美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

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岩村城下町の旧家・木村邸で銀河鉄道の父の映画撮影をやっていました

投稿日:2022年9月13日 更新日:

 岩村城下町の木村邸で2022年5・6月頃から撮影をしていました。
なんの撮影かな〜と思って聞いたけど近所の人も知らなかったけど段々分かってきた。

             ▲枡形地形の所にありました。

 

名古屋へ帰るとき明知線の乗客の中にスッタフらしい一人の女性に声かけたら、私はスタッフで主演は役所広司宮沢賢治の父親役の映画を撮影してますと教えてくれた。

 

 

それから何度も岩村へ出かけて撮影の様子を伺ったけどはっきりした事は分からない。

 

 

撮影場所に行ってもガードマンが何人もいてカメラは向けられなかった。

 

 

一部のセット風景紹介

朝早く木村邸の前に行って付近を撮影しました、映画開催の時にこの風景が出てきたらいいですね。

   ▲これは木村邸が変身した所です。

  ▲これは西側から木村邸を撮影した所です。

       ▲付近

   ▲これは木村邸の前浅井屋が変身

    ▲これは浅井屋の上の家

 

 

天正時代に移転した現在の城下町

木村邸は城下町の本町三丁目にあって、旧家で今も無料で公開して案内人が説明してくれます、ぜひ見学してください。

 

 

話せば長いけど、そもそも今ある城下町は天正時代前は冨田村にありましたが、信長が武田軍の将・秋山虎繁と信長の叔母・おつやの方と戦って勝利を治め、信長の家臣・河尻慎吉が城主になり天正の始めに、冨田にある城下を今の城下に移転した。

※上記の河尻慎吉をクリックすると詳しい記事があります。

 

 

その後、徳川時代になって大給松平家が入封してきて、2代の松平乗寿が浜松の出世城である浜松城へ転封した後に三河国挙母藩から丹羽氏信が入封してきた時に随行してきたのが木村邸です。

 

 

もともと挙母藩(豊田市)の武士の出であったと言われます。

その旧家を使って宮沢賢治父親役役所広司が来てて、映画の撮影を木村邸中心で撮影してたらしい、撮影現場は立ち入り禁止で写真も撮れなかったけど、聞くところによると、今のところ宣伝はしないし、配給は2023年5月頃という事を聞きました。

 

ちょっと一服したい店

すぐ隣にカフェ:豆カフェがありますがそこからの情報です。

  ▲豆・カフェの玄関(木村家の隣)

    ▲こじんまりとした店内

    ▲コヒーとサンドイッチ

 

木村家の略譜紹介

木村家の祖先は三州挙母の人間で太郎助という人物で、挙母藩(現・豊田市)武士の出身でした。

       ▲木村邸

 ▲殿様専用入口の横が豆・カフェです。

 

木村家の案内

⬛️ 見学料/無料

⬛️ 定休日 / 月曜日(当日、休日の場合は開館して翌日が休みとなります。)

⬛️ 開館時間 /午前10時〜午後4時まで、但し、12月からは午前10時から午後3時。

⬛️ お問合せ /(0573)43-2846  ⬛️ふれあいの館 観光協会事務局(0573)43~3231

⬛️ メールアドレス/ kankou@iwamura.jp

 

 

山間の城下町を指導・繁栄させようと、大給松平の後釜に城主となって丹羽氏信が随行して岩村にきました。

 

 

木村氏が表立って抬頭※1してきたのは、4代・木村弥五八重矩からで、先々代頃より蓄積された財力によって、漸く(ようやく)町の勢力となったのである。

※1.抬頭(たいとう)とは、存在感を増す、頭角を現す、頭角をあらわす、めきめき頭角をあらわす等の意味に使われる。

 

 

5代・弥五八守正の時、御用達に任じられ、苗字帯刀を許された。
それは度々御用金を調達した許りでなく、御領分駿州の水害を救済したり、西美濃の麦の凶作或は江戸屋敷災害等に尽くした功に報いられたのである。

 

 

かくて6代・弥五八知英、7代・弥五八知行と問屋役及び御用達職を務めて功をあげたが、文政・天保に亘る藩の家老の丹羽瀬清左衛門の革新政策により、岩村国産所取扱を命ぜられ、多額の負債を生じ、為に事業中止の状態になったので、清左衛門の為に帯刀及産物取扱とりあげになったが、清左衛門免職後再び復帰した。

       ▲なかみせ

 

 

かくて8代・弥五八知周のとき、明治維新となった。

丹羽氏が国替で越後の高柳藩へ移動、後を小諸藩より元禄15年9月7日に、大給松平宗家7代・松平乗寿の孫で乗政流大給松平家2代松平乗紀が入封してきた。

 

 

岩村藩主3代の松平乗薀が城主の時、延享5年(1748年)に朝鮮使節の接待薬、そして宝暦8年(1758年)郡上騒動により郡上八幡城主・金森氏が改易になった折の八幡城請取役を幕府より要請。

 

 

また、安永2年(1773年)飛騨高山農民騒動が起きたときの出兵など、幕府の要請によるものですが、経費は岩村藩の負担となったため藩の財政が窮迫してしまいます。

 

 

このとき、4代の弥五八重規は御用金を都合し、藩主より御褒美を拝領しました。

 

 

 

6代目・弥五八知英

木村家の中興※2▲の主といわれるのが知英で、幼少から学問を修め、湯茶音律を好み信仰心も厚く、実業家であると共に教養豊かな文化人であった。

▲※2.中興(ちゅうこう)とは、衰えていたのを、再び繁栄させること。

 

 

城下の天神社は、文政5年(1822年)に九州の太宰府へ行って勧請し、上町の音羽稲荷は京都の伏見稲荷から迎えました。

他にも地蔵堂や地蔵像を寄進した人物です。

       ▲天満宮

 

 

日本茶道の前茶の祖である2代目・売茶翁と親しく交遊し、売茶翁は文化6年(1811年)に木村家へ来て滞在し、書院を老梅書院と命名しました。

 

 

岩村藩が生んだ幕末の大儒学者・佐藤一斎とも師弟の間であり、町人といえど学問の深さを知ることができます。

 

 

 

岩村藩の財政を助けた豪商

木村家浅見家と共に岩村藩の財政を支えたと言ってよく、岩村藩駿河領(静岡県)の水害、岩村藩西美濃領(大垣市ほか)の麦の凶作のとき救済事業にに尽力し、江戸藩邸類焼のときは金品を調達するなど、岩村藩史に残る活躍をしてます。

 

 

7代目の知行の代に岩村藩家老・丹羽瀬清左衛門の革新政策により、岩村国産所取扱を命ぜられ、そのため莫大な負債を抱える破目になったこともありました。

 

 

8代目知周の代に明治維新となり、岩邑藩庁から岩邑並に中通村取締役を申し付けられました。

 

 

岩村藩主も木村家をしばしば訪問し、玄関、書院、庭などは木村家特有の文化と風量が、今も生きており、貴重な文化財が多数残されて木村家の歴史を物語っています。

 

 

 

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