美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

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家康(竹千代)の誕生後に父・広忠と母が離縁尚6歳〜19歳まで人質生活

投稿日:2022年7月29日 更新日:

 家康といえば天下を取った「たぬき親父」という印象の方が多いことでしょう?

 

 

家康のことは知ってるようで知らない、江戸城を築いたり名古屋城は家康の子徳川義直(九男)のために建てたことは知ってる。

 

 

竹千代時代に今川義元の人質になって、その後、織田信長と組んで活躍をした。

 

 

その後、秀吉の家臣になって関ヶ原の戦いで西軍と戦い勝利して、大阪の陣を二度起こし豊臣を滅亡させて天下をおさめた。

 

 

 

竹千代の生誕を知ろう

天文11年(1542年)12月26日に父・第八代・松平広忠(17歳)、母は尾張国知多郡の豪族・水野忠政の娘・於大の方(15歳)のもとに三河に生まれる、幼名:竹千代。(一説には青山正信の娘で忠政の養女であったという説あり)。

 

 

今川義元と直接戦ってなくて人質になたのには理由がある。

今川義元が絶頂の頃で、当時は戦国時代の真最中で、父・松平広忠が三河国を支配してたが、東の今川義元、西の織田信秀に挟まれ、三河領国は、どちらに占領されてもおかしくない現状にあった。

               ▲イメージ

 

 

松平氏は、三河国加茂郡松平郷を本拠とする一族で、戦国時代には、庶流が加茂郡のほか碧海郡・額田郡・幡豆郡といった西三河四郡に広がっていた。

 

 

こうした松平一族の庶流を総称して、俗に「十八松平」といった。

家康が生まれた松平氏も、もとはといえば、松平氏の庶流に過ぎない。

 

 

しかし、家康の祖父・第七代・松平清康の頃には、ほかの松平氏一族を結集し、尾張で成長を遂げていた織田信秀をも圧倒する程の権威を誇っていたのである。

※上記の第七代・松平清康をクリックしてもらうと初代から家康までの系図があります。興味ある方はご覧になってください。

 

 

しかし、その清康が天文4年(1535年)、織田信秀の支城・守山城を攻略するべき尾張に出兵した折、陣中で家臣に暗殺されてしまう。

 

 

守山崩れと呼ばれるこの一件の原因は明らかではないが、織田方からの調略などが在ったかも知れない。

 

 

この直後、家康の父・広忠が跡を継いだものの、清康に従ってきた松平一族の離反も相次ぎ、苦境に立たされるようになっていく。

      ▲今川義元(イメージ)

 

 

そうしたなか、広忠は、駿河の今川義元に支援を要請したのである。

家康が誕生した時、広忠は今川氏の庇護を受ける事で、なんとか領国を維持できるという状態であった。

 

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幼くして母・於大の方との別離

母の実家・水野氏が織田氏に付く。

こうした広忠の苦境は、夫婦関係にも大きな影響を及ぼしていくことになる。

 

 

広忠の正室・於大の方の実家にあたる尾張国知多郡の豪族(のちの刈谷城主:天文2年(1533年)水野忠政が築城)の水野忠政が、松平氏から距離を置き、尾張の織田氏に付く動きをみせるようになったからである。

 

 

於大の方の父・水野忠政は、織田信秀による西三河侵攻に協力しつつ、広忠に娘を嫁がせるという政略結婚で松平氏とも同盟を結び、所領を守ろうとしていた。

 

 

その為、清康の死後も、広忠を支援していたのである。
母が実家に送り返される事件が起きた。

 

 

ところが、家康が生まれた翌年の天文12年(1543年)、その忠政が没した後を水野信元が跡を継ぐと、早くも織田信秀に従うという旗幟を鮮明にしたのである。

 

 

今川氏の庇護を受けている広忠としては、水野氏が織田氏に付いた以上、正室として留めておくワケにはいかないと判断したのであろう。

結局、広忠は於大の方を離別し、実家に送り返す事にしたのである。

 

 

 

1歳半で母と離別した家康

こうして家康は、3歳にして実母と離れなければならなくなってしまった。

 

 

ちなみに、3歳といっても数え年であり、実質的には1歳半である。

家康は物心がつく前に、実母と生き別れになってしまったという事になる。 於大の方は、このあと尾張・阿久居城(阿久比城)の久松俊勝に再婚する事になった。

 

 

於大の方久松俊勝との間に生まれた康元・康俊・定勝の兄弟は、家康の異父弟という事になり、後には松平姓を賜り、大名に取り立てられている。

 

 

この辺が家康の血縁関係を大事にした武将だろうと記者は思う。

 

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ゴタゴタの中松平広忠は生きる

広忠は歳も若く、また、松平一族のゴタゴタ続きで、西三河の家臣たちには織田方になびく者もあり波乱万丈の松平広忠だった。

 

 

天文10年(1547年)織田信秀信長の父・岩村城のおつやの方の兄が大軍を岡崎に送って総攻撃のみせると、広忠は義元に援軍を求めたため、義元は代わりに人質を要求して、六歳だった竹千代を駿府に送った。

この時点から竹千代の人質生活が始まる。

 

       ▲竹千代の石像

 

 

竹千代護送役の田原城主・戸田宗光は、今川に背くことなく忠誠を誓っていた武将であったが、戸田宗光は、駿府に送るどころか竹千代を奪い取り、銭千貫文で織田信秀に売り飛ばしてしまった。

 

 

「三河物語」では永楽銭千貫文、「松平記」では百貫文とある。
竹千代を買った織田信秀側は、再三広忠を脅すが要求に応ずるどころが「息子を殺さんと欲せば即ち殺せ、吾一子の故を以て信を隣国に失はんや」と。

 

 

織田信秀はこれを聞いて「広忠良将なり」と感歎したという。

こうして竹千代は名古屋の織田家の菩提寺・万松寺に預けられ、この寺で2年間余り織田家の人質生活を送った。

 

 

竹千代はその後、今川家の人質から脱して織田信長と同盟するが、この時点で織田信長と面識があった。

 

 

一方、竹千代を奪われた今川義元は激怒し、天文16年(1547年)8月末から田原城を攻撃9月5日に戸田宗光を攻め落とした。

 

 

この戦で活躍したのが、今川家の軍師・臨済寺の住職・雪斎(現・静岡市葵区大岩)であった。

 

 

滅亡した田原城には、今川義元の家臣・伊藤祐時が入った。
さらに織田勢を攻めまくり一進一退の後、やがて織田勢は崩れて西三河を退散した。

 

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父・松平広忠の死目に会えず

松平広忠は大永6年(1526年)に、竹千代の祖父・松平清康の嫡男として誕生。

 

 

天文14年(1545年)岩松八弥により傷害事件が起こるも、同年「安城畷」において織田軍と合戦して勝利。

 

 

同16年(1547年)9月、渡理川原では信孝(祖父・松平清康の弟)と戦い、本多忠高の功績により破る。

 

 

同年、織田信秀による三河進功では、今川氏へ加勢を乞うも人質要求のため嫡男・竹千代をおくる。

 

 

天文17年(1548年)3月19日「駿州」小豆坂において織田軍と対陣したが、今川家から2万の援軍を送られ大勝、4月Ⅰ日には松平権兵衛重弘兄弟の山中城を落とした。

 

 

同年三州胄山にて信孝と対陣。

菅生川原で信孝が流矢で戦死すると残兵は敗北した。
翌18年(1549年)2月20日再び織田軍と対陣、勝利を得て織田信広(信長の兄、ただし、庶子)を捕虜とした。

 

 

これで和して竹千代と交換できると思った矢先、天文18年(1549年)3月6日に若干24歳で死去。

暗殺といわれるが真相は不明である。

 

 

竹千代8歳の時で、織田信秀の人質であったため父親の死に目に会うことが出来なかった。

 

 

今川義元が臨済寺の雪斎らを再び派遣した。

信秀の息子・信広と竹千代の人質交換が成立したのは、竹千代にとっては父の死から8ヶ月後の天文18年(1549年)11月8日であった。

 

 

8歳になった竹千代は、岡崎城主のまま義元の人質として駿府に送られ竹千代が自分の岡崎城に戻ったのは、それから11年後の永禄3年(1560年)5月、信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ったのを機会に、竹千代が岡崎城へ帰還した。

 

 

長きに渡り人質生活からやっと抜け出したのは19歳であった。
それ以後の竹千代は名前を家康と改名し自立した戦国大名として大きく飛躍する。

 

 

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