美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

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義高と大姫の純愛が親同士の争いで突如悲劇になる

投稿日:2022年2月9日 更新日:

   源頼朝の最初の子といえば、平氏の伊東祐親の娘・八重姫との間に生まれた千鶴丸います。(祖父の命で殺される)

 

 

八重姫の親に反対され子供まで殺されてしまい、狙われる羽目になった頼朝は祐親の次男・伊東祐清(八重姫の兄)からそのことを聞いた頼朝は走湯権現(伊豆山権現)に逃れて助かった。

 

     ▲ここへ頼朝は逃げ込んだ伊豆山神社

 

 

その後、頼朝はまだ流人だった頃に政子と関係を持った。

父・北条時政は平氏を恐れて、政子を伊豆目代・山木兼隆の元に嫁にやるために、頼朝との事は反対して、幽閉したがそれを振り切り、大雨の夜を凌いで頼朝の元へ(今でいうと25K〜30Kを行ったっという)押しかけて行った。

 

 

大姫が3歳の時に父・頼朝が挙兵して、東国を制圧した
鎌倉幕府を開いて、源頼朝鎌倉殿と呼ばれ、北条政子の間に生まれた大姫(名前は在地領主の長女の意)本名は一幡という説があるが定かではない、一番早く生まれたから一幡という説があります。

 

 

大姫は、治承2年(1178年)生まれ。

亡くなったのが建久8年7月14日I1197年8月28日)という短い生涯でした。

 

 

頼朝とっては、次男・頼家(1182年9月11日生)次女・三幡(文治2年(1186年生)三男・実朝(1192年9月17日生)

 

 

 

源氏の棟梁を狙った木曾義仲との不仲

   木曾義仲又の名を源義仲とは、平安時代末期の信濃源氏の武将で河内源氏に一族。

 

 

頼朝の父・源義朝木曾義仲(源義仲)の父・源義賢とは兄弟、すなわち、頼朝と義経・範頼は兄弟だが従兄弟にあたる。

 

 

以仁王令旨によって挙兵、都から逃れた、その以仁王の遺児・北陸宮※1を擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って都へ入京してきた。

※1.北陸宮(ほくろくのみや)とは、後白河天皇の第三子・以仁王の第一子です。

 

 

京の町の連年も続く飢餓と廃墟した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河天皇と不和になる

 

 

法住寺合戦に及んだ、木曾義仲は院御所・法住寺殿を襲撃して北面武士及び僧兵勢力と戦い、後白河天皇後鳥羽天皇を幽閉して征夷大将軍となり、政権を掌握した軍事政変を起こした。

木曾義仲が初の征夷大将軍になった人物。

 

 

平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱の戦いの一つです。
源頼朝が送った従兄弟の源範頼・義経の軍により粟津の戦いで木曾義仲は討たれた。

 

 

大姫と木曾義仲の嫡男・義高との婚姻

寿永2年(1183年)春、源頼朝と対立していた源義仲は、長男で11歳(当時)源義高を人質として鎌倉に送り、当時6歳の大姫の婿とすることで頼朝と和議を結んだ(義高と大姫は又従兄妹です)

 

  ▲父が討たれ義高も捕まり殺害され、大姫はその後病気になり20歳で病死
              (ネットより)

 

 

しかし頼朝と義仲の関係は破局し、翌年寿永3年(1184年)正月、義仲は頼朝の送った軍によって京都の郊外で敗死する。

 

 

義仲を討ち取った知らせを受けた頼朝は、大姫の婿・義高処遇を考えた。

 

 

可愛い愛娘の大姫の婿殿、しかしその父・義仲を殺害してしまった。

残された義高は今後どうなるかかを頼朝は知っていた。

 

 

同年(改元して元瀝元年)4月21日、頼朝は将来の禍根を断つべく義高の殺害を決めた。

 

 

それを、かいま漏れ聞いた侍女たちは、その話を大姫に伝えた、明け方に義高を女装姿にさせ、侍女たちが義高を取り囲んで邸内から出し、馬のひづめに綿を巻いて鎌倉を脱出させる。

 

 

細工として、義隆の同年の側近の海野幸氏を身代わりに、義高の寝床から髻を出し、義高が好んで海野幸氏といつも双六勝負して、殿中の人々は義高が座っているなと確信するも、夜になると露見してしまった。

 

 

頼朝は激怒して海野幸氏を召し捕り、軍を各所に派遣して義高を討ち取るように命じた。

 

 

親家の郎党である藤内光澄が鎌倉に戻り、入間河原で義高をうち取った旨を報告する。

 

 

このことは内密にされていたが、大姫の耳に入り、悲嘆のあまり水も喉を通らなくなったという。

 

 

 

政子は大姫が病床に伏せ、日を追って悪くなていくのは、義高を討ったのが原因だと憤り、ひとえに討ち取った者の配慮が足らなかったと頼朝に強く迫り、藤内光澄は晒し首にされたこの時、大姫は七歳であった心は深く傷つき、その後十余年も経っても心の傷は癒えず、床に伏す日々が続いた。

 

 

大姫は、義高のための追善供養や読経各寺院への祈祷などあらゆる手を尽くすが効果はなかった。

 

 

 

幼いながらも義高に命を燃やした生涯ただ一度の恋

建久5年(1194年)8月、頼朝の甥で一条高能が鎌倉へきた。

大姫は17歳になった頃には病状は一時小康状態となっていた、頼朝と政子は一条高能との縁談を勧めるも「そんな事をするくらいなら深淵に身を投げる」と言い放って一言の元に拒絶した。

 

 

さすがの頼朝もそれ以上話を勧める事をあきらめる。
頼朝は建久5年(1194年)10月から上洛の準備を始め、翌年建久6年(1195年)2月、政子と大姫・頼家・三幡・実朝らの子女を伴って京へ上った。

 

 

頼朝の今回の上京は、表向きの目的は東大寺の落慶供養であったが、京都では大姫後鳥羽天皇へのにするべく入内工作を行っていた。

 

 

目的は大姫を後鳥羽天皇へ嫁がせる事だった。

 

 

 

そのため、頼朝は宮廷の実力者・土御門通親と丹後局に盛んに接触し、3月28日には丹後局を招いて政子と大姫と対面させ、銀製の蒔絵の箱の砂金300両を納め、白綾30反など多くの派手な贈り物をした。、

 

 

その従者たちにまで引き出物を送って場をもりあっげたが、大姫病は回復せず建久8年7月14日に亡くなった。享年20歳でした。

 

 

大姫の死後、次女・三幡の入内工作を進めて女御※2とするも、頼朝自身の急死と三幡の病死で頓挫してしまった。

※2.女御(にょうご)とは、天皇の後宮の身位の一つで、、天皇の寝所に侍した※3

※3.侍した(じした)とは、高貴な人や目上の人のそば近く仕える。

 

 

頼朝の死1199年2月9日、三幡の病死1199年7月24日。

 

 

母・妻である政子は不幸な女性だと思います。

 

 

 

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