美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

鎌倉の13人

2代将軍頼家の鎌倉殿の13人の御家人の名前は誰か

投稿日:2022年2月3日 更新日:

 いま大河ドラマで「鎌倉殿の13人」を毎週楽しみにしてみています。

頼朝の事はあまり知らないので期待してみていますが、なかなか僕の故郷の武将(加藤景廉)が出てきません。

 

 

いろいろの資料をみると加藤景廉は累代の源氏の家臣で頼朝のために働き武功をあげ、恵那地方の遠山荘守護・地頭になった人物なのに不思議です。

※ここに加藤景廉の関連記事があります、興味ある方は読んでください。

 

 

例えば、山木館に挙兵の前に、頼朝の配下の主だった御家人、工藤成光、土肥実平、岡崎義光、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉らを一人づつ呼んで計画を打ちあけたという、一番大事なシーンがない。

 

 

山木兼隆の首をとったのは、頼朝から長刀を授かった、我が故郷(岩村

城の祖)加藤景廉をなんで放送しないんだろう。

 

▲頼朝から長刀を受け取る加藤景廉▲山木兼隆を討ち取った絵

 

 

頼朝平家打倒で挙兵して最初の手柄なのに、そんなこんなでつまらないドラマ化になってる。

 

 

ドラマでは挙兵がなんか行きあたりの行動のようだけど、ちゃんと頼朝は以前から安達盛長の推挙により味方にしていた、遊歴の官史・藤原邦通※1を密かに派遣して、山木館周辺の情報を得てた。

※1.藤原邦通(ふじわらくにみち)とは、多才で有職故実に通じ、文筆にも通じ、絵や占い、その他百般の才能の持ち主であったという。

『吾妻鏡』での初出は頼朝の旗揚げの直前の治承4年(1180年)6月22日条である。
8月22日条には、その頃、京を離れて「遊歴」していたが、安達盛長の推挙で頼朝に仕えたとある。

頼朝の旗揚げの初戦である山木兼隆襲撃の直前に、酒宴にかこつけて兼隆の館に留まり、周囲の地形を絵図にして持ち帰り、それを基に頼朝達が作戦を練った。

 

八重姫の事も嘘っぽい作り話。

 

 

初代将軍急死「鎌倉殿」、あわてて頼家誕生するも

 建久10年(1199年)1月13日源頼朝急死すると、幕府は、朝廷に25日に頼家18歳で左中将に任じられ、26日に朝廷から諸国守護の宣旨が下りる。

 

 

26日に頼家(頼朝の子としては第3子で次男、政子の子としては第2子で長男)家督を相続(吾妻鏡)して、征夷大将軍になる。

 

 

頼家は、大江広元らの補佐を受けて政務を行うが、4月12日に頼家が訴訟を直接に裁断することが禁じられ、母・政子を中心に13人の合議制が設けられた。

 

 

頼家独断を抑えられる(北条氏の史書の記録のみしか確認出来ない)『吾妻鏡』には、頼家が従来の慣例を無視して恣意的※1判断を行ったという挿話が並べられている。

※1.恣意的(しいてき)とは、気ままな、自分勝手なさま。自分の好きなように振る舞うさま。論理的な必然的がない。

 

 

頼家を立てることで政治を主導しようとする、頼朝側近(大江広元・中原親能・梶原景時)に対する、他の有力御家人の不満・反発も要因としている。

 

 

さらに4月1日に問注所が将軍御所が御所外に移されているが、その記述の不自然さから、実は頼朝時代から恣意的判断が行われていた事実を『吾妻鏡』が曲筆していた可能性も指摘されている。

 

 

 

宿老13人の御家人(合議制構成員名)

北条時政

初代執権。
源頼朝の義父、源頼家の外祖父にあたる。
役職:伊豆・駿河・遠江守護。

 

       ▲鎌倉幕府のしくみ

 

元久2年(1138年)生まれ、正治2年(1200年)13人に選ばれていた梶原景時を滅ぼす(梶原景時の変)

※理由は梶原景時の項目で書いてあります。

 

 

建仁3年(1203年)比企氏を滅ぼす(比企氏の乱:これも13人のメンバー↓に入ってますので、比企能員を見てください)

 

 

元久2年(1205年)畠山重忠を滅ぼす(畠山重忠の乱)直後の後妻・牧の方の陰謀事件で失脚し、伊豆国へ追放される。

 

 

畠山重忠の乱とは、先ず畠山重忠とはどいう武将だったか?
武蔵国男衾郡畠山郷を領し、治承4年(1180年)源頼朝が挙兵したときは、平家方の大庭景親にしたがっていたが、頼朝が安房国に逃げ、その後坂東武者を集結して鎌倉を目指したときに従った。

 

 

源平合戦でも活躍し鎌倉武士の鑑と呼ばれたが‥‥頼朝の死後、北条時政が正治2年(1200年)梶原景時を追放、建仁3年(1203年)比企能員を暗殺するなど、頼朝以来の有力御家人を滅ぼしてきた。

その謀略は、畠山重忠にも及んだ。

 

 

『吾妻鏡』によると、元久元年(1204年)10月14日、三代将軍・源実朝の妻となる坊門信清の息女を迎えるため、北条時範・結城朝光・千葉常秀・畠山重保(畠山重忠の嫡男)らが上洛してきた。

 

 

11月4日、京都守護の平賀朝雅邸で催された宴席の席で、平賀朝雅と畠山重保が口論となるが、集まっていた者だなだめたて、その場は収まったが、その翌日、北条時正牧の方の子・北条時範(『吾妻鏡』によろと16歳で官位は従五位下)が亡くなった。

 一説には、北条時政の嫡子は義時ではなく政範だったのではないかとも言われている。

 

 

この2つの事件が畠山氏の滅亡へと行くことになった、それと同時に北条時政も表舞台から伊豆に追放される。

 

 

北条義時

北条時政の嫡男。
役職:寝所警護衆(家子)

 

 

元久2年(1205年)畠山重忠の乱・牧の方の陰謀を機に父。時政を追放。

建暦3年(1213年)和田義盛を滅ぼす(和田合戦)

建保7年(1219年)源家朝公暁に暗殺される(源実朝の暗殺)

※上記の源実朝をクリックして関連記事をご覧ください。

       ▲承久の乱(イメージ)

 

承久3年(1221年)後鳥羽上皇の挙兵を鎮圧(承久の乱)

※上記の承久の乱をクリックして関連記事を読んでください。

 

 

大江広元

役職:政所別当

源頼朝の死後も幕府の中で中心的な役割を担い、鎌倉幕府の基礎を築き上げた公家。

 

 

三浦康信

役職:問注所執事

頼朝に定期的に京都の情報を伝えていた公家。母が頼朝の乳母の妹。

 

 

中原親能

公家出身の御家人。

役職:政所公事奉行。

大江広元の兄。

 

頼朝と政子の次女・三幡(通称は「乙姫」文治2年(1186年生まれ))の乳母の夫。承元2年(1209年)12月18日京都で死去した。

 

 

三浦義澄

頼朝が源氏再興の挙兵後、石橋山の戦いに敗れ、安房国に渡った頼朝を助けた武将で、三浦大介義明の娘婿。

 

平家討追に尽力し、のちに頼朝の辞令を受け取った。
正治2年(1200年)1月3日死去。

 

 

八田知家

常陸国八田(現・筑西市)を本拠とし、八田武者所と称した武将。

源頼朝の乳母を務めた寒川尼は姉妹。

 

 

頼朝の異母弟(阿野全成)と共に挙兵に参陣。
阿野全成は源義朝八男、母は常盤御前、義経は兄。

 

      ▲父・源義朝の系図

 

北条政子の妹・保子(阿波局)を妻として、駿河国阿野荘を与えられ「阿野」を名乗った。

 

 

保子が頼朝の三男・実朝の乳母になって教育係になって地位を築いくも、頼朝の死後の建仁3年(1203年)北条時政らの将軍・実朝擁立の企てに加わった。

 

 

5月19日に二代将軍・頼家が派遣した武田信光によって捕らえられ、建仁3年(1203年)6月23日に流された常陸国で頼朝の異母弟・阿野前成(あのぜんじょう)を討った(阿野全成の誅殺)。
建保6年(1218年)3月3日死去。

 

 

和田義盛

役職:侍所別当。

三浦大介義明の孫。

建暦3年(1213年)の和田合戦で滅亡。

 

和田合戦とは建暦3年(1213年)5月に鎌倉幕府の有力御家人で侍所別当だった和田義盛が起こした反乱。

 

 

その乱の発端は2月に起こった泉親衛の謀反

この事件で和田義盛の甥・胤長が処刑されたことで、義盛と北条義時との関係が悪化、同族の三浦善村や横山氏を味方につけて北条氏打倒を企てるが、三浦義村に裏切られ兵力不足で、源実朝を擁して兵を集めた北条義時に敗れ逃亡した。

 

 

比企能員

源頼朝の乳母比企尼の養子で頼家の乳母の夫。

建仁3年(1203年)の比企の乱で逃亡。

 

 

この事件は、頼朝に信頼された比企能員は、頼家が誕生すると妻が乳母に就任、能員は乳母の夫となる。

のちに娘の若狭局が頼家の側室になって、一幡※2を授かった。

※2.一幡とは、鎌倉幕府・第2代征夷大将軍・頼家の長男。公暁・栄実・禅暁は異母弟、竹御所は異母妹または同母妹。

 

 

頼朝の死後、将軍・頼家の外戚※3として権勢を持ったが、北条義時の謀略によって一族もろとも滅ぼされた。

※3.外戚(がいせき)とは、皇帝、王の母親または妃の一族の事。

 

 

伊豆の蛭ヶ小島に流されてきた、源頼朝を援助した武将。
頼朝の乳母・比企尼の娘婿なんだけど、正治2年(1200年)4月26日に死去した。

 

 

足立達元

鎌倉幕府の有力御家人、足立氏の祖(武蔵国足立郡(現・東京都足立区から埼玉県北足立郡)を本拠としていた。

安達盛長の甥にあたる。

 

 

源義朝から源頼朝、頼家、実朝の4代に亘って「源氏」に仕えた武将。
幅広い親戚関係を築き、娘の一人は院近臣の藤原光能に嫁ぎ、京都権門とも深い繋がりを有していた。

 

 

また、別の娘は畠山重忠及び北条時房に嫁がせて、男子を儲けている。
武士出身でありながら公文所寄人に選ばれるなど、坂東武士の中にあって文官的素質を持つ人物。

生誕1130年前半?も没年は未。

 

 

梶原景時

役職:侍所別当

石橋山の戦いの時は平家方でありながら、源頼朝を助けたという武将。
源頼家の乳母の夫。

 

 

正治元年(1199年)12月に失脚、翌年の一月20日に討死(梶原景時の変)

 

 

この事件は、文武に優れた梶原景時は鎌倉幕府の侍所別当として、御家人たちの行動に目を光らせ、勤務評定や取締りに当たる目付役、「鎌倉殿」専制政治をとる頼朝にとっては重要な役割を担って忠臣である一方、御家人達からは恨みを買いやすい立場の人物でした。

 

 

正治元年(1199年)正月、頼朝が急逝、嫡子の頼家が家督を継いだ。

しかし、将軍独裁体制に対する御家人たちの鬱積した不満により、頼家はわずか3ヶ月で​訴訟の採決権を奪われ、代わって幕府宿老による十三人の合議制がしかれ、諸軍の独裁は抑えられた。

 

 

頼朝時代に続き頼家が「一の郎党」として頼みとして梶原景時もこれに加わったが、頼朝の死後、頼朝生前の時、讒言※3によって御家人の多くが失脚していることから恨まれていた。

※3.讒言(ざんげん)とは、事実を曲げ、偽って人に悪く言うこと。また、告げ口。

 

御家人66名の弾劾にあって鎌倉を追放され滅ぼされた事件。

 

 

二階堂行政

役職:政所を務めた公家、

大江広元・三浦康信と並んで源頼朝を支えた実務官僚。

生誕年不明、没年も不明

 

 

安達盛長

安達盛長は、頼朝が伊豆の蛭ヶ小島に流された来た時から側近として活躍してた、安達氏の祖で武将でした。

足立遠元の叔父ともいわれるが、出自は定かでない。

 

 

通称は藤九郎、正室は頼朝の乳母を務めていた比企尼の長女・丹後内侍。

 

治承4年(1180年)以仁王が全国の源氏に平家打倒の令旨を発すると、源氏累代の家人を集めるための使者として駆けずり回った。

 

 

石橋山の戦いに敗れた後は、頼朝と共に安房国へ渡り、上総広常・千葉常胤への使者として奔走した。

 

 

その後も頼朝の側近として活躍し、上野国の奉行人や三河国の守護を務めているが、頼朝だ死去後、嫡男・頼家が家督を相続するが、建久10年(1999年)4月12日には頼家の訴訟親裁が停止され、宿老13人による合議制が採用されると選ばれた。

 

 

この年の秋に起こった梶原景時の変では、追放の弾劾状に署名している。 

 

 

 

-鎌倉の13人

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。