とは:安祥松平長親の三男信定の流れ。三河碧海郡桜井(現・安城市桜井町)を領した。

 

⑫東条(青野)松平家とは:安祥松平長親の四男義春の流れ。初代義春・二代忠茂は三河碧海郡青野城(現・岡崎市上青野町)、三代家忠が東条城(現・西尾市吉良町)を居城とした。

 

⑬藤井松平家とは:安祥松平長親の五男利長の流れ。三河碧海郡桜井(現・安城市藤井町)を領した。

 

⑭三木松平家とは:松平信忠の次男信孝は当初、三河合歓木を量するも、のちに三河の三木城(現・岡崎市上三ツ木町)を居城とした。合歓木松平家ともいう。

 

十四松平とは、江戸時代に存続し『寛政寛政重修諸家譜』に記載された松平庶流十四家※1

※1松平庶流十四家とは、十八松平は、松平氏の一族にうちで、徳川家康の時代までに分家したルーツを持つ松平家の俗称。また、十四松平ともいわれる。「十八松平」「松」の字を分解し十八公とする中国の慣習から着想されたという説があり、十八という数は実数ではないとも指摘される。

 

 

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その中で安祥松平家とは 松平信光の三男親忠の流れで、のちの徳川家

にあたる宗家にあたります

 

 

江戸時代の史料たる『改正三河後風土記』で十八松平に入り、以後は家督は親忠の三男の松平長親、その長男松平信忠、その長男松平清康家康の父・広忠継がれて行った

 

                           ▲安祥城跡

 

もとは安祥城と呼ばれ、安城町に所在し、碧海台地東緑部の半島状に伸びる台地上に位置しています。
台地の南・東・西側は湿田となっていて、天然の要害となっていました。

 

                        ▲岡崎城

 

築城・廃絶時期は定かでは定かではないですが、戦国時代には松平氏の居城となり、城をめぐって織田家との間で幾度の攻防が繰り広げられました。

 

 

清康の代になって本拠地岡崎に移され、、江戸時代には畑となっていましたが、1792年(寛政4)に了雲院が移転して来て現在に至っています。

 

 

 

家康の徳川改姓と家臣化

父・広忠の嫡子竹千代(松平宗家9代。元服して元康)は、今川義元の人質として駿府に送られ、松平氏の三河支配は実質的に中断せざるを余儀なくされたが、永禄3年(1560年)桶狭間の戦い織田信長による奇襲攻撃による今川義元の死で、岡崎大樹寺住職の説論を得て生誕地の岡崎に戻り今川氏から独立し名前を松平家康と改めた。

 

 

その後、家康三河を統一すると永禄9年(1566年)に勅許※2を得て、先祖得川義季※3以来の得川の名字を復活させると、さらに嘉字である徳川に

改めた

 

 

ただし、徳川の名乗りは家康一家のみが名乗り、松平諸家の姓は松平に留めた。

 

 

家康は、これにより自身の家系を松平一族の中で別格の存在として内外に完全に認知させることに成功し、「十八松平」諸家は徳川氏の親族ではなく家臣の格である「譜代」に位置付けられた。

 

※2 :勅許(ちょっきょ)とは、天皇からお許しを得る。勅命による許可を頂く。

※3得川義季(とくがわよしすえ)とは、新田義季/得川義季/世良田義季は、平安時代末期から鎌倉時代初期頃にかけての武士・御家人。得川氏・世良田氏の祖。のちに徳川家康によって、徳川氏・松平氏の遠祖※4とみなされる。

※4遠祖(えんそ)とは、遠い先祖のこと。

 

 

得川吉季は、新田義重の四男として生まれる。
新田義兼の同母弟といい、新田一門でも地位はかなり高かったという。

 

 

父・義重からは上野国新田郡(新田荘)世良田郷を譲られ、世良田郷の地頭となった。

 

 

これにより世良田と称したともいわれる。
また、新田郡得川郷を所有して、得川四郎を称したとされる。『群馬県百科事典より』

 

 

義季の後は長子・頼有(下野四郎太郎)が得川郷を継承し、次子・世良田頼氏が世良田郷を継承した。

 

 

承久3年(1221年※6栄西の弟子栄朝を住持※5に招いて世良田長楽寺を開祖・建立した。

※5住持(じゅうじ)とは、一寺の主僧を務めること。また、その僧。住持職。住職。

※6:1221年とは、承久の乱があった年、承久の乱とは、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権北条義時に対して討伐の兵を挙げて戦って敗れた兵乱。武家政権という新興勢力を倒し、古代より続く朝廷の復権を取り戻そうとした争い。この時代に岩村城遠山景朝が参戦していて、一条信能を鎌倉に連行するため岩村の地にきた時に岩村の相原で斬首した。そのため村人があまりにも可哀想でといって祠つくって祀ったのが、いまの巌邑神社です。

※上記の巌邑神社をクリックしてもらうと、一条信能のことが書いてあります。

 

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初代岩村城主松平家乗

 

大給松平家宗家の図、岩村城主は二代で終わって丹羽氏から松平乗寿の孫から再び城主になって明治維新まで七代続く。

 

大給松平家とは、岩津に進行した乗元の祖父の松平信光は、長坂新左衛

門の拠る加茂郡荻生(おぎゅう)大給城を攻略して三男の親忠に与えた

 

親忠は次男の乗元細川城と共に大給城を譲った
乗元、乗正父子は永正7年(1510年)頃まで、城の大規模修築を行った。

 

 

松平宗家の4代の親忠の次男・乗元が大給松平家の祖となった
松平 乗元(まつだいら のりもと)は、戦国時代の武将。松平親忠の次男。通称は左近。

 

※上記のお大給城をクリックして貰うと大給城のことが書いてあります。

 

 

松平家乗と徳川家康との歳の差

徳川家康は、天文11年12月26日(ユリウス暦1543年1月31、遡及グレゴリオ暦※7でいうと、1543年2月10日生誕。)

松平家乗は、天正3年(1575年)だから、家康32歳の差があります
※7:グレゴリオ暦とは、現在世界の大部分で使われている暦です。太陽暦の一種です。▲

 

天正18年(1590年)の小田原征伐後、関東に入部した徳川家康は、松平家乗に上野国那波郡内1万石を与えた。

城地は那波城※8(現・伊勢崎市堀口町)とされます。

※8那波城とは、那波城(那波藩)は、徳川家康の関東移封から江戸時代初期にかけ上野国那波郡(現・伊勢崎市・玉村町・前橋市の各一部)に置かれた藩。書籍によっては、藩としては扱われなかったり、伊勢崎藩として扱われる。『群馬県史』1927年版は那波藩とみなしている。

 

 

松平家乗は、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い三河吉田城を守備した功績などを賞されて、慶長6年(1601年)正月に2万石に加増の上で、上野国から美濃国の岩村藩に加増転封となった

 

 

天正10年、父が死去したため、家督を継ぐことになった。天正15年主君・徳川家康から偏諱※10(へんき)を受け家乗と名乗った

※10偏諱とは、将軍や大名が、功績のあった臣や元服する者に自分の一字を与える。

 

慶長19年(1614年)39歳で死去。

跡を長男・乗寿が継いだ。

 

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