美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

徳川家康

家康は上杉征伐の途中小山評定で各大名に東軍か西軍どちらに着くかを確かめた

投稿日:2023年9月9日 更新日:

   徳川家康は7月24日、上杉景勝を討伐するために会津に向かっていた途上、下野国小山に本陣を置いた。

 

 

その時、石田三成挙兵の報せが入り、翌25日、急遽 家康は本陣に諸将を招集して軍議を開き、家康は「このまま上杉を討つべきか、反転して石田を討つべきか」を約200人の大名や武将達に対して質し、東軍につくか?西軍につくか?の選択を迫ったのが『小山評定』です。

 

 

 

結束した東軍、西軍につくと言った田丸直昌

家康に従う諸将のほとんどは豊臣家譜代の武将で、大阪に妻子を残して来ており、その去就が家康にとっては興亡の境目だったのです。

 

 

小山評定に参加した武将は約200人だったとされていますが、主だって、その中で発言したのは28人家康に味方した武将は27人徳川家康しかり・家康の次男・結城秀康・家康の三男で将軍の秀忠父子をはじめ本多正信・本多忠勝・井伊直政ら徳川家臣たち、福島正則・黒田長政・浅野幸長・細川忠興・加藤嘉明・蜂須賀至時・山内一豊・田丸直政らが集まったとも言います。

 

 

このとき、尾張国清洲主・福島正則が命を投げ出すことを誓い、続いて遠江国掛川城主・山内一豊「家康殿に城を明け渡してまでもお味方します」と進言した。

 

 

この一豊の建議が多くの諸将の気持ちを動かし家康支持で固まった。

家康は、特にこのときの一豊の建議「古来より最大の功名なり」と激賞しました。

 

 

こうして、家康率いる東軍は、石田三成討伐するための西上することに決めました。

 

 

この時、田丸直政「西軍の勝ちはござるまいが、太閤殿下へのご恩もあれば、内府殿にはお味方出来ず」といって西軍へ味方する旨を言った。

 

 

これに対して家康「お前は義理堅い男だ」と関心した。

これぞ「義」を貫く男の中の男、生き方は下手だけど、これぞ、美濃国岩村城主、田丸直政小山評定で他・真田氏は西軍へ走った。

 

 

それを言ったとたん周りが全て敵となり、生きて帰れないかもしれない、それでも義を貫く誠実に関心し、家康は快く送り出した

 

 

 

田丸直政は美濃国・岩村城主

田丸直政は、戦国時代から安土桃山時代、江戸時代にかけての武将です。
名門・伊勢国司北畠氏の血を引いている。

        ▲田丸直昌の歴史本

 

 

父・田丸具忠の隠居に伴って家督を継承したが、織田信長の伊勢侵攻により田丸城を明け渡して信長に仕えた。

 

 

天正2年(1574年)7月には、織田信雄配下の武者大将として水軍を率いて第三次伊勢長島攻めに参戦している。

 

 

本能寺の変後も引き続き信長の子・信雄に属したが、やがて織田家の権力抗争で織田信雄羽柴秀吉が対立し始めると秀吉に近付き小牧・長久手の戦いには羽柴方として従軍している。

 

 

戦後、蒲生氏郷※1の妹婿であることから、蒲生氏の与力大名にに取り立てられた。

※1.蒲生氏郷(がもううじさと)とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め近江日野城主、次に伊勢松坂城主、最後に陸奥黒川城主。

蒲生賢秀の3男(嫡男)。初名は賦秀、または教秀。キリシタン大名で洗礼名はレオンまたはレオン。子に蒲生秀行。

織田信長に人質ながらも寵愛され、信長の娘・冬姫を娶るが、信長の死後には各地で功績を挙げ、秀吉から重要された。

最終的には会津藩92万石となり黒川城を与えられ、改築して若松城と名を改め、会津藩の基礎を築いた。

また、千利休の弟子であり、利休七哲にも数えられる一流の茶人であった。

 

 

 

蒲生氏郷が会津に転封になると、田丸直政須賀川城主として3万石を与えられ、同じく与力大名で氏郷の妹婿である関一政と共に、蒲生氏を支える柱となった。

 

 

氏郷の死後は、子・蒲生秀行に従ったが、秀行が会津から宇都宮に減転封されると、秀吉に仕え信濃国川中島の海津城主に封ぜられた。

 

 

慶長5年(1600年)2月、徳川家康の命で森忠政と交換人事が行われ、美濃国岩村城4万石に移った。

 

 

そして、上杉討伐に参戦して、小山会議で、加藤清正や福島正則をはじめいわゆる「秀吉小飼伊」の諸将さえも東軍に味方することになった。

 

 

しかし、ただ一人直昌は秀吉から受けた恩顧を思って西軍に付く事を決意した。

 

 

 

東濃の戦い

慶長5年(1600年)7月25日、下野国の小山において、田丸直昌家康に、さすが北畠ぼ流れの武将と褒められた帰国を許された。

 

 

田丸直昌は喜び、7月26日に小山を出発し木曽路を経て譜代の家臣・棚橋五介を先駆として岩村城に入り、城代の田丸主水に西軍に味方する事を下知した。

 

 

 

また、郡上八幡城主・稲葉貞通とお互い策を練り、当時、尾張犬山城主と木曽代官を兼務していた石川貞清を援けて家康の西上を阻止しようとした。

 

 

石川貞清は、家臣の原孫右衛門と原藤左衛門の兄弟を出して贄川の砦を守らせた。

 

 

当時、木曽と東濃を支配していた諸大名は全て西軍に付いたため、家康は木曽氏を改易した後に浪人となってた山村良勝・千村良重・馬場昌次らを召し出して、さらに東濃の国衆で森長可に領地を奪われていた遠山友政・遠山利景・小里光親・妻木頼忠らに、故郷に戻り兵を挙げて城を奪還するように命じた。

※上記の兵を挙げて城を奪還をクリックすると東濃の戦いの記事があります。興味ある方はクリックして読んでください。

 

 

そして、家康率いる東軍は東海道を、家康の三男・徳川秀忠率いる軍は中山道を進軍して関ヶ原に向かった。

 

 

贄川の砦の突破

山村良勝※2と千村良重は、下野国小山で東軍に加わり中山道を先導する時には、数十人に過ぎなかったので、木曽義利が改易された後に甲斐と信濃に潜んでいた木曽氏の遺臣に檄を飛ばして東軍に加わるよう呼びかけた。

※2.山村良勝とは、当初は木曽氏、後に徳川の家臣、信濃国妻籠城主。山村甚兵衛の初代。妻籠城の戦いで徳川方と戦って撃退、秀吉と家康の講和により木曽氏は家康の傘下に入る、天正18年(1590年)、家康の関東移封に伴い、下総国の網戸に移ることになり、山村氏・千村氏ら木曽氏の家臣も移住した。

徳川家康は、関ヶ原の戦いに先立って、浪人となっていた山村良勝・千村良重・馬場昌次を召し出して、木曾氏の旧領地を与えることを示したうえで、木曽谷を西軍の石川貞清から奪還するように命じた。

慶長5年(1600年)山村良勝・千村良重・馬場昌次は小山評定に参加し東軍に加わり、中山道の先導役を務めることとなった。

 

 

塩尻にて松本城主・石川康長の許にあった山村良勝の弟・山村八郎右衛門が加わり、甲斐の浅野長政の許にいた良勝の弟・山村清兵衛が馳せつけた。

 

 

8月12日に犬山城主で木曽の太閤蔵入地の代官も兼務していた石川貞清の家臣となって贄川の砦を守っていた木曽氏旧臣の山村次郎右衛門・原図書助・三尾将監長次が内応したので、山村良勝と千村良重の軍勢はほとんど抵抗を受けることなしに贄川の砦を突破し、木曽谷を平定して妻籠城に入り、城を修築して陣を備えて美濃へ進軍した。

 

 

 

苗木城の奪還

当時、美濃苗木城の城主は河尻直次であったが、河尻は先に家康が東征の際に大坂城の警護を命ぜられ西軍に属し、大和口の守備に任にあたっていたため、苗木城は城代の関盛祥(治兵衛)が籠もって東軍に抵抗しようとした。

 

 

本来の苗木城主遠山友政は、家康の部将・菅沼定利のもとで食客に甘んじていたが、小山で家康に軍費ならびに鉄砲・弾薬などの軍需品を給されて、8月末に山村良勝、千村良重、小笠原靱負、今泉五助らと共に苗木領に入った。

 

 

従う者は奥田次郎右衛門、遠山次郎左衛門、伊藤五郎左衛門、井口善右衛門、井口與三左衛門、保母清右衛門、小倉猪右衛門などである。

 

 

次いで陶山茂左衛門、棚橋八兵衛、纐纈藤左衛門、伊藤太兵衛らが付属した。

 

 

やがて中津川村や駒場村に放火し、また苗木付近の農民数百人を諭して味方にして真地平に陣を置き苗木城に迫った。

 

 

関盛祥(治兵衛)は家臣の大塚将監、犬飼半左衛門、乗竹八右衛門らと共に苗木城を出て去った。これにより遠山友政は風吹門より入城し苗木城を奪還した。

 

 

妻木氏の奮戦

慶長3年(1598年)4月、妻木頼忠は子の治兵衛を、尾張犬山城主の石川貞清のもとへ訪ねさせた。

 

 

石川貞清は山海の佳肴をもってもてなした。
治兵衛は快談し、時を辞して帰った。その後も度々訪問するなどの親しい間柄であった。

 

 

慶長5年(1600年)8月初旬、石川貞清は妻木家に密書を送り、石田三成に味方するように勧めた。

 

 

しかし妻木治兵衛から「妻木家は家康殿の御恩にあずかっているので、誠に残念であるが御味方できません」と返書が届いた。

 

 

石川貞清は妻木を味方にしようと思ったが、案に相違したと残念がったという。

 

 

家康は、妻木城が東濃における唯一の味方の城として重要な位置にあることを知り、三河岩崎城主の丹羽氏次と林与六郎の両人に、人足600人を妻木城に遣わし城の修理のために普請を行わせた。

 

 

妻木頼忠は、弟の吉左衛門を関東の徳川家康のもとに遣わして東濃の形勢を報告するとともに、あくまで味方することを伝え、子の水主を人質として送った。

 

 

また度々書状を交わし、上方の情報収集など諜報活動を行ったので家康は大いに喜んだ(関ヶ原合戦前後の徳川家康文書も参照)。

 

 

当時岩村城代であった田丸主水は岩村近辺の庄屋を集め、自分に味方すれば知行を増やすと誘い300石、500石の墨付を与えた上で人質を取った。

 

 

しかし岩村城だけで兵士を出すのは不便と思い、土岐、高山の両方に砦を築き、これにより東軍を追い払おうとした。

 

 

これを聞いた妻木頼忠は、高山村・浅野村・大富村・久尻村あたりの百姓たちに「今度、田丸方に味方するならば、家康から討手が差し向けられるのは必定である。

 

 

またこちらに付けば、田丸方から人質を取りに来るであろう。
早速、注進せよ。

 

 

その時には当方から討手を差し向けるから」と触れさせた(妻木戦記・老人物語)。

 

 

間もなく、曽木村より田丸の臣が来たと注進があった。

慶長5年(1600年)8月12日、妻木頼忠は、山神(日東)久右衛門惟定、土本角右衛門兄弟を召し出して曽木村へ出陣させた。

 

 

山神らは田丸勢と戦い、山神惟定の太刀先鋭く、敵を手負いさせ2騎の首を討ち取った。

 

 

そこで惟定は帰陣して戦勝を妻木頼重に報告して賞された。
それから8日ほどして、田丸勢が柿野村に侵入したと注進があった。

 

 

那須作蔵と中垣助右衛門を大将として派遣し、これを討たせ、妻木勢は町家に火をかけて戦いを挑んだところ、田丸勢は後ろの山に駆け上がり鉄砲を撃った。

 

 

那須作蔵は槍を持って敵陣に馳せ入り多くの敵を討ち取ったが、中垣助右衛門の道具持ちが1人討たれた。

 

 

この時に山神(日東)が横から鉄砲を射ち掛けたから、田丸勢は不意を突かれて逃げ去った(妻木戦記)。

 

 

妻木頼忠は、兵40人に鉄砲を持たせて加藤を総大将として土岐口の追沢砦山に陣を取った。

 

 

田丸勢は土岐口に押し入り人質を取りに来たが、砦山の様子を見て逃げ帰った。

 

 

砦の近くに妻木城があった。

妻木頼忠は兵を遣わして放火して状況を見るに両方の砦から田丸勢の兵は出て来なかったため兵を率いて丹羽氏信からの援兵100余人を合わせて、土岐・高山の両方の砦に対して塁を築き、家康に対し形勢を報じる書を送った。

 

 

8月12日に田丸主水の家臣の寺本吉左衛門、林與次衛門等は兵300人をもって高山砦から出て、池田村・多治見村を進んで妻木勢が滞まっている場所へ放火しようとした。

 

 

妻木頼忠はこの諜報を得て自ら唐沢へ陣して父の妻木貞徳の兵と共にこれを襲って勝利した。

 

 

8月20日には土岐郡の柿野の戦いにおいても勝利した。
9月1日には妻木貞徳・頼忠の親子は唐沢から高山砦に迫り火を民家に放って戦った。

 

 

9月3日に田丸方の高山砦は自焼したので、煙に紛れて土岐砦にも入り制圧した。妻木勢は寺河戸村に砦してこれに対した。

 

 

 

土岐口畷の戦い

妻木領の池田村と長瀬村に、田丸勢の雑兵300人が人質を取りに来たという注進があった。

 

 

そこで妻木貞徳・頼忠の親子は兵を召し連れて立石に出陣して待ち構えていたところ田丸勢は人質を連れて土岐口街道を帰って来るところであった。

 

 

妻木勢は引地と沓掛の向かいの山から鉄砲を撃ち掛けた。

田丸勢は土岐口町屋入口の川を渡った所で、撃たれ人質を棄てて高山砦の方向へ逃走した。

 

 

妻木勢はこれに追い撃ちを掛けたので田丸勢は二三人も倒された(妻木戦記)。

 

 

妻木城の防戦

田丸方では軍議を重ねた結果、妻木城の攻撃をすることとした。

前陣は寺沢吉右衛門でその兵は300余人で山口・坂井・佐久間・森川・滝口・原・犬塚・沢井などの勇士を従えて進軍して来た。

 

 

後陣は木原清左衛門保氏でその兵は500余人で松江・船沢・鷹田・荒川・三浦・野崎・恵那・渡辺らを従えて出陣した。

 

 

妻木方では、かねて田丸方が忍者を送り込んでいるから、9月中頃に討手が差し向けられると注進があったが、妻木頼忠は少しも驚かず、かねて覚悟していたところで、まず用心しなければならないと大将を集め軍議をこらし配置を定めた。

 

 

陣ヶ根の後ろには妻木内蔵助を大将として、林・鈴木・永井・松原ら100人を伏勢とした。

 

 

山神・清水の両口には、妻木頼忠が自ら指揮して田島又之助を召し連れて、柴田郡右衛門・八代半助・中島太仲・肥田・可児隼人の勇士ら280余人で、山神・清水の両口の小高い山に陣を敷いた。

 

 

大滝洞の水源地には、譜代の妻木三太夫ら24人にて水を堰き止めさせて、田丸勢が妻木城に近寄る時は、一度に堰を切って皆殺しにしようという策である。

 

 

妻木城には遠山吉右衛門・毛利一角の両人を城代として、馬渕・竹中・多治見など100余人で四方の木戸を守り、四方の櫓に弓と鉄砲を備えて、寸時も油断なく守っていた。

 

 

明知城の奪還

遠山利景は家康より命を受けて小山より江戸へ行き、長男の遠山方景、串原遠山氏から養子とした遠山経景と共に明知へ帰り、8月下旬に小里光親と共に明知城を奪還するべく攻めた。

 

 

城兵の山川左之助、原土佐らは防戦しきれず9月2日に敗北した。
遠山利景は敵の首級13を得た。

 

 

十三河原の戦いと小里城の奪還

小里光親等の東軍が、西軍の城となっていた鶴ヶ城を攻めた際には、土岐川の「十三河原」が戦場となり、小里一族の和田太郎左衛門ら多くの者が戦死した。

 

 

瑞浪市土岐町には、その供養のための五輪塔が残っている。
鶴ヶ城は戦後に廃城となった。

9月3日には小里光親が小里城を奪還し入城した。

 

 

 

岩村城の奪還

妻木頼忠は田丸の出勢を土岐砦に抑え込み東軍は頗る優勢であった。

そして諸将は共に岩村城に迫り包囲した。

※上記の岩村城に迫り包囲をクリックすると詳しい記事があります。興味ある方は読んでください。

 

 

遠山友政は山村良勝・千村良重・馬場昌次らの木曾衆と共に500騎で富田村の入り口に陣を置き、遠山利景は小里光親と共に300余騎をもって南口より岩村城の面に陣を置き、妻木家頼も陣を敷いた。

 

 

小笠原靱負は上村口の後詰めをなした。

この時に関ケ原の戦いが行われ西軍が敗れたことが伝わった。

 

 

遠山友政は、次山次郎兵衛を岩村城中に遣わし田丸主水に開城を促した。
田丸主水は暫く猶予を乞い、その後使者を通じて「開城のことは承諾した。

 

 

されど城将親しく攻将に会見しよう遠門まで來駕を乞う」と、それで遠山友政の家臣の纐纈藤左衛門が黒糸の鎧に二尺八寸の太刀を佩いて田丸直昌に面接した。

 

 

田丸主水は髻を断ち家老の石部下記を召し連れ出て来て悄然として言うには「開城のことは仔細なし、是より高野山に赴かんにも、その料足りなければ給せられたい。

 

 

且また白昼に城を出るは敗将と雖もあまりに面目無きことである。
暮れ方になってから出発しよう。

 

 

ここより西濃への無案内を一人添えられたい」と、纐纈藤左衛門はこれを承諾して袂を別った。

 

 

これより田丸主水は岩村城内で開城の準備を進め、人質小屋を開いて解放し、その間に田丸氏の家臣たちは退散した。

 

 

やがて薄暮になって田丸主水は旅装を整え家老を召して郎党の足軽に長刀一振を持たせて岩村城を出た。

 

 

遠山友政は、纐纈藤左衛門を介して黄金50両を贈った。
田丸主水はそれに感謝して家伝の長刀を渡し、夜間に立ち去った。

 

 

-徳川家康

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