美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

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源頼朝の家系図が凄い!先祖を辿ると清和天皇に繋がった

投稿日:2021年10月16日 更新日:

   源頼朝(1147年〜1199年)いえば、源氏。
源氏といえども各天皇の流れを組む源氏名が二十一流ありますが、頼朝は清和源氏の流れを汲む河内源氏です。

         ▲源経基の孫・源頼信の三男から河内源氏が始まる

 

それも清和天皇から連なる清和源氏の直系だったことを知ってましたか?

どうして三男なのに、源頼朝が源家の跡を継いだかというと、父・義朝、母・正室の由良御前の間に生まれたため家督を継いだんです。

兄二人は側室の子だったのです。

 

 

源氏名とは、皇族が家臣に下るときに源姓を賜ったからです。

「源」を授かった氏族が「源氏」と言うことになりますが、この源氏にも天皇さま事に、様々な流派があり、その数21もあるんです。

これは「源氏二十一流」と呼ばれています。

 

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それでは、源頼朝はどこの流派なのか?

源氏二十一流とは、どれだけ何があるの?

嵯峨源氏 ②仁明源氏 ③文徳源氏 ④清和源氏 ⑤陽成源氏 ⑥光孝源氏 ⑦宇多源氏 ⑧醍醐源氏 ⑨村上源氏 ⑩冷泉源氏 ⑪花山源氏 ⑫三条源氏 ⑬後三条源氏 ⑭順徳源氏 ⑮後白河源氏 ⑯後嵯峨源氏 ⑰後深草源氏 ⑱後醍醐源氏 ⑲正親町源氏 ⑳亀山源氏 ㉑後二条源氏
以上です。

 

この21ある源氏の中でも子孫が栄えたのは、一部の流派です。
そのうち存続したのは、第52代嵯峨天皇の皇子を祖とした嵯峨源氏、第59代の宇多天皇を祖とする宇多源氏、清和源氏、村上源氏の4流派が有名です。

 

 

 

では、頼朝は‥‥というと。

「平治の乱」で父の義朝が敗れ頼朝は13歳の頃、平家によって伊豆国の蛭ヶ小島に流された。

その後約25年後の、元暦4年3月に壇ノ浦の戦いで平家を破って、鎌倉幕府を創った

 

 

源頼朝の先祖はというと、第56代・清和天皇だったんです。
清和天皇を起源とするのが清和源氏です。

 

 

清和天皇は、27歳の時、息子・貞明親王(第57代・陽成天皇)に譲位し出家する。

貞明新王が陽成天皇になった。

 

 

その弟の貞純親王は清和天皇の第6皇子で桃園親王です。
その子供、経基・経生の両王子が共に源姓を譲与され臣籍降下したことから、清和源氏の祖となった。

                ▲河内源氏の系図

 

ただし、これについては異説があって、従来の貞純親王流とされる清和源氏は陽成天皇(貞純親王の兄)から繋がる血筋だとする説もあります。
どちらにせよ、清和天皇が頼朝の先祖となります

 

 

 

清和天皇の孫・源経基はどいう人物

父は清和天皇の第六皇子・貞純親王で母は右大臣・源能有の娘、六孫王と称する。

 

 

平安時代中期の皇族・武将で、経基流清和源氏の始祖です。
六孫王神社は源経基を祭神として祀ってある、多田神社、壷井八幡宮と共に源氏三神社と言われています。

 

 

 

源経基の嫡男・源満仲

平安時代中期の武将・六孫王経基の嫡男。清和源氏。
摂関家に接近し「安和の変」969年では密告者となった。

 

 

諸国の受領を歴任し、鎮守府将軍となり清和源氏の発展の基礎を築いた。
摂津守の時、摂津の多田に住み多田院を創設したので多田源氏の祖で、多田満仲とも言うようになった。

 

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源満仲の三男・源頼信

清和源氏は複数の系統に分かれていて、源頼朝は源頼信に始まった河内源氏の流を組んでいます

 

 

河内源氏は八幡太郎として知られている源義家のような、武勲をたてる武家棟梁と呼ばれています。

 

 

 

源頼信の嫡男・頼義

平安時代中期の武将で、平忠常の乱で父に従って戦功をあげ、前九年の役では鎮守府として安倍氏討ち、東国における源氏の勢力を強めた。

 

河内源氏の初代・源頼信の子で河内源氏二代目の棟梁

 

 

源頼義の嫡男・源頼家

平安時代後期の武将で、源頼義の長男。
八幡太郎の通称で呼ばれています。

 

子孫には、鎌倉幕府を開いた源頼朝や、また、室町幕府を開いた足利尊氏がいます。

 

 

源義家の嫡男・源義親

平安時代後期の武将で源義親の子。
河内源氏四代棟梁、義家の長男だったが、対馬守に任じられとき、九州で略奪を働き官史を殺害したため、隠岐国へ流された。

 

 

だが、出雲国へ渡って再び、官物を奪ったために、平正盛の追悼を受けて誅殺された。

剛勇の義親が簡単に討たれた事を人々は疑い、その後幾度となく義親を名乗る者が現れている。

 

 

源義親の嫡男・源為義

平安時代末期の武将で祖父は源義家父は源義親。
叔父の源義忠暗殺後に河内源氏の棟梁と称す。

 

 

通称は六条判官、陸奥四郎、源頼朝、源義経らの祖父。
当初は、白河法皇・鳥羽上皇に伺候する不祥事で信任を失い、検非違使※1を辞任する。

※1.検非違使(けびいし)とは、平安初期に置かれた、令外外の官の一つ。京中の非違・非法を検察する役であったが、訴訟・裁判も扱うようになり、その権威は強大になった。のちに、諸国や伊勢神宮にも置かれた。

 

 

 その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門第大尉となって検非違使への復帰を果たすが、八男 の源為朝の乱行により解官となる。

 

 

「保元の乱」において崇徳天皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男の源義朝の手で処刑された。

 

 

 

源為義の嫡男・源義朝

いわずと知れた源頼朝・源義経の父です。

平安時代の河内源氏六代目棟梁で源為義の長男、母は白河院近臣の藤原忠清の娘です。

 

 

源義家の死後、河内源氏は源義光を発端とする内紛によって都での地位を凋落させていた。
都から東国へ下向した義朝は、在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられる。

 

 

東国武士団を率いて「保元の乱」で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の「平治の乱」で藤原信頼方に与して敗北し、都を落ち延びる道中尾張国で家人に裏切られ謀殺された。

 

 

 

源義朝の子供たち

           ▲源義朝の正室・側室・子供たち

 

長男:源義平(1141年〜1160年)
母は側室・三浦義明の娘。
強い・猛々しい男ということから、通称「悪源太」と呼ばれていました。
「平治の乱」後に平清盛を討つために潜伏中京で捕らえられて斬首される。

 

次男:源朝長(1143年〜1160年)
母は側室・波多野義通の妹です。
「平治の乱」後に、京都落ちする際僧兵の落人狩で負傷して、傷がもとで身動きができず、身を平家に生き恥を晒したくないと父に死を願う。 16歳で没した。

 

三男:源頼朝(1147年〜1199年)
母は正室・由良御前で尾張国の熱田大宮司・藤原季範を父にもつ。
なぜ跡目を継いだかというと正室の子のためだから棟梁となった。
「平治の乱」後に捉えられ、伊豆国蛭ヶ小島に配流、のちに平家や奥州藤原氏を倒した。

 

四男:源善門(早死にしたため不明・母親は由良御前)

◻️五男:源希義(1152年〜1180年または1182年)

長女:坊門姫(1145年または1145年〜1190年)、一条能保の妻、子に一条高能、九条良経室、西園寺公経室全子、後鳥羽天皇乳母大納言三位保子。

六男:源範朝(1167年〜1190年) 治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、源義経と共にこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。

その後も源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ伊豆国に流された。

 

七男:阿野全成(1153年〜1203年)
七歳のとき、平治の乱で父・義朝が敗死したため幼くして醍醐寺にて出家させられ、隆超(または隆起)と名乗り、ほどなく全成と改名する。

 

八男:源善円(平安時代末期の僧侶、母は常盤御前、幼名は乙若丸)

九男:源義経(1159年〜1189年)
平治の乱で父・義朝が敗死したことにより鞍馬寺に預けられる幼名を牛若丸、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衛の庇護を受ける。

 

兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)と、それに馳せ参じ、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅し最大の功労者となった。

 

その後、兄・頼朝の許可を得ることもなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専攻によって怒りを買い、このことに対し自立の動きをみせため、頼朝と対立し朝敵とされた。<br/ 全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衛を頼った。

 

しかし、秀衛の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衛に攻められ、、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刀した。

 

□次女:名前不明

 

 

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