美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

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家康の松平氏の家系図の中で大給松平家とはどういう位置付けにいたか

投稿日:2022年9月16日 更新日:

 松平家といっても、家康系統の松平家の他いっぱい松平家があります。

 

 

元康は永禄9年(1566年)松平元康から徳川家康に改名した。

関ヶ原の戦い後、御三家・御三卿の嫡流は徳川氏を名乗った。
その他の庶流及び支族は称した。

 

 

松平氏三河国加茂郡常陸国久慈郡陸奥国田村郡などから出た各氏があるが、ここでは三河国松平郷に住した初代・松平親氏とする松平氏を指す。

 

 

初代・松平親氏(僧で活躍してた頃は名なし)は諸国を行脚して歩いていた乞食坊主・徳阿弥というでしたが、三河国加茂郡松平郷に流れ着き、同地の領主・松平信重(太郎左衛門少尉)の集客となって、松平信重は徳阿弥の和歌に通じた教養と武勇を評価して娘の養子となって、徳阿弥は還俗して松平太郎左衛門尉親氏名乗ったのが初代・松平親氏である。

      ▲松平親氏直系の系図

 

 

その松平親氏直系で9代目が家康で、家康の方は松平姓は終わり徳川姓になった。

※上記の松平親氏をクリックすると初代・松平親氏から徳川家康までの系図があります。

 

 

江戸時代松平氏を称した家は3種類ある。

一つは三河時代の松平親氏氏の分流、一つは家康の子孫で主に親藩大名たる家、そして松平姓将軍より与えられた大名です。

 

 

先ず三河松平氏の分流は、十八松平とも十四松平ともいい、最初に三河で与えられた所領の地名をつけ、大給・形原・深溝・能見・滝脇・桜井・藤井などの松平氏と呼ばれ、譜代大名や旗本となったり、諸大名の家臣となったりした。

 

 

その次に、家康の子孫では、将軍や御三家・御三卿の子弟も幼少のとき松平姓を名乗った。

 

 

御三家の分家(御連枝)では、高須・西条・高松・守山・石岡・宍戸の各松平氏があり、家康の次男・秀康の子孫の福井・津山・松江・前橋・明石などの各松平氏や、会津・忍の松平などがある。

 

 

次に、松平姓を与えられた大名は、主に有力外様大名(島津・毛利・前田・伊達など)で、将軍と親戚になることを意味するが、幕末段階では外様大名16家、譜大名8家、親藩大名1家、計25家が存在した。

 

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大給松平氏とは家康先祖親忠次男乗元としてる

余談だが
現在BS放送で水曜放映してる、柴田錬三郎の時代小説『御家人斬九郎』では、主人公が大給松平家の傍流に連なる無役の御家人という設定で大給をふんだんに宣伝したドラマです。

 

 

大給松平家とは、松平親氏から数えて4代松平親忠の次男・松平乗元とする松平氏の庶流。十八松平の一つです。

三河国加茂郡大給(現在:豊田市)を領したことから大給松平家と称した。

※ここに大給城の記事があります。上記の大給松平家をクリックして読んでください。

 

 

 

大給松平家松平宗家(徳川氏)に仕え、甲陽軍艦に「荻生の少目」として登場する大給松平本家4代の松平親乗が有名であるが新井白石「藩翰譜」※1にはある。

※1.藩翰譜(はんかんふ)とは、藩翰譜の出典だが、本文中に「ある人のいう」「一説にいう」また白石の『折たく柴の記』には「諸家の事共、尋ね極めて」と記載があり、藩翰譜が伝聞に基づくものであることがわかる。

そして他の史料を引用している記述は見られないことから、新井白石が伝聞に基づいて、独自の主観で編纂したものと思われる。

家系図においても、『寛政重修諸家譜』で大幅に修正を加えると、ほとんで改修となってしまうと記載されている。

とはいえ、文学的価値の観点点からとらえれば漢字と平仮名による日本文の様式を確率したもので、和文としての歴史叙述を確かなものとしたともいえ、谷崎潤一郎が高く評価している。

資料としては、幕府正史の『徳川実記』に大名のエピソードが藩翰譜より多数引用されている。

 

 

当主は武勇に優れ、「藩翰譜」にはあちこちの戦いで兜首を多数挙げたことが特筆されている。

 

 

江戸時代には譜代大名4家のほか、数多くの旗本を出した。
なお新井白石の藩翰譜では、「荻生松平」と表記する。

 

 

 

大給松平氏は家康に仕えていた

大給松平宗家第6代である松平家乗は。

初代岩村藩主・松平家乗「家」の字を家康から一字を貰って付けた、

 

 

天正15年(1587年)に元服したときに主君・徳川家康から偏諱を受けて名乗った家乗。

 

 

松平家乗は天正3年(1575年)に大給松平家5代・松平真乗の長男として、三河国大給で誕生したが、天正10年(1582年)に父・松平真乗が死したため、8際で家督を継ぐが、母は弟、真次を連れて大給を離れる。

 

 

天正12年(1584年)長久手の戦いでは、家乗が幼少のため、家老・松平近正が代理として大給松平軍を率いて参戦した。

 

 

同年の尾張蟹江城・前田城攻め別名蟹江城合戦では、家老の松平近正率いる大給勢が武功を立てた。

 

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家乗の父・松平真乗と母・興正院

父・松平真乗大給松平家第5代で、先祖からの三河大給城を根拠地としていたが、徳川家康に仕えていたこともあって、実際に浜松城下にいることが多かった。

 

 

家康上杉謙信による三越同盟の外交交渉にも加わっている。

姉川の合戦、長篠の合戦、三方ヶ原の合戦、高天神城攻めなどに出陣するが、高天神城攻めの戦傷が元で天正10年(1582年)3月14日に37歳の若さで歿した。

 

 

時も同じ信長の本能寺の変が天正10年(1582年)6月2日に起きている。

 

 

松平真乗が歿する天正10年に、大給城下の菩提寺称名院を細川郷へ移して松明院とした。

 

 

松平家乗の母・興正院は、戸田壇正忠重の娘で、松平真乗との間に長男・家乗、次男・真次の二児を儲けたが、天正10年(1582年)に夫・松平真乗が死去すると、大給松平家に慮る※2ところがあったのか、次男・真次を伴って、三河足助の城主・鈴木康重のところへ再婚した。このとき家乗わずか8歳だった。

※上記の三河足助の城主・鈴木康重をクリックして貰うと詳しい記事があります。

※2.慮る(おもんぱかる)とは、よくよく考える。熟慮する。または、はかりごとを立てる。

 

 

※因みに松平真乗の祖父・松平乗勝に嫁いだ松平清康養女(徳川家康の義理の伯母)も、松平乗勝没後に鈴木康重(乗域)の祖父・鈴木重直に再嫁している。

 

 

家乗の母・興正院が再嫁した鈴木康重(乗域)は、徳川家康配下の本多忠勝に属していただ、天正18年(1590年)の徳川家康関東入国に際しては、故あって※3、興正院は大給松平家の籍を離れたといえ、我が子の成長を近くで見守っていたいのである。

※3.故あってとは、鈴木康重(乗域)は寛政重修諸家譜に康重罪を蒙りて松平和泉守に召預らる。

子孫彼家の臣となりて杉戸を以って称号するという。また、鈴木康重(乗域)には興正院との間に一女があり、美濃土岐郡の小里光親に嫁がせている。家乗の異父兄妹である。

 

 

家乗の弟・真次は、育ての親である鈴木康重(乗域)が、慶長6年(1601年)に美濃岩村へ移って間もなく死去すると、それを悲しんで一旦は武士を捨てるが、兄の松平家乗の説得で徳川秀忠に仕えるようになった。

 

 

そして大阪の陣で戦功を挙げ、元和元年(1615年)に上野国内で一千石を与えられ、寛永4年(1627年)には大番頭に進んで二千石を加増され、願い出て都合三千石の領地を先祖所緑の三河国内に移された。

 

 

なお、真次は寛永12年(1635年)に上総国内で四千石の加増を賜り、この地も三河国内に移すのを許されて七千石を領した。

 

 

大給松平家系統の諸藩

大給松平本家、乗元系統は三河国西尾藩
大給松平分家、乗政系統は美濃国岩村藩

松平分家、親清系統は府内藩

三河国大給松平家の分家だが、宗家とは離れた系譜で、家老として仕えた松平近正からつながる。

 

上野国三之倉に5千5百石を与えられた御家人から始まった。

2代・一生が三之倉藩1万石を立て、下野国板橋藩1万石、三河国西尾藩2万石、丹波国亀山藩2万2千2百石、そこから同じ石高で豊後国亀川藩、豊後国中津留藩、豊後国高松藩と転封をくり返した末、豊後国府内藩へ落ち着いた。

 

 

府内藩松平家は徳川家の譜代大名でありながら、尊王派の筆頭である薩摩藩にほど近い位置にいたため、幕末は微妙な立場となったが、隣接する岡藩の仲介によって薩摩藩を通じて朝廷に恭順の意を示し、新政府軍に加わった。

 

 

家乗の弟・真次は奥殿藩(真次系統、大給藩・田野口藩・龍岡藩):松平真次が大阪の陣の戦功で本貫である大給を領する旗本となり、息子・松平乗次が貞享元年(1684年)に大名に列せられると、以後十代にわたって大給をりょうした。

 

 

最後の藩主・松平乗謨は若年寄から老中兼陸軍総裁まで出世したが、明治元年(1868年)に辞職し、以降は「大給」姓を名乗る。

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