美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

未分類

徳川家康の直系の松平家の家系図ーどうして征夷大将軍になれたか不思議

投稿日:2022年2月13日 更新日:

   一言に家康って徳川幕府をつくった人、「関ヶ原の戦い」で天下を取った人と思う人は多いですが「関ヶ原の戦い」は豊臣家臣どうしで戦った戦に過ぎない。

 

 

それから「関ヶ原の戦い」で勝った家康は大阪城にいる豊臣秀頼と二度も戦をした。

 

 

それに勝って天下を治めた。

それから征夷大将軍を朝廷から称号をもらうのに三年かかった。

 

 

それは家康の先祖は、源氏でもなんでもないのに、どうして征夷大将軍になれたんでしょうか?
権力で朝廷をねじ伏せたか? 征夷大将軍は源氏しかなれない。
織田信長or豊臣秀吉(関白になった)はなれなっかった。

 

 

ではなぜ、征夷大将軍になれたか

時は、15世紀の始めの頃、西三河に新しい武士の一家が出現した。

加茂郡松平郷(現・豊田市松平町)を本質とする松平家である。

 

 

親氏時宗の僧徳阿弥※1(とくあみ)と称し、諸国を遍歴し、三河の地に辿り着いた????一介の僧となってた武士です。

 

 

この男のどこがどうして源氏に結びつくか?
偶然にもどいう縁があったのか、加茂郡松平郷の松平太郎左衛門信重の娘婿となり跡目を継いだ。
まず,「阿弥衆」を調べてみた。

 

 

<以下の文章はネットより引用>

そこにはつぎのようなことがらが書かれていました。

 

少し長いですが,精確を期すために全体を引用しておく。上記の徳阿弥※1を詳しく説明しよう。​​​​

 

「阿弥衆」とはなにか。
そこにはつぎのようなことがらが書かれている。

少し長いが,精確を期すために全体を引用しておくと、

 

「中世から近世初頭にかけて,時宗教団に客寮衆」(客寮とも)というのが従属していた。

 

僧俗の中間的存在で,剃髪法衣の姿は僧に似て,妻子を養い諸芸に従事するところは俗である。

 

時宗では男性は僧俗ともに<阿弥陀仏>の阿弥陀仏号を称し,省略して<何阿>(阿号)を用いる。これに対して客寮は<何阿弥>(阿弥号)と呼ばれた。僧は決して阿弥号を用いない。

 

客寮は,南北朝時代に敗残者や世間のあぶれ者が教団の保護を求めたのにはじまる。

 

衆僧の給仕や雑用を勤めた。また鉦(かね)を打ち和讃念仏を称(とな)えながら家々をまわり,信施を受けて世を渡った客寮が鉦打ち聖(ひじり)である。

 

妻子を養うために農耕や商い・諸芸に従事するものもあった。
彼等は時宗寺院の内あるいはその周辺に住み,藤沢の客寮,七条の客寮などと呼ばれ,身分的には僧尼同様に諸役・諸税が免除されたので,室町時代にはその数はかなり多かったと考えられる。

 

 

京都の寺院所属の客寮衆の中には,将軍や大名に仕え同朋(どうぼう)衆となり,芸能の達者も現れた。

 

 

茶の能阿弥,花道の台阿弥,作庭の善阿弥・相阿弥,能の観阿弥など,いわゆる阿弥号を称する人々は,時宗の僧と考えられているが,実は客寮衆もしくはその子や孫とみるべきであろう。」

『スポーツ・遊び・からだ・人間』より引用。

以下省略>なので、読んでみた結果、なになに源氏とは結び付かない。

 

 

武田信玄はれっきとした甲斐源氏は確かに明記されています。

 

 

五摂家筆頭の近衛前久の朝廷への働きでなれた

征夷大将軍になれるのは、源氏でなければなれない、織田信長(平氏)豊臣秀吉(百姓出身)もなれなかった。

 

 

家康は天文24年(1555年)3月に駿府の今川氏のもとで元服をし、義元から偏諱を賜って“次郎三郎元信”と名乗り、今川義元の姪で関口親永の娘・瀬名(築山殿)を娶った。

 

 

後になって、名前を祖父・松平清康の偏諱をもらって蔵人佐元康と改めてた、永禄9年(1566年)無位だった。
まだ、この時分は織田信長の政権下でした。

 

 

家康は、後に「源氏」「藤原氏」を巧みに使い分けていて、豊臣政権下では、秀吉に気兼ねして「豊臣氏」であったと思われます。

 

 

そもそも祖父・松平清康から松平家は「新田氏支流 世良田氏系統の清和源氏」であると聞かされていました。

 

 

しかし朝廷サイド「清和源氏の世良田氏が三河守を叙任した前例ない」却下し拒否した。

 

 

ここで五摂家筆頭近衛前久が、松平氏の祖とされる世良田義季得川氏を名乗った文献がある。

 

 

また、新田系得川氏が藤原姓を名乗ったことがあると主張し、松平の中でも家康の松平氏のみが「徳川」に復姓するという奇策を朝廷に進言して認めさせ朝廷から従五位下・三河守の叙任を受け賜って、同時に“徳川”に改正した、これには近衛前久の協力で行われた。

 

 

徳川家康の先祖は時宗教団の客寮衆の坊さんだった

始めに述べたように、家康の先祖は、源氏でもなんででもなかった。

時宗教団に属していて、たまたま客寮衆の坊さんをやってた、その出自は南北時代の戦の敗残者や世間の溢れものであったが、僧をやって諸国を遍歴し三河の地にたどり着いた。

 

 

元々三河に豪族でもないけど、西加茂郡松平郷の土地の豪族の娘婿になったおかげで、その家の跡目を継ぎ松平親氏と名乗って出世していき、江戸幕府まで作った。

ここから松平家の活躍が始まっていったとみる方がいいと思います。

 

 

 

初代・松平親氏からみて行く

       ▲松平氏の本家筋の系図

 

生誕は不詳〜明徳4年(1393年?)

徳阿弥(親氏)は元々上野国徳川郷で誕生して、部下の石川孫三郎を従えて諸国を流浪し、時期は、永徳元年(1381年)か明徳年間(1390年〜1394年)か永享元年(1429年)か定かでないが諸説あります。

 

 

加茂郡松平郷に流れ着き、在原氏or賀茂氏の血筋を引く同地の領主・松平信重(太郎左衛門少尉)の客人となった。

 

 

松平信重は徳阿弥の和歌に通じた教養と武勇を評価して婿養子としたので、徳阿弥は還俗※1して松平太郎左衛門尉親氏と名乗ったといいます。

※1.還俗(げんぞく)とは、僧侶になった者が、戒律を堅持する僧侶であることを捨て、在俗者・俗人に戻る事をいう。復飾(ふくしょく)とも。 自らの意志で還俗する場合と、教団側から還俗させられる場合がある。▲

 

 

『松平由緒書』では、松平信重から先祖を訪ねた処、「私と申しますのは東西を定めずに旅する浪々の者でありまして、恥ずかしく存じます」と返事をしたという。

 

 

ここには素性の知れないものとして親氏のことは書かれている

武略にたけ慈悲深い心の持ち主であり、婿養子の富力を背景として、額田郡などに勢力を伸ばしたと言われています。

 

そして松平郷の開発にも努めていった。
松平氏の始祖となった。

 

 

第二代・松平泰親

生誕1302年?〜1397年?になっていることは親氏の弟ではない。
第二代松平当主で(初代・親氏の子、もしくは弟)。

 

 

親氏松平郷(豊田市松平町)郷敷城を築き、近隣の諸城主の平定に乗り出すと、泰親は父・親氏を助けて活躍した。

 

 

額田郡岩津村と岡崎へ進出、それぞれの地で築城している。

松平郷に嫡子の信広を置き、岩津を信光に譲渡して、自らは岡崎に居住したという,また、本拠は岩津としたようである。

 

 

第三代・松平信光

生誕応永11年(1404年?)〜長享2年(1488年?)
第三代・松平当主。

 

『朝野旧聞裒藁』や江戸期の系譜類は2代当主・松平泰親の子とされているが、『松平氏由緒書』では初代当主・松平親氏の子であるとする。

 

生母は賀茂氏の系統の松平信重の娘とする。

妻は一色氏(一色満範あるいは一色宗義)の娘。碧海郡安祥城を奪取し、本拠の岩津を総領主の松平親長安城城を三男の親忠に譲って、後に本拠を岩津から安城城に変えていった

          ▲松平家の系図

 

第四代・松平親忠

第四代松平当主で1431年?〜1501年。

岡崎大樹寺を建設、父と共に活躍して西三河一の勢力になる。
家康の家計となる安祥松平氏を興したが、もともとは庶家であり、本来の宗家は岩津松平氏である。

 

 

第五代・松平長親

第五代・松平当主、1473年?〜1544年。
駿河・遠江を支配した今川氏親や、それを支援する北条早雲らと戦った。
長親の代は松平の勢力は安定している。

 

 

第六代・松平信忠

第六代・松平当主1490年?〜1531年。
配下の一門衆や国人らに見限られ、相次ぐ離反等で勢力が後退して安城城のみとなる。

 

 

第七代・松平清康

第七代・松平当主1511年〜1535年。
家康の祖父にあたる。

 

清康は岡崎城を奪取し、離反した一門衆や国人らも戻ってきたことで、松平勢力を大きく回復させている。

 

 

やがて西三河や尾張へも触手を伸ばして勢力拡大に成功していく。
清康の代には、松平一門衆が多かったので、軍事力は強化されていたものの、一方で内訌のリスクも抱えていた。

 

 

若い清康を大きく支えたのは叔父・松平信定であったが、やがて不和となって、最期は家臣に討たれるという不慮の死を遂げた。
一説には叔父の信定の謀略と伝わる。

 

 

 

第八代・松平広忠

第八代・松平当主1526年〜1549年。
家康の実父、前当主の清康の横死※2により、居城である岡崎城を庶家※3の松平信定に支配され、まだ幼かった広忠は追放という憂き目に会った。

※2.横死(おうし)とは、殺害されたり、不慮の災難にあったりして死ぬこと。天命を全うしないで死ぬこと。不慮の死。非業の死。 

※3.庶家(しょけ)とは、宗家ないし本家より別れた一族のことを言う。嫡流に対して庶流の家柄。主に日本の封建時代においてみられた血族集団である。分家、庶流、庶子家ともいう。

 

 

しかし、今川氏の庇護下に入って岡崎城への帰参を果たすと、晴れて松平当主となる。

 

 

内訌状態の松平家の立て直しをはかるが、今度は隣国の織田信秀の侵攻に悩まされ、今川義元からの援軍を得る、そのために嫡男・竹千代(家康)を人質に差し出す約束をし、まもなく不慮の死を遂げた。

 

 

第九代・松平元康徳川家康

今川から独立を果たし、戦国大名として松平から徳川姓へと名を変えた家康のルーツを紐解いていく。

 

 

家康の出自は、徳川家康の本姓は “松平”である。
松平氏の始祖は松平親氏であり、徳川将軍家によれば親氏は源氏の嫡流であるという。

 

 

しかし、これは家康が三河国を平定して松平から徳川に改姓したときに系図を操作したとみられており、実際には松平氏は西三河の土豪にすぎなかったというのが正しい見解のようである。

 

 

このためか、松平の系図や歴史には多くの混乱がある。
上記に松平氏の略系図を付したので目をとおしてほしい。

 

 

松平歴代当主のうち、初代親氏と2代目泰親の事績に関しては、伝承レベルでしかなく、その真偽は定かでない。

 

 

3代目信光からようやく確かな史料にその事蹟があらわれる。
着目すべきは6代信忠までに一族が18家にまで拡大(十八松平と呼ばれる)され、多くの庶家を輩出している。

 

 

そして家康は9代目当主にあたる。
以下は各松平歴代当主の事績である。

 

 

上述してきたように、松平氏は初代親氏から5代長親までは順調に三河国で勢力を伸ばしていったが、6代信忠のときに一旦は縮小するものの、7代清康の代には再び盛り返して三河全土を支配する勢いで一気に勢力拡大に成功した。

 

 

しかし、一族が多いゆえに清康は最期には内訌で殺害され、以後の松平氏は一気に弱体化してしまった。

 

 

家康の父でもある8代広忠は、今川家の庇護下に入ることを余儀なくされ、さらに家康を今川の人質に差しだす約束をして、まもなく没してしまう。

 

 

幼くして父を亡くした家康はこのとき、今川の人質という立場でありながら、護送途中に織田信秀に売り飛ばされて尾張で過ごすという不遇な環境に身を置いていた。

 

 

さらに当主不在の松平氏はまもなく居城・岡崎城を今川氏に取り上げられ、完全に今川配下の一族となってしまう。

 

 

 

-未分類

執筆者:

関連記事

岩村城の女城主「おつやの方」は織田信長の叔母!家系図から見る

美濃国岩村城の女城主・おつやの方は織田信長の妹お市の方と共に絶世の美女として生まれが、年下の叔母さんである。     織田信長の叔母さんであるのお直の方またはおつやの方は、愛西市の勝幡城で( …

岩村城は鎌倉時代に守護職・地頭を任される景廉からー戦国時代・そして徳川時代

  【加藤景廉】平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の御家人。 藤原利仁の流れを汲む加藤景員の次男。                                     …

女城主の里の農村景観日本一にある民宿「茅の宿」にある「釣姫」さまのお雛様。

女城主の里(恵那市岩村町富田)の茅の宿に尾張藩釣姫のお雛さまが保存されてます。 葵の紋こそ入ってないが庄屋さんが、現・岩村の隆崇院から払いて貰ったお雛様が3月3日より4月3日まで飾ってあります。 &n …

岩村城の祖・加藤景廉が思案六方した腰掛岩とー弁慶杉・鴨長明の言われ

     ※鎌倉幕府時代と岩村。 この物語はいわむら町まちづくり実行委員会「いわむら昔ばなし余話」から引用し「旅人隆太郎君」が主観でつくった文です。あらかじめご了承ください。 &#x2b1b …

大給松平家が初代岩村城主となった松平家乗とは?何をした人?徳川家康との関係は

こんにちは 戦国時代から江戸時代にかけて、松平氏といってもいっぱいあるので分かりづらいですよね。     系図をみて判断してください。     勝てば官軍とはよ …

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。