美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

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女城主おつやの方は武田軍と戦うも敗れる!その後織田軍が奪還

投稿日:2022年9月9日 更新日:

   女城主のおつやの方は信長によって、岩村遠山氏遠山景任と政略結婚させられた絶世の美女といわれる。

信長より歳下の叔母である。

 

 

岩村城武田信玄にとっても織田信長にとっても徳川家康にとっても重要な交通の要、遠山景任には跡取りがいない、そのため信玄と遠山の国衆と協議をしていたが、景任の妻は織田方なかなか話がまとまらない。

 

 

この叔母(おつやの方)と遠山景任との間に女子が生まれているが跡取りがいないため、信長の子・御坊丸養嗣子として迎える。

※上記の女子をクリックしていただくと関連記事があります。興味ある方は読んでください。

 

 

「岩村城の戦い」の前に武田軍の秋山虎繁との間に小競り合いがある。
それは上村合戦と小田子合戦である。
位置を略図を参照してください。

 

 

 

上村合戦とは

ことの始まりは、永禄11年(1568年)徳川氏から人質として松平源三郎※1(松平康俊)が武田氏に送られたが、元亀元年(1570年)甲州を脱出してしまった。

※1.松平源三郎(松平康俊)とは、初祖・久松源三郎勝俊は名乗っていたが家康から松平の姓の一字を賜り松平康俊と改めた。

久松佐渡守俊勝家康と同じ於大(後の伝通院。再婚相手)です。

永禄3年(1560年)家康が久松氏を訪れた時、初めて拝謁したのであるが、家康に兄弟がなかったため、久松3兄弟は弟として同姓と諱の一字と葵との紋とを与えた

徳川家紋は葵を巴型に三つ組み合わせたもので葵靹絵の御紋といわれるが、久松家では六つ葵を使用している。

康俊は永禄6年、12歳の時家康の命により、今川氏真のもとへ人質として預けられた。

5年後の永禄11年の12月、武田信玄氏真を攻めて駿府に入った時、氏真にそむいた三浦与一郎某に供われて信玄の陣におもむき、喜んだ信玄は松平康俊を甲州に送った

その後、元亀元年(1570年)19歳の冬、家康の計略によって甲州を脱出し(これが上村合戦)三河へ帰ることが出来た。

が大雪の山越えのため凍傷となり、両足先を失ってしまった。

 

 

慌てた武田の臣・秋山虎繁は松平源三郎を預かっていたため責任を償うために、同年12月、3000余騎を率いて東美濃の岩村遠山氏の領地を通って徳川氏の領地の三河へ向かおうとした。

 

 

しかし当時、奥三河の土豪の山家三方衆は徳川の家臣でありながら、武田氏とも密かに内通していた。

 

 

また、岩村遠山氏の遠山景任は武田氏に臣従していたが、この頃、織田信長の歳下の叔母のおつやの方を妻に迎えており、武田氏と織田氏の板挟み状態になっていた。

 

 

上村合戦には遠山景任が率いる岩村遠山氏は参戦してないが、岩村遠山氏の後継者争いの際、秋山虎繁が武田軍の威力を背景に遠山景任を岩村遠山氏の後継者に就任されたからだと考えられる。

 

 

遠山景任の父・遠山景前の死後、岩村遠山を相続する際、まだ若かった景任に意義を唱える者が現れたが武田が東美濃に派兵して調停し、その後ろ盾を得た景任が当主となる。

 

 

この頃に武田氏と織田氏の両属状態となっていた。

他の遠山一族(苗木・明知・串原・飯羽間・安木(阿木)、明照)は、織田信長や徳川家康の麾下に入って武田に抵抗していた。

 

 

景任とおつやの方の結婚はハッキリしてないが、一説には永禄3年(1560年)頃で、これが本当なら景任24歳の時でおつやの方は再再婚で歳上か歳下かは未です。

 

 

 

上村合戦の行方

遠山氏東美濃の国衆は、明知城の遠山景行を総大将に飯羽間城の遠山友勝、千旦林城の吉村源蔵、串原城の遠山左馬助・五郎経景、小里城の小里光次、高山城の平井宮内少輔光行、阿木城の遠山某、そして徳川氏は山家三方衆・三河衆を派遣して合わせて5000人で備えた。

 

 

明知の遠山景行は、それぞれの進路にある上村の飯田洞の阿寺砦、上村の前田砦、漆原の漆原城に兵を入れ自身は岩戸井砦で指摘を執ることにした。

 

 

一方武田軍の秋山虎繁の方は部隊を3つに分け本体は根羽村から大桑峠を越えて小笹原を通って前田砦を、残りの二隊は平谷村から阿寺砦を、小田子から漆原城をそれぞれ目指した。

 

 

12月28日隘峡の地で、串原遠山氏1000人が秋山軍の望月勢を攻撃して戦闘が開始した。

 

 

初戦で望月勢が引き下がる様子を見せたので、串原勢は機に乗じて攻め立てたが、望月勢は足場の良い場所で踏みとどまり左右両翼に兵を広げて、原・芝山勢の兵は串原勢の両翼を攻撃し、さらに望月勢が正面から攻め立てたから、串原勢は敗北した。

 

 

遠山氏の二番手が串原勢に代わって戦おうとしたが、敵勢の攻撃が激しくてことごとくくずれたのをみて、総大将遠山景行は、備えを進めて戦おうとしたが、先駆の秋山勢の500人が景行の背後に出て奇襲を行い、前後から挟撃した。

 

 

景行は奮戦したものの遠山氏は一族・郎党がことごと敗れ去ったので、5〜6名の兵と共に血路を開いて落ち、漆原の山中にて自刃した。
その場所は今でも遠山塚として現存している。

 

 

また、徳川方から派遣されたものの、武田方と内通していた奥平三方衆と三河衆2500は、遠山氏が惨敗する様子を見て、ほとんど戦わずにして早く退却して、各々の居城に逃げていった。

 

 

この戦いで明知城主・遠山景行は戦死したため、子の遠山景玄が跡を継いだが戦死、も一人の兄・友治も討死にして累代が絶えたことから、家臣一同が相談して弟の僧侶・自休飯高観音から還俗させ、そして三河足助城主の鈴木直重の娘を妻にして遠山利景と名乗った。

明知城は景玄の子・一行が継いだ。

 

 

 

岩村城の戦い武田氏の遠征

岩村城は遠山景朝の築城し388年間続いた遠山時代だったが、戦国の世元亀3年(1572年)8月14日に、岩村遠山氏最後の城主となる遠山景任が病死して跡継の男子亡きため、信長は東美濃の支配権を奪う好機として、織田信広、河尻慎吉らを派遣して岩村城を占領し、自らの子・御坊丸を叔母である景任の妻の元に養嗣子として送り込んだ。

 

 

御坊丸はまだ8歳のため叔母である景任の後家のおつやの方が後見人として岩村城主を務めていた。

 

 

元亀3年1572年)10月3日、それまで諸勢力に向けて盛んに上洛を宣伝していた武田信玄西上作戦を開始した。

 

 

同年12月、秋山虎繁は武田軍を率いて東美濃の石見ら遠山氏の本拠地である岩村城を攻めたが、城方の守りは堅く未亡人のおつやの方と城兵が一丸とななって防戦に務めたので、秋山軍は攻めあぐねた。

 

 

そこで秋山虎繁は一計を案じ、おつやの方に結婚申し込んだのある、。
はじめは拒否していたがついに応じ、和議を結んで開城した。

 

 

こうして難攻不落の岩村城は武田方のなり。御坊丸を人質として甲斐に送ったのである。

 

 

 

信長怒る・奪還を誓う

岐阜から15里ほどの地岩村城を失い、喉元に刃を突きつけられたも同然となった信長は岩村城奪回を試みるが、岩村城の守りは堅く陥落させることができずにいた。

 

 

しかし元亀4年・天正元年(1573年)武田信玄が病没し、跡を継いだ武田勝頼長篠の戦いで破ると、東美濃においても天正3年(1575年)6月より、嫡男・織田信忠を総大将として3万の兵をつけて岩村城奪還に向かわせた。

 

 

岩村城の西側に陣を貼り岩村攻めに入った。

その丘を信忠が陣を張ったことから大将陣として今も現存する。

 

 

天嶮の要害を頼む岩村城は容易に攻め手を寄せ付けず、城攻めは難航した。
このため信忠は力攻めを諦めて、兵糧攻めで城兵が弱まるのを待つという戦法に切り替えた。

 

 

武田方にとっても、西方へ進出するための足がかりとして重要なこの城を守るため勝頼は援兵を送ったのである。

 

 

しかし、11月11日大きな動きが起こる。

織田勢は岩村城に向かい合う水晶山に布陣していたが、城方はこの水晶山に夜襲をかけ、織田軍が混乱したところを城内からも打ち出して挟撃するという作戦を試みた。

 

 

しかし、織田軍は事前にこれを察知し、逆に織田信忠の配下の河尻慎吉・毛利長秀らが武田勢を夜襲部隊に先制攻撃を仕掛けて打ち果たし、さらに城内から突出してきた本隊にも猛攻をかけて壊滅的な打撃を与えたのである。

 

 

この合戦において城方は物頭級の武士21人が討ち死したのをはじめ、多数の兵が死傷したという。この敗戦で秋山虎繁も岩村城を守り通すことが不可能と判断し、21日城兵の助命を条件に降伏を申し入れた。

 

 

総大将の信忠は、これを受け入れる旨を告げ、岩村城を開城となって、秋山虎繁は捕らえられ、信長の叔母・おつやの方他も岐阜に護送され、長良川の河原で磔刑に処された。
▲ここに移転を入れる▲

 

 

遠山氏の菩提寺大圓寺焼き討ち

岩村城の近くには、遠山氏の菩提寺として臨済宗妙心寺派の大圓寺があり、住持の希菴玄密は、過去に京都の妙心寺の管長を5度も務め、過去に甲斐の恵林寺の住持も務めたこともある武田信玄とは旧知の間柄の名僧で、信玄から恵林寺へ戻るように何度も依頼が来たが希菴玄密はこれを断固拒否した。

 

 

これを恨んだ信玄は大圓寺の焼討ちと希菴玄密の殺害を命じ、元亀3年(1572年)岩村城<開城から約2週間後の11月26日、大圓寺は武田軍の兵火により焼かれ、希菴は共の者と寺から逃亡した。これを知った秋山は刺客3人を送った。

※上記の希菴玄密をクリックしていただくと詳しい関連記事があります。

 

彼らは希菴一行に追付き、飯羽間川にかかる橋の上で全員を殺害した。

ところが半月待たない内に三人は気が狂ったり、狂った馬から落ちて命を落とした。

 

 

それに留まらずその5ヵ月後、武田信玄が死亡している。

一説には信玄の重病を知った希菴の口封じが目的とも言われる。
殺害された希菴らは村人達によって付近に葬られた。

 

 

 

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