美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

大給松平岩村藩

美濃岩村藩に初代・松平家乗の父・松平真乗と母・興正院はどんな人か

投稿日:2022年2月19日 更新日:

   慶長5年9月15日に主戦場・関ヶ原家康と石田三成が戦った地域、これにとなって全国各地で戦が行われた

※上記の全国各地をクリックしてもらうと東濃の関ヶ原といえる関連記事があります。よかったら読んでください。

 

 

この戦いは確かに天下を二分した戦いだったけど、本来は豊臣政権内部の政争に端を発した家臣同士、東の徳川家康・西の毛利輝元・宇喜多秀家・石田三成を中心にした反・徳川家康との戦いです。

 

 

この結果、豊臣政権は統一政権の地位を失った一方、勝者である徳川家康は強大な権力な権力を手に入れ、幕藩体制確立への道筋が開かれた。

 

 

豊臣の時代に岩村城主だった田丸直政は西軍だったため、岩村城を開城した

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変わって、慶長六年(1601年)に美濃国の岩村藩に2万石で入封、その時に盛巌寺・浄光寺・浅見家を伴って来た。

 

 

 

初代岩村藩主・松平家乗の父・松平真乗とは

 大給松平家の第5代で先祖からの三河大給城を根拠地としていたが、徳川家康(又従兄)に仕えていたため、大給城には居ず浜松城にいることは多かった。

※ここに大給城の記事があります。興味ある方は上記の三河大給城をクリックして読んでください。

     ▲大給松平と家家の関係図

 

松平真乗は、家康と上杉謙信による三越同盟の外交交渉にも加わっている。

遠州平定戦では掛川城攻め、姉川の合戦、諏訪原の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど徳川家の主要な合戦の多くに参戦して武功を挙げた。

 

 

天正8年(1580年)の田中城攻めの帰り、石川数正の軍を朝比奈信置が襲撃した際には、松平真乗が反撃して破っている。

 

 

天正10年(1582年) 第二次高天神城の戦い、信玄亡き後、武田勝頼と徳川家康との戦いで松平真乗は37歳で戦死した。

 

 

家督は嫡男(幼名:源次郎)のちに家乗が継いだ、この時6歳だった。

 

 

松平真乗の菩提寺

松平真乗が歿する天正10年(1582年)大給城下菩提寺称名院を細川郷へ移して松明院とした。

 

 

岡崎市細川町根古屋にある、松明院の現在の本堂は大給本家第十代・松平乗邑と大給奥殿家第五代・松平盈乗(みつのり)が、寛保元年(1741年)に寄進したものである。

 

 

なお、鐘楼門は大給奥殿家第九代・松平乗羨(のりよし)の寄進、総門は大給本家第13代・松平乗寛の寄進による。

 

 

松明院には松平真乗の法名と思われる「道翁」と鐫刻した墓石があり、徳林墓地(殿が墓所)には、真乗の墓と伝わる自然石の「道翁石」があります。

 

 

また、徳林墓地には、享保13年(1728年)に松平乗邑奉献の「道祖梅香院殿廊前石燈籠」二基、文政7年(1824年)に松平乗寛建立(真乗二百五十回忌法要に再建?)の「大給城主源真乗之墓」もあります。

 

 

一方、美濃国の恵那郡岩村町の盛巌寺(乗政寺山)には、真乗の法名「清岸 道翁」を鐫刻した五輪供養塔が、美濃岩村藩2万石の城主となって入封した。

     ▲岩村町にある盛巌寺お城の方角をみて建っている。

 

松平真乗の嫡男・松平家乗により慶長15年(1610年)に建立されいる。この時家乗は35歳。

 

 

岩村藩初代藩主・松平家乗の母・興正院のその後

松平家乗は、天正3年(1575年)〜慶長19年(1614年)、美濃国岩村藩に来る前は、天正15年(1587年)主君・徳川家康から偏諱を受け「松平家乗」と名乗った。

この時12歳か13歳の時です。

 

 

その後、天正18年(1589年)家康が関東に移封されると、上野国那波郡に1万石の所領を与えられ、家乗は上野国那波郡に父祖の菩提寺として雄山伝英和尚を招いて久昌山 盛巌寺を建立した。

 

 

現在・岩村町に久昌山 盛巌寺があります。
山号及び寺号は、家乗の父・松平真乗の法号梅香院殿盛巌道翁大禅定門、祖父・松平親乗の改名:空源院殿九浄昌大居士に因む。

 

 

慶長元年(1596年)には、官位を叙任され、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康に従って従軍し、三河国吉田城の守備を務めた。
戦後、家康から賞されて美濃国岩村へ転封した。

 

 

家乗の父親の死後、母・興正院はどこに?

松平真乗は戸田弾正忠重の娘、興正院

興正院は夫・松平真乗との間に、家乗・真次の二児を儲けたが、天正10年(1582年)に夫・松平真乗が死去すると、大給松平家に慮※1ところがあったのか、次男・真次を伴って三河足助・乗城/足助城の城主・鈴木康重に再嫁※2した。

※1.慮る(おもんばかる)とは、周囲の状況などをよく考える。思いをめぐらす。

※2.再嫁したとは、二度目の結婚。例、松平真乗の祖父・松平乗勝に嫁いだ、松平清康の養女(この養女は、徳川家康の義理の叔母)も、乗勝没後に鈴木康重の祖父・鈴木重直に再嫁してい。

 

 

興正院の再婚相手の鈴木康重は、徳川家康配下の本多忠勝に属していたが、天正18年(1590年)の徳川家康が関東入国に際しては、故あって※3大給松平に仕えることになり、上野那波から美濃国岩村へと従っている。

※3.故(ゆえ)あってとは、ある事情があって。ということは、鈴木康重は寛政重修諸家譜に「康重罪を蒙りて松平和泉守に召預かる。子孫彼家の臣となりて杉戸を以って照合するといふ。」また、鈴木康重には興正院との間に一女があり、美濃小里光親に嫁がせている。

 

因って、興正院大給松平の籍を離れたといえ、我が子(家乗)の成長を近くで見守っていたもである。

 

美濃国初代岩村藩主・松平家乗の弟・真次は育ての親である鈴木康重が、慶長6年(1601年)に美濃岩村へ移って間もなく死去すると、それを悲しんで、一旦は武士を捨てたが・兄・家乗の説得徳川秀忠に仕えるようになった。

 

 

大阪の陣で戦功を挙げ、元和元年(1615年)に上野国内で一千石を与えられ、寛永4年(1627年)には大番頭に進んで二千石を加増され、幕府に願い出て都合三千石の領地を、先祖所縁の三河国内に移された。

 

 

なお、真次は寛永12年(1635年)に上総国内で四千石の加増を賜り、この地も三河国内に移すのを許されて七千石にした。

 

 

興正院は夫・鈴木康重が歿した後三河奥殿に屋敷を構えて住んだと思われ、真次が先祖所緑の地を領してからは、足助の鈴木康重の墓が奥殿に改葬されている。

 

 

そして、寛永5年(1628年)に歿した。興正院は夫・鈴木康重の墓の側に葬られた。

 

 

法名は、故障院殿華慶永林大姉、三河細川の松明院には位牌が祀られています。・

 

 

孫の第2代岩村藩主・松平乗寿(名君といわれた)正室を、興正院の実弟・戸田康長を迎えている。

後に、浜松城(俗に出世城)へ転封している。

 

 

-大給松平岩村藩

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。