美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

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北条義時の家系図と八重姫の家系図を見るー江間小四郎の活躍

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   鎌倉幕府のことは知っているけど、どうして鎌倉幕府が出来たのか?
ハッキリといって知らない。

 

 

我が故郷に岩村城があるけど、鎌倉時代加藤景廉が祖になって、遠山荘の守護・地頭を任されて嫡男・加藤景朝が築城したという事は知っていた。

上記の加藤景廉をクリックしてもらうと詳しい記事があります。興味のある方は読んでください。

 

 

嫡男・加藤景朝は、遠山荘のため、遠山景朝と改名して遠山氏は戦国時代まで続いた。

 

 

遠山景朝は承久の乱に活躍して、公家の後鳥羽上皇の忠臣・一条宰相中将・藤原信能卿が捕えられて鎌倉に輸送する途中で幕府の命令で岩村の相原の地で斬首したのは遠山景朝です。

上記の藤原信能をクリックして関連記事を読んでください。

 

 

最後の城主・遠山景任の妻・おつやの方(女城主)まで続いた。

※上記の女城主をクリックしてもらえば関連記事があります。

 

 

 

北条義時が江間小四郎と呼ばれる理由

 北条義時は、長寛元年(1163年)父・北条時政伊東祐親の間に生まれた次男で、江間小四郎と称した。

 

 

なぜ、江間小四郎と呼ばれるようになったか?

当時の武家では、家督を継ぐ嫡男のみ名字を名乗れる慣例があったため、北条義時は、本家の「北条」ではなく、分家となって「江間」の名字を使用した。

この江間家初代当主であったとも考えられます。

 

 

現在の伊東の国市に「江間荘/江間庄」領主を務めていたことから名付けられた。

                      ▲北条義時邸跡:伊豆の国市・江間公園(ネットより)

 

屋敷跡に伝わる場所に「江間公園」が造られて、公園内には「北条義時(江間小四郎義時)屋敷跡」と記された碑が建てられています。

ここで北条時政と最初の妻・伊東入道(伊東祐親)の家系図を見てみよう

               ▲北条時政の系図(この系図をみると政子は異母になっている)

 

         ▲伊東祐親の系図(曽我兄弟の敵討ちもここから)

 

 

この家系図をみると、北条政子は腹違いの姉弟となっていますが、本当にそうでしょうか?

 

 

どんな本・資料を読んでも北条家の館に、父・兄・弟・妹と生活を共にしているから疑問で真相は今のところ本妻の子か妾の子かはわかりません。

 

 

まして源頼朝が将来を見据えていたのに、名も無い母を持つ政子に近づくでしょうか?

 

 

頼朝の最初の妻とされる、八重姫は平氏の家臣・伊東祐親の娘・八重姫と結婚すれば伊東入道と組めると思って近づき子まで授かってる。

千鶴丸である。

 

 

個人的な考えだけど、頼朝は時が来たら伊東祐親を利用して、源氏方に付けて戦いたいと思っていたに違いないと小生は思ってる。

 

 

一説には、なんで伊東祐親が憤慨したかというと、頼朝が八重姫がいるのに政子にも現(うつつ)を抱いているのを聞いた、祐親が激怒してしまって収まりがつかなくなったとも考えられます。

 

 

伊東祐親も頼朝は,源氏の御曹司だからそいう腹でいたんじゃないかと思う。

あくまで推測、歴史は証拠がないと立証出来ない。

 

 

八重姫は入水自殺をしたのか?義時と結婚したのか?

『真名本曽我物語』※1によると、義時の父・時政は先の妻(八重姫の父・伊東祐親の娘で長女)で、北条政子だという。

※1.真名本曽我物語とは、曽我物語の諸本は多く現存し、写本は70本を超し版本は20種を超す。その内容は伝本ごとに異なる部分があって、物語のストーリーも伝本ごとの変化に富む。それが『曽我物語』の特徴でもある。

これらは「真名本」「仮名本」の2系統に分類される。このうち真名本は仮名本より成立が早く古態を示すとせされ、先学では鎌倉時代末期から南北朝時代に成立したとされる。と書かれています。

 

 

ということは、北条義時の母も同じという事になってくる。

そして八重姫義時からみて叔母ということになる。

 

 

頼朝の挙兵後、江間に嫁いだ八重姫の子供を、義時が育てたのが事実なら、義時と八重姫はの結婚があっても不思議な事ではないかもしれない‥‥。

 

 

一方、北条の地で悲しい最期を遂げたと伝えられてる、八重姫ですが伊東市では八重姫北条義時(江間小四郎)再婚して、千鶴丸菩提を弔うための最誓寺を建立したのだと伝わっています。

 

 

叔母にあたる八重姫とは、歳はそんなに離れていないからあり得ないことでもない。

 

 

義時は八重姫に気があった。
八重姫の本名は静姫といった。

 

 

事件が起きたのが安元元年(1175年)9月、義時が12・13歳の頃の出来事、結婚するには無理があるかもしれないが、想像ですが頼朝は14歳で蛭ヶ島へきた。

 

 

ことが起きたのが千鶴丸が殺されたというのが1175年、3歳の時1175ー3歳を引くと1172年から頼朝を引くと、1172年ー1147年5月9日=頼朝が25歳頃

 

 

頼朝政子との歳の差は9・10歳、八重姫は1160年頃(推測)の生まれ、そうすると義時八重姫の差は3・4歳、なんら不思議でもなんでもない。

 

 

義時正室姫の宮、継室:伊賀の方、側室:阿波局、伊佐朝政の娘、他がいます。

正室姫の宮の子に北条朝時(名越流祖)・北条重時(極楽寺流祖)がいます。継室(後添)の牧の方には、第7代執権(在籍1264年〜1268年)の北条正村、北条実泰、北条時尚、一条実雅室などがいます。

 

北条三代執権は、側室阿波局の子北条泰時※2です。
阿波の局=八重姫という見方が出来ます。
千鶴丸・母の八重姫の死は偽装されたのではないか・・?

 

※2.北条泰時とは、誕生は寿永2年(1183年)北条義時長男(庶長子・義時19歳か20歳の子?)として生まれる。

 

幼名は金剛、母は側室阿波局で、御所の女房と記されるのみで出自は不明で父・義時が21歳の時、祖父・時政ら北条一族と共に源頼朝の挙兵に従い鎌倉入りしている。

 

と書いてあるが、義時21歳の時というば泰時は、まだ3歳か4歳の時である、信じられない千鶴丸なら6歳か7歳。

 

 

弟の第7代執権の北条政宗は、正室、姫の宮から誕生したのが元久2年(1204年)で、兄・北条泰時とは約21歳の差があります。

 

 

 

若き日の北条義時の活躍

 治承4年(1180年)義時18歳は、父・時政、兄・宗時と共に源氏の棟梁・源頼朝の挙兵に従うが、石橋山の戦いで大庭景親に敗北して兄・宗時が戦死する。

 

 

頼朝、土肥実平らは箱根山から真鶴半島へ逃れ、28日真鶴岬(神奈川県真鶴町)から船で安房国に脱出して難を逃れた。

 

 

10月13日甲斐源氏(武田信玄も甲斐源氏)は、北条時政親子と共に駿河に侵攻し鉢田の戦い、富士川の戦いに勝利する。

 

             ▲武田信玄も源氏だったんだ〜

 

その後、北条時政・義時親子は頼朝の元に帰る。
治承4年(1180年)12月12日上総広常邸を発った頼朝は、和田義盛の先導で新亭※3に向かった。 

※3.新亭とは、治承4年(1180年)10月7日、鎌倉入りを果たした源頼朝は、2日後の9日には、大庭景親を奉行として御所の造営にとりかかります。

当座の御所として山ノ内首藤兼道邸が移築されていましたが、12月12日に大蔵郷に新造の御所が完成しました。

この新亭が、のちに大倉幕府と呼ばれるようになります。

 


 当座の御所としては、山ノ内の首藤兼道邸が移築されていましたが、12月12日、大倉郷に新造の御所が完成しました。

 

政子の籠には、加々美長清、毛呂季光が付き添い、北条時政、北条義時、足利義兼、千葉常胤、安達盛長土肥実平、岡崎義実などが供奉し、畠山重忠が最後尾を務めたといいます。

 

 

新亭に入った頼朝は寝殿に上がり、御家人は侍所に対座します。
中央に位置するのは、11月17日に侍所別当に就任したばかりの和田義盛でした。

 

 

この日、新亭に出仕した御家人は311名(この中に我が故郷の加藤景廉も参列)と伝えられ、頼朝は「鎌倉の主」に推載されています。

東国の支配者『鎌倉殿』誕生です
「御移徒の儀」は、頼朝が鎌倉で行った最初の公式行事です。

 

 

この儀式によって「武家による新たな社会秩序が鎌倉の地にできた事」を全国に宣伝されました。

 

 

「吾妻鏡」によれば、鎌倉には頼朝の御所が完成しただけではなく、御家人の宿館も備えられえたことが記されています。

 

 

養和元年(1181年)4月、北条義時頼朝の寝所を警護する11名のうちに選ばれ、この頼朝の個人的な側近・親衛隊は「家子」と呼ばれて門葉(源氏血縁者)と一般御家人の中間に位置づけられ、義時はその中でも「家子の専一」とされた。

この時の義時の名は、まだ「江間四郎」だった。

 

 

寿永元年(1182年)11月、頼朝は愛妾・亀の前を伏見広綱の宅に置いて溺愛していたが、この事を継母の牧の方が政子に知らせたため、政子は激怒し、牧の方の父・牧宗親に命じて伏見広綱の屋敷を破壊するという事件が起きた。

 

 

これを聞いた頼朝は牧宗親を呼び出し叱咤し、宗親の髷を切って辱め、これを聞いた北条時政は舅の宗親への仕打ちに怒り、一族を率いて伊豆へ帰って行ったが義時は父に従わず鎌倉に残り頼朝から感謝称賛された。

 

 

兄・宗時が戦死したため嫡子になったとされるが、義時は『吾妻鏡』で北条姓ではなく所領した江間の姓で記される事多く、分家の江間家の初代であったと見られる。

 

 

文治5年(1189年)に、時政の後妻・牧の方の異母兄弟の北条雅範は16歳で従五位下に叙され、26歳年長の義時と並ぶ地位にあり、父・時政雅範を将来の嫡子に考えていた可能性もあった。

 

 

元暦2年(1189年)源範頼(​​​源義朝の六男) 頼朝の異母弟で、源義経の(異母兄)率いる平氏追討軍に属して西国へ赴き、葦屋浦の戦いで武功を立てた。

            ▲高館義経堂の慰霊の石碑

 

文治5年(1189年)7月に奥州合戦に従軍した、建久元年(1190年)頼朝が上洛した際、右近衛大将拝賀の随兵七人のうちに選ばれて参院の供養をした。

 

 

義時は21歳の時に長男・泰時をもうけていたが庶子であり、建久3年(1192年)頼朝の仲介により、比企朝宗の娘で誉れ高い幕府女房であった姫の前を正室に迎え、翌年に嫡男・朝時をもうける。

 

 

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