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鎌倉幕府は三代将軍・実朝亡き後突如藤原頼経を第四代総軍にしたのか

投稿日:2021年10月5日 更新日:

 朝廷政治から武家政治にしたのが、ご存知源頼朝

今まで武士という者は、朝廷の飼い主で、武士は番犬の如く働いてきたのだったが、それを頼朝が源平合戦後勝利して、朝廷から幕府を創って政治を樹立したのが鎌倉幕府。

 

 

ところが、頼朝、頼家、実朝が亡くなって源氏の将軍は絶えた鎌倉幕府は北条氏の絶大なる権力で続いた

 

 

それで、政権を取り戻そうとしたのが後鳥羽上皇の「承久の乱」勃発、結局幕府の勝利で終わった。

 

 

鎌倉幕府の実権を握っていたには北条一族と尼将軍、それで突如として藤原氏である藤原頼経鎌倉幕府の第四代将軍職に就任した、一体なぜ、藤原氏が将軍になったか?

 

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藤原頼経が鎌倉幕府の第四代征夷大将軍に

   摂政関白を歴任した九条道家の三男で、摂家から迎えられた摂政将軍。
九条頼経とも呼ばれる。

摂政(せっしょう)とは、君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱である等の理由で政務を執り行うことが不可能の場合、あるいは君主が空位であるなどの場合に、君主に代わって政務を摂ること、またはその役職のこと。
多くの場合、君主の後継者(皇嗣)、兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。

 

 

両親ともに源頼朝の同母妹・坊門姫の曽孫にあたる2歳の頼経を鎌倉に迎入れた

前の第三代の源氏将軍とは、遠縁ながら血縁関係にあり、妻は源頼家の娘・竹御所。

 

 

竹御所は難産の末、母子共に亡くなってしまい、源頼朝直系である源氏将軍の血筋は断絶した。

藤原頼経は反執権力に利用されるようになり、第5代執権・北条時頼によって京都へ追放されてしまった。

 

 

 

源氏将軍三代のまとめ

初代・源頼朝人心掌握術(相手の心をしっかりと掴むくこと。自分の意のままに相手の心を操ることができれば、それは人心掌握術ができている状態です、相手からの尊敬や信頼を得られれば、自分の思い通りに相手の心を動かせるようになります)と政治スキルが最強だった頼朝は、御家人からの信頼も厚かった。

 

若い頼家では、御家人たちを統率しきれない。
御家人の発言力が強くなり、特に比企一族や北条一族が力を強める。

 

二代・源頼家:相対的に将軍に影響力は低下し、御家人内での争いも多々多くなってきた。
御家人内の争いを勝ち抜いた、北条氏が権力を掌握するようになり、源実朝は北条氏に担ぎ出された傀儡将軍(ある領域を統治し、名目上は独立しているが、実態では事実上の支配者である外部の政権・国家によって管理・統制・指摘されている政権。内政も外交も自己決定権がなく、支配者の利益のために操作・命令され統治されることです。)となった。

 

三代・源実朝:政治の実験の多くを北条氏が握る事になり、鎌倉幕府・源氏の将軍職は北条氏によって骨抜きにされた。

 

 

※初代の源頼朝の時代だけで、以後の二代・三代将軍の権力は著しく低下、特に実朝時代になると、実質的最高権力は北条氏となり、将軍位は鎌倉幕府の象徴的存在でした。

 

 

では藤原将軍になった藤原頼経は

突然の三代将軍・源実朝が、甥・公暁に鶴岡八幡で暗殺されてしまった。

鎌倉幕府としては、次期将軍を早急に決める事になり、将軍選びは難航しました。

 

 

実朝には子がいませんので、直系血族はいませんが、傍系であれば源氏の血を引く者はいました。

 

 

これらの人物を将軍にすれば、将軍位に源氏の血を残すことができますが、実はそんな単純な話でもありません。

 

 

誰を担ぎ出すかで、御家人たちの間で揉め事が起きるのは明白になります。
既に、政治の実権を握っている北条氏がわざわざイザコザを起こしたくないはずです。

 

 

つまり、次期将軍を決めるには、平和的に解決する以外ないですので「どの御家人とも深い関わりを持たない、高貴な血筋の者を将軍位に継がせ、御家人を納得させ、尚、且つ将軍には政治の実権を与えす、これまで通り北条氏が政治の実権を握ること」を目論んだ選定になった。

 

 

北条政子が提案したのは「京都から、皇族の血を引く者を将軍にしよう」といった。

実は、源実朝が生きている頃から、皇族出身者を鎌倉に連れてくる話は、北条政子と藤原兼子の間で話があった。

 

                 ▲尼将軍・北条政子

 

 

藤原兼子とは、いかなる人物かというと後鳥羽上皇の乳母、鎌倉時代でも朝廷でも乳母の発言力は強かったのですが。

 

 

 

後鳥羽上皇との交渉決裂

北条政子と藤原兼子との話は、1219年に源実朝が暗殺されて亡くなり、実際に将軍就任の話になると、後鳥羽上皇が、今になって拒否した、鎌倉幕府にこんな要求をした。

 

 

後鳥羽上皇:寵妃(ちょうひとは、君主などから特別に寵を受けた夫人。殷の妲己などが歴史上よく知られている。)である伊賀局の持つ荘園で、地頭が領主のいうことを無視するもんだから困っている。地頭をクビにしろ!!

あと、西国の武士である仁科盛遠の所領奪ったの撤回しろ!!


要求した。

 

 

鎌倉幕府は当然これを拒否した。
後鳥羽上皇の意思は硬く、遂に皇族出身者を将軍にすることを断念した。

こうして北条政子は、次期候補として藤原氏出身の藤原頼経に目をつけた。

 

 

 

こうして第四代将軍が決まった

紆余曲折を経て、将軍に抜擢されたのは、わずか4歳の藤原頼経、どんな人物か?

一応源氏の血を引いて、西園寺家や九条家との関係も良好でした、特に西園寺家。

 

 

「皇族の血がダメでも、藤原氏源氏の混血であれば御家人たちも納得するだろう」という北条政子の思惑があった。

それと、幼き将軍のため傀儡将軍にはうってつけであった。

 

 

こうして、1219年に藤原将軍の鎌倉幕府が就任することになります。
藤原頼経の父は九条道家なんですが、息子はなんで藤原姓なのか?

 

 

 

飛鳥時代の藤原鎌足から続く藤原氏ですが、平安時代に藤原氏が栄えると、多くの藤原氏が出てきますので、同じ藤原氏という名前でも様々な家柄の者が出てきます。

 

 

 

一括りに藤原氏といっても家柄・身分にも差が生まれ、平安末期、特に身分の高い藤原氏の中で、それぞれ独自の家柄を名乗ることが増えていきます。

 

 

そして西園寺も九条も、そんな藤原氏の一つでした。
なので、藤原頼経は九条頼経とも呼ばれることもあったり、藤原頼経という呼び方が主流であるのは、「藤原氏の血筋」を強調するためだと思います。

 

 

 

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