美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

徳川家康

先祖が乞食坊主の徳阿弥だったに徳川家康はなぜ征夷大将軍になれたのか?

投稿日:2022年7月26日 更新日:

   司馬遼太郎の「歴史の中の邂逅」に「上州徳川郷」という話があります。

 

 

つまり徳川の祖は大久保彦左衛門の書「三河物語」に書かれたように「中有ノ衆生ノゴトク」全国を歩いていた徳阿弥と云う乞食坊主であったらしい。

 

 

乞食坊主だった家康の先祖が源氏の天皇の血筋の訳が無い、流れ流れて三河にたどり着いて名を挙げた一族だと思う。

           ▲乞食坊主(イメージ)

 

 

この徳阿弥は上州利根川沿いの徳川村(現・深谷市世良田辺り)に住んでいたことで、その名を付けたようで、阿弥とは当時流行っていた「時宗」と云う信仰宗教の信徒をさすからで、徳川村の信徒と云う。

 

 

この乞食坊主が西三河の酒井・又は坂井か境と云う場所にあった坂井という大百姓の家に滞在し、そこの娘と恋に落ちて一児を成す訳で、ところが、ここで妻は死んでしまう。

 

 

のちに今度は、奥三河の加茂郡松平郷の松平太郎左衛門信重の後家さんとねんごろになり、そこで婿養子となり、跡目を継ぎ「松平親氏」と名乗って活躍する。

        ▲イメージ

 

 

以降坂井家松平家は関係を深め、この地域で強い力を持つ事になる。
この徳阿弥が初代・松平親氏で九代目が徳川家康となる。

ここに歴代の先祖のブログがあります。

                 

※上記の松平親氏をクリックすると関連記事と家康までの系図があります。興味ある方は読んでください。

 

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ここからが本題の源氏との関わり

家康は始め藤原の子孫と称していたらしいが(乞食坊主がなんで藤原の子孫だと思う、プーチンと同じ嘘で固めた天下人、勝てば官軍という事です。NHKの大河ドラマで、この辺の事をどいうふうに説明するか見ものだと思ってます)

 

 

しかし日本には源平交代思想というのがあるらしく、日本の武力政権を樹立したのは平家である。

 

 

それが源氏の鎌倉幕府にとられ、その鎌倉幕府は北条家にとられ、その北条氏は源氏の足利氏とられ室町幕府となった訳です。

 

 

織田信長の時代には、あっても無いような室町幕府を倒すのは平氏でなければならず、そのために信長は平氏に改称した。

 

 

その時の同盟者である家康は藤原氏を源氏に改め、その旨を朝廷に請願した。

 

 

源氏に改めるには証拠が必要であり、その証拠として時宗の徳阿弥の寝物語が生きてきたのである。

 

 

つまり徳川村の新田源氏の一族である・・・と云う理由がである。

ゆえに徳川の姓を改め、正式署名源朝臣家康と書くようになる。

 

征夷大将軍は源頼朝の先例以来、源氏に限られいた訳で、このお墨付気を貰う事で幕府が開けるのです。

のちに、この徳川郷は幕府直轄の租税が免除された土地になる。

       ▲イメージ

 

 

朝廷を力で押さえつけた秀吉と家康

武家の棟梁である「征夷大将軍」には、源氏しかなれない。

公家の頂点は「関白」
関白は藤原氏しかなれません。

 

 

摂政・関白になれる家柄を「摂家(摂関家)」といい、近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家つだけだったことから「五摂家」と言われています。

 

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なぜ百姓出身の秀吉が関白に

実は、秀吉は天正13年(1585年)近衛前久猶子※1となって、強引に藤原氏に入れてもらって「近衛秀吉」として関白に就任してしまいました。

ちょうど「第一次上田合戦」真田徳川と戦っていた頃です。

※1.猶子(ゆうし)とは、養子とほぼ同じですが「家督や財産などの相続を必ず目的とせず、権勢を借りたり、同族内の結束を強化するため」に行われるものです。▲

 

 

まさに秀吉「藤原朝臣姓」が欲しかっただけです。

その後、秀吉「豊臣」に改姓し、豊臣氏を新たな摂関家としてます。

 

 

秀吉の養子になり関白を継いだ秀次「豊臣朝臣秀次」として関白に任じられています(ただし秀次以降は五摂家が摂関の座を独占するようになっています)。

 

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関白と征夷大将軍の違い

「征夷大将軍」は文字通り、東夷(蝦夷)を征伐する遠征軍の最高司令官のことで、「関白は、総理大臣で、征夷大将軍は防衛大臣」と云う例えがあります。

 

    ▲どちらが偉いか?

 

 

ただ、征夷大将軍「現地においては天皇の代理人たる権限」を持っていたので、朝廷内における天皇の代理人である関白と、権力的にかぶってたんです

 

 

この征夷大将軍の特権をうまく利用したのが源頼朝で、頼朝は朝廷内の序列では、関白よりだいぶ下の「右近衛大将」だったんですが、奥州藤原氏を征伐するという名目で征夷大将軍の座につき、そもまま京都から離れた鎌倉の地に幕府を開き、独自の政権を成立させました。

 

 

ここから「朝廷(公家)」「幕府(武家)」と云う二元体制が始まったともいえます。

 

 

 

まとめ

室町時代も戦国時代も続き、そして江戸時代を終わらせる事に繋がっていく訳でです。

 

 

大政奉還は簡単にいえば、江戸幕府を消滅させて再び朝廷に政治権力を一本化させたという事です。

 

 

例えば
天皇=生徒会長とすると、関白は副会長で生徒会という序列のなかでも誰もが認めるNo2です。

 

 

征夷大将軍は体育祭の実行委員長にあたります。

でも体育祭の運営においては、全権委任されているので副会長よりも偉いという解釈することもできます。

 

 

「征夷大将軍は源氏しかなれない」と書きましたが、あれは正確ではありません。

それこそ平氏を自称していた織田信長も天皇から征夷大将軍に推任されていますから。

 

 

-徳川家康

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