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渋沢栄一と銀行家フリュリ・エラールとの出会いで学んだものは

投稿日:2021年10月8日 更新日:

 渋沢栄一は、明治に入って経済や商工業の面で我が日本を近代国家にすべく奔走した人物、「日本の資本主義の父」と言われる。

 

 

ではどうして栄一は経済に強くなったか?

 

 

生涯に500ともいわれる会社や国立銀行・東京証券取引所など多種多様な企業を設立・経営に関わり、根本的な社会改造を経て日本に資本主義をもたらしたことで知られている。

 

               ▲現在の東京証券取引所

 

誰もが知ってる、みずほ銀行、サッポロビールなど会社名を挙げればキリがないほど凄いです。

 

 

栄一は、幼少の頃から、父親について行商に行ったりして才能はあったと思うけど、その経済の才能を大きく開花させたのは、慶喜に弟・徳川昭武のお供として、パリ万博幕府使節団として、フランスをはじめ欧州各国を訪問したことではないでしょうか。

 

 

特に、同世代のパリの銀行家「フリュリ・エラール」との出会いじゃなかったか、徳川が倒れて明治新政府になったはいいが、渋沢栄一の「近代日本経済の発展に捧げる気持ちが無ければ、どうなていただろうか」もっと遅れていたか、明治政府が混乱して転覆してかもしれない。

 

そんなに渋沢栄一を、そんなに英雄視することはないけど、そう思います。

 

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資本主義に開眼

 渋沢栄一が近代的資本主義の基礎となる金融制度に開眼したのは、徳川昭武の随員(庶務・会計担当)としてパリ万国博覧会に赴いたさいに。

 

 

名誉総領事として日本一行の案内役となった、銀行家「フリュリ・エラール」から手取り足取りで銀行、株式会社、公債、社債、株式取引所など金融システムを教えられたことによろると考えます。

 

 

士農工商に矛盾を感じた栄一

 渋沢栄一は天保11年(1840年)武蔵国血洗島に生まれた。
生家は農業のかたわら藍玉の製造販売を営む経営農家で、父親は地域の名望家として知られていた。

 

 

父親と一緒に藍を栽培している農家の人との付き合い方を幼い頃から父に教えらて育った。

 

 

つまり、農民としてより商人として父親から経営学を叩きこまれた。

転機が訪れたのは、栄一が17際に時、領主の娘の結婚資金の件で、岡部の陣屋の代官に親の代理として呼び出された。

 

 

代官から500両の御用金の返答を即答で要求されたが、父親の代理できてるので即答はできないと答えたところ、代官にさんざん面罵され侮辱された。

 

 

この経験で、栄一は士農工商という身分社会の矛盾を感じ取っていった。

代官とは面識もないのに、言動といい動作といい、察するに知識のない者が代官という役職を務めている良民を軽蔑嘲弄するというのは、お上の政治むきが悪いと思った。

 

 

これを機に尊皇攘夷運動に走った。
その挙句、従兄弟たちと結社をつくり横浜居留地の焼き討ちを計画するも頓挫、官憲の追ってから逃げるために、一橋家の家来になる。

それでパリ万博へ行くこととに恵まれた。

 

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フリュリ・エラールから経済のイロハを学ぶ

渋沢栄一がフリュリ・エラールに初めて出会ったのは、慶応3年(1867年)のフランスの万博のときである。

 

 

この年の4月に開催されえたパリ万国博覧会において、日本はフランスから出品と将軍親族の派遣を求められ、江戸幕府・第15代将軍になったばかりの「徳川慶喜」は、当時14歳だった弟「徳川昭武/民部公子」を派遣した。

 

 

パリ滞在中庶務・会計という雑務を一手に処理するにあたり、最も頼りにしたのが、日本名誉総領事のフリュリ・エラールだった

 

 

パリで銀行家としての経歴を持つフリュリ・エラールは、様々な経済知識を若い渋沢栄一に授けていきました。

 

 

こうして知り合ったおかげで、栄一は経済の知識を身につけ近代日本経済の発展に役立って行きことになります。

 

 

 

資本主義の家庭教師となったフリュリ・エラール

パリ万博使節団に徳川昭武が派遣されたのは、ヨーロッパにおいて積極的な幕府外交を繰り広げるため、また、万博が終わった後も、徳川昭武にフランス留学経験を積ませようという思惑がありました。

 

           ▲パリへ渡ってチョン髷を切った記念写真(ネットより)

 

 

厳しい財政事情の中で、渋沢栄一は昭武に勉学を続けさせるために、資金運用を行いました。

 

 

その資金運用のアドバイザーが銀行家フリュリ・エラールだったのです。

近代国家パリにおける金融のプロであるフリュリ・エラールから、銀行の仕組みや業務・株式会社の設立要件や組織を学びました。

 

 

さらに彼はフランス流の日々の細かい会計上の処理や資金運用方法を、実際の現場を見せながら教えて行ったのです。

 

 

実際、栄一は20,000両でフランスの公債を購入し、鉄道会社の株を買うという事もして、昭武の留学資金の費用や生活費を工面もしました。

 

 

栄一が購入した公債は、銀行よりも高い利息が付き、また、購入した株価が上がり、配当金が多くもらえる事も実体験として学んんだのです。

 

 

帰国後、欧州での実務も含めた学びの経験によって、栄一は明治維新後すぐに、日本における銀行や株式取引所などの金融機関を設置した。

 

 

 

身分開放に情熱を注いだ栄一

渋沢栄一がフリュリ・エラールから学んだ大切なことは、身分の差がなかったことです。

 

 

日本では、士農工商があり銀行家(日本では両替尚です)ですが、徳川昭武の教育係を担当したフランスの軍人「ヴィレット中佐」とフリュリ・エラールとの関係は、上下の意識が全くありませんでした。

 

 

日本で言えば、「士」と「商」の関係にあたり、日本では身分の差があった。

 

 

渋沢栄一は、ヴィレット中佐とフリュリ・エラールに対して一目置くこともありましたが二人の接する姿から、身分や職業が違っていても平等な関係の社会作りを行うことの重要性を強く感じたのです。

 

 

明治新政府の官僚となった渋沢栄一は、実際に四民平等や士族の解体を進め、身分開放の実施に動き始めます。

 

 

日本の商工業を発展させるためには、根強く残る「官尊民卑」(官民格差、政府や役人を尊び、庶民を卑しむこと)の打破こそ、自分に課せられた大きな役割だと考えていたのです。

 

 

 

まとめ

 フリュリ。エラールと出会わなかったら、渋沢栄一が日本の民主主義の父と呼ばれたでしょうか?

 

 

人間の出会いは、いい人に出会えれば、人生を左右すると言ってもいいでしょう。

 

 

幕末の日仏交流史に大きな足跡を残してくれた、フリュリ・エラールは大の親日家であったこと以外は全くと言っていいほど、日本には公式記録が残っていません。

 

 

そこで「渋沢栄一算盤編」の著者・鹿島茂氏がフランスで調べた情報を紹介しておきます。

 

 

フリュリ・エラールの正式名は「ポール・フリュリ・エラール」といいます。

経営していた銀行は、親族の親あるいは祖父の代から受け継いだ、まさに家名のままの「フリュリ・エラール銀行」という銀行経営者です。

 

 

フランスの外交官は、皆この銀行に口座を持つ外務省御用達銀行でした。

信用があったフリュリ・エラールは、在仏日本名誉総領事に任命された背景には、外務省との深い関わりがあったと推察できます。

 

 

フリュリ・エラール(31歳)渋沢栄一(27歳)と若く、日仏の若き才能が出会い、大いに気があったことで日本の資本主義、そして民主主義は開けて言ったかもしれません。

 

 

 

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