美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

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恵那市岩村町の城下町にある“かんからや”の「かんから餅」の名付けの由来

投稿日:2022年9月11日 更新日:

 岩村に来たら“かんから餅”を食べて行かないと岩村に来た気がしない。

岩村町には岩村城歴史あります。

 

 

どんな歴史があるかというと、鎌倉時代に加藤景廉が源頼朝によって恵那郡(遠山荘)の地頭を任される

 

 

景廉は頼朝の信任が厚く鎌倉にいて岩村には来れず、嫡男加藤景朝が岩村に住んで岩村城を築いたのが始まりです。

   ▲岩村城の標高717mの頂上

 

 

名前を遠山荘だから遠山景朝改名して、遠山始祖として遠山時代388年間続かせた。

支城の明知遠山氏からは徳川時代に遠山の金さんが出た。

 

   ▲遠山左衛門尉景元(イメージ)

 

 

岩村藩からは第3代城主・松平乗薀の三男の林述斎の子で鳥居耀蔵を出している。

 

 

最後の城主・遠山景任(かげとう)の奥方がおつやの方が未亡人になった処のに、信長の子・四男か五男か未だが「御坊丸」が城主になったが幼いためおつやの方が後見人になっていた。

        ▲イメージ

 

すなわち女城主です。

岩村城主を後の方で書きますす。

 

 

 

名づけた殿様の名前は6代の松平乗喬です

“かんから餅”創業は、嘉永年間になります。

なぜなら岐阜県商工会連合会調査研究報告書「弘化」の後、「安政」の前と記してあります。

 

 

だから嘉永年間は1848年から1854年を指す。

このときの殿様を探すと、安政の前なら第7代岩村藩主・松平乗命は安政二年に相続だから該当しない。

 

 

その前の第6代岩村藩主・松平乗喬(のりたか)じゃないかと推測できます。

 

 

なぜなら松平乗喬は、天保13年(1842年)に父の隠居により家督を継ぐ、嘉永4年(1851年)奏者番※1に任じられ、安政2年(1855年)7月26日に死去している。

※1.奏者番(そうしゃばん)とは、江戸幕府及び藩の役職の一つ、城中における武家の礼式を管理する。

具体的には大名・旗本が将軍に拝謁する際、あるいは在国の大名が献上品を使者に持たせて江戸城に派遣した場合に、その氏名と献上品の内容を確認して将軍に報告し、将軍が下賜を行う際に、その伝達にあたった。

更に大名の転封などの重大な決定や大名家の不幸に際して上使として派遣されたり、徳川将軍家及び御三家の法要において、将軍が参列出来ない場合の代参を行うこともあった

また、将軍の御前で元服を行う大名・世子に礼儀作法を教える役目も担った。

 

 

ではどうして大給松平藩大役をやらされるのか?

家康親戚親藩なんです。ここに系図があり参考にしてください。

 

松平親忠の子・乗元と松平宗家の跡を継いだ長親は兄弟→家康(松平宗家)へと続く。大給松平宗家・家乗の子・乗寿の孫の松平乗紀(乗政流大給松平家第2代、岩村藩初代藩主)として信濃国小諸藩から入封してくる。

 

 

大給松平家はわずか3万石ですが、譜代大名で親藩で、歴代藩主老中2名、大坂城代・若年寄も務め幕政に参与しているお家柄です。

 

 

松平乗喬美濃国岩村藩主6代目、乗政流大給松平家7代にあたる。
官位は従五位下・能登守です。

だから名付けた殿様は松平乗喬です。

 

 

 

かんから餅の由来

本町水野薬局の番頭であった、加藤宮治(通称薬宮)が創業した店です。

 

 

当時は薬屋(上側)餅屋の複合店で◯の中の「み」を取って丸やの屋号城下町名物餅屋として繁盛しました。

 

 

時の城主・松平能登守が店に立ち寄って、餅を所望し、大変褒められ、この日は五月の節句で、軒先に鯉のぼりの矢車「かんから、かんから」と音がしてたいたところから、殿様はこの餅を「かんから餅」命名され、岩村藩の御用達とされたと伝えられています。

           ▲かんから餅

 

住所:恵那市岩村町806-1
電話:(0573)43-2068  
営業時間:AM9:00〜PM16:00
定休日:毎週水曜日、第4木曜日、年始

 

 

“かんから餅”は精選された餅米で「きな粉、ゴマ、アン」をまぶした、代々店主自慢の秘伝は東濃一円の名物となっています。

 

 

観桜客や岩村へ里帰りの人たちも立寄り、忘れかけた素朴な故郷を思い起こされる“かんから餅”として好評を得ています。

 

 

現在2022年ー1850年頃=172年の営業で、寛永年間創業となります。

▲これは朝ドラ『半分、青い。』の時、当店がこのように変身させられました。

 

       ▲店内

       ▲かんからや

 

 

歴代岩村城主たち

遠山時代

加藤景廉:文治元年(一説には建久六年)頼朝公に遠山荘の地頭に補せ                        られた。承久三年八月三日卒

※上記の加藤景廉の詳しいブログがあります。興味ある方は読んでください。

 

遠山景朝:承久年間遠山荘岩村に存在。建長年間に歿。

以後、この間200年間の家系図不詳

※上記の遠山景朝の詳しいブログがあります。興味ある方は読んでください。

 

遠山頼景:永正年間存在
遠山景友:大永四年歿
遠山景前:天文中在城、弘治二年卒

遠山景任:永禄中在城、元亀三年卒

※上記の遠山景任の詳しい岩村城の戦いのブログがあります、おつやの方が活躍した記事も載せてあります。

 

御 坊  丸:遠山景任の養嗣子となり、元亀三年8歳にて家督を継ぐも    人質になって天正元年に秋山伯耆守によって甲斐に行く。

 

 

戦国時代

秋山伯耆守晴近:天正元年三月岩村城主になるも天正三年に織田信長に  よって滅亡、長良川にて逆磔で歿

 

河尻肥後守慎吉:天正三年より天正十年まで城主。冨田から城下町を現  在の所に移転する。

※上記の河尻慎吉の記事があります。城下町を冨田から現・岩村町に移転した記事です。

 

 

森蘭丸長定:天正十年三月(18歳)同年六月に本能寺にて、信長・信    忠・御坊丸と共に戦死。
森武蔵守長一:城代・各務兵庫が天正十年六月より天正十二年まで
森左近太夫忠政:城代・各務兵庫が天正十二年より慶長四年まで

 

田丸中務具忠:豊臣の家臣、慶長四年より慶長五年まで城主だったが、  関ヶ原で西軍についたため家康に追われる。

※上記の田丸具忠の男の中の男の記事があります。

 

 

徳川時代・岩村藩

松平和泉守家乗:家康より一字をもらって家乗、大給松平家第6代。岩  村藩初代藩主、慶長六年正月より同十九年まで

※上記の松平家乗の記事が沢山あります。ABで選んで読んでください。

▲図を元に色をつけました松平家乗が、今の資料館の場所に造った藩主邸です。現・太鼓櫓が復元され石垣は当時のままです。

 

 

松平和泉守乗寿:大給松平家7代宗家。岩村藩第2代藩主。慶長十九年  より寛永十五年まで、出世城の浜松城に転封した。

※上記の松平乗寿は、信仰の深い人で石室千体仏庚申堂(祥雲寺)・武並神社などに関与した殿様です。だから出世城の浜松城に転封して老中まで行った人です。

 

 

丹羽式部少輔氏信:三河伊保藩の第2代藩主、のちに岩村藩初代藩主。                             寛永十五年より正保三年まで
丹羽式部少輔氏定:正保三年より明暦三年まで
丹羽式部少輔氏純:明暦三年より延宝二年まで
丹羽長門守氏明:延宝二年より貞享三年まで
丹羽和泉守氏音:貞享三年より元禄十五年まで

 

 

ここからは大給松平宗家の松平乗寿の孫が藩主となる

松平兵庫頭乗紀:乗政流大給松平家第2代、岩村藩初代藩主。元禄十五  年より享保元年まで

 

松平能登守乗賢:享保元年より延享三年まあで
松平能登守乗薀:延享三年より天明元年まで

 

松平能登守乗保:天明元年より文政九年まで
松平能登守乗美:文政九年より天保十三年まで
松平能登守乗喬:天保十三年より安政二年まで
松平能登守乗命:明治4年に尾張藩から尾張藩主・徳川斉荘の四女・釣  姫を正室に迎える。安政二年より明治維新になる。

※上記の釣姫をクリックして頂くと尾張藩の姫様が岩村城へ輿入れしてくる記事があります。

 

 

18歳と81歳の違い

□道路を暴走するのが18歳。逆走するのが81歳

□心が脆いのが18歳。骨が脆いのが81歳

□偏差値が気になるのが18歳。血糖値が気になるのが81歳

□受験戦争を戦っているのが18歳。アメリカと戦ったのが81歳

□恋に溺れるのが18歳。風呂で溺れるのが81歳

□まだ何も知らないのが18歳。もう何も覚えてないのが81歳

□東京オリンピックに出たいのが18歳。東京オリンピックまで生きた       いと思うのが81歳

□自分探しの旅をしているのが18歳。出かけたままわからなくなって       皆が探しているのが81歳

□「嵐」というと松本潤を思い出すのが18歳。鞍馬天狗の嵐寛寿郎を       思い出すのが81歳

 

 

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東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。