美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

小早川秀秋 徳川家康

小早川秀秋は関ヶ原の戦いでなぜ東軍(家康)に寝返ったのか

投稿日:2023年7月15日 更新日:

 小牧・長久手の戦い後、豊臣政権の中、秀吉が後継者の秀頼が幼いため政務が出来ない事を心配して五大老・五奉行を置いた。

 

 

 

五大老とは、徳川家康・毛利輝元・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝、五奉行とは、浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以。

 

 

その五大老の筆頭だった家康が、五大老の一人の前田利家が亡くなってから家康が中心になり我がもの顔で政務を取り仕切るようになった。

 

 

この状況を快く思わない五奉行の一人の石田三成大谷吉継や五奉行の増田長盛・長束正家・前田玄以らを巻き込み反 家康派を形成し、意を決して毛利輝元を総大将にして家康に対して挙兵します。

 

 

これに対して家康は、家康に味方する東軍を集め各地で戦いが勃発する。

※上記の各地で戦いをクリックして頂くと、東濃地方で関ヶ原の前哨戦の戦いが行われた記事があります。興味ある方は読んでください。

 

 

こうして関ヶ原の戦いが、慶長5年(1600年)9月15日におこなわれた。
負ければ死、勝てば武士の棟梁となる戦いであった。

 

 

石田三成率いる西軍約80,000人、徳川家康率いる東軍約70,000人が関ヶ原で対峙して戦った。

 

 

毛利家の小笠原秀秋が東軍に寝返って東軍が勝ったという話を、裏切ったのは小早川秀秋だけではなかったが、なぜか小早川秀秋が取り沙汰されています。

 

 

この時、西軍の総大将は毛利輝政と小早川秀政とは、血は繋がっていませんが、親戚同士です。

 

 

 

小早川秀秋という人間

小早川秀秋は、一般的に言われるのが西軍から東軍に土壇場で裏切った人物で有名ですが、21歳の若さで亡くなっています。

なぜ裏切ったのか真実は分かりません。

       ▲小早川秀秋

 

小早川秀秋は、天正10年(1582年)織田信長が本能寺の変の年に生まれています。

 

 

父は木下家定といって、北政所の兄です。

3歳の時、実子のいない秀吉とねね(北政所)の養子として引き取られ、ねねの元で成長していき、元服して羽柴秀俊を名乗り、わずか6歳の時、諸大名からの起請文※1を受け取ったり、秀吉の代理として天皇への誓いを受け取ったり、公的な場での活動が認められています。

※1.起請文(きしょうもん)とは、神仏に呼びかけて、もし己の言い偽りならば、神仏の罰を受けることを誓約し、また相手に表明する文章です。

多くの武将間で用いられ、鎌倉中期以降は、諸社の発行する牛王宝印(一種の護符)の裏面を用いて書くのが通例となりました。

※この文章は熊野三山より発行された牛王宝印の裏面に書かれています。

 

 

秀秋は幼少の頃より秀吉に厚遇されて、育っていって後継者候補の一人として扱われていたことが伺われてます。

この時までは人が羨むような立場にありました。

 

 

もう一人の養子・秀次

永禄11年(1568年)、秀吉の同母姉・とも(瑞竜院日秀)と弥助(後の三好吉房)夫婦の長男として尾張国知多郡大高村で誕生、幼名は治兵衛。

 

 

秀吉は秀吉で豊臣家を思っていたことでしょう。

その名は、豊臣秀次(1568年)生まれですので、秀秋よりも14歳年上です。

       ▲豊臣秀次

 

こちらは候補ではなく実際の後継者となり、秀吉から関白という朝廷における高い地位をも引き継いでいます

 

 

この時代何があるかわからないので、秀次に何かあったら秀秋が豊臣家を継げるようと思っていたに違いありません。

豊臣政権を考えてのことです。

 

 

だけど、秀吉と淀の間に秀頼が生まれると、いろいろあったろうが、なぜか秀次は強制的に出家させられ高野山青巌寺に蟄居切腹させられました。

 

 

 

西軍を裏切った小早川秀秋

実子がなく木下家定※2の五男で、豊臣秀吉の養子になっていた羽柴秀秋(小早川秀秋)を養子として迎え家督を譲られたのが小早川秀秋である。

※2.木下家定とは、木下藤吉郎の弟でないが備中国足守藩・初代藩主。足守木下家初代。天文12年(1543年)杉原定利(道松)の長男として生まれた。

父は婿養子で、その妻である朝比殿(杉原家利の娘)の尾張国朝日村(現・清須市)にあった実家に住んでいた。

初め杉原孫兵衛を名乗っていたが、妹・おね(北政所)が、木下藤吉郎の妻となったことから、藤吉郎の立身に従って、その家人となり義弟の姓である木下を名乗った。藤吉郎とは血の繋がりはない。

また、通説では、おね(北政所)とやや(長生院)は浅野長勝の養女となっており、浅野長政も義弟にあたる。

従妹にあたる雲照院(おあこ、杉原家次の娘)を正室とするが、先に家女とされる女性との間に歌人・木下長嘯子として知られる長男・木下勝俊をもうけており、その後、正室との間には次男・延俊、五男・木下秀秋(後の小早川秀秋)など、嫡庶※3合わせて八男まであった。

 

※3.嫡庶(ちゃくしょ)とは、正妻からの出生と、正妻以外の女性からの出生。また、その子。正妻の子と妾の子。ちゃくそ。▲

 

 

武将として活動した記録は特に見受けられないが、天正12年(1584年)に家次が亡くなると秀吉の一門衆で筆頭格となった。

 

 

秀秋は秀吉とは血縁ではなく、小早川家とも血縁でなく、あっち行けこっち行けと利用された人生を送った人である。

 

 

 

関ヶ原の戦い

戦いの最中正午過ぎ、突如西軍の一翼を担っていた小早川秀秋軍が裏切り、東軍の藤堂・京極軍と戦っていた大谷吉継軍の横腹目掛けて15,000の大軍が怒涛のように攻撃をしてきた。

 

 

西軍の大谷吉継は、おのれ小早川秀秋血迷ったか、亡き太閤殿下のご恩を忘れたのか!そして、松尾山の小早川秀秋に陣に向かって「秀秋こそ人面獣心なり、3年の間に必ず祟りをみなさん。覚えておれ」と大声で叫んだ。

 

 

その上、本来西軍であった脇坂・朽木・小川・赤座勢までが、東軍に寝返って大谷軍目掛けて攻撃してきた、さすがの猛将揃いの大谷軍も支えきれず、大谷の与力の戸田重政・木下頼継等々が次々と奮戦空しく討ち 取られていった。

 

 

垂井の城主・平岡為広は、突然大谷吉継 の陣中にきて、自分の最期を悟ったのであろうか「大谷殿、お世話になり申した。

 

 

わしは、最期に大谷殿の与力として活躍できてかたじけなく思うぞ」 と馬上より大声で叫んだ。

 

 

吉継は、「わしのような愚将に義のため命を預けていただけたこと、 誠にかたじけなく思うぞ。我こそ、そなたと知友を結べた こと誇りに思うぞ!」と応えた。

 

 

為広は馬上よりおだやかな顔で 「冥土で酒でも飲もうぞと今生の別れでござる。

 

 

来世でまた会おうぞ、では、さらばじゃ」為広の険しい顔に涙が流れていた。

 

 

再度、福島正則軍を目掛けて突進していった。

そして、壮絶にしてあっぱれな最期を遂げたのであった。

 

 

一方、大谷吉継軍は、3,500の手勢で2万以上の敵軍に 攻撃を受けていた。
「もはやこれまで! 五助、介錯をたのむぞ。

 

 

この首を決して敵に捕られることなかれ、そちの手で見つからぬ処に 埋めてくれ」 五助は「殿・殿……う・う・う……」 堪えようとした涙が、無念さで止めどもなく流れ、止めることができなかった。

 

 

そして、吉継は小刀に渾身の力を込めて、腹を十文字に見事に掻き切った。
吉継は、最期に「五助、介錯…」と叫んだ。

 

 

五助は「殿…御免!」 家臣・湯浅五助は吉継の首を討ち落とした。
大谷吉継 享年42歳。

 

 

知将であり有能な猛将の壮絶なる最期であった。 

また、重臣・三浦喜太夫は、主君の遺骸の前で涙を流しながら「無念なり。

 

 

殿、今お供仕る」 「五助! 主君の御首級をご遺言通り決して敵の手に渡す でないぞ、頼んだぞ!」 五助は「命にかけてお守りし、仰せに従います」と応えた。

 

 

また、喜太夫は、「五助、そなたは決して死ぬでないぞ。

生きて殿の供養をしてくれぬか。頼む」 そして五助は、「殿の御首級をご供養を致した後、お供い たします」 喜太夫は「それはならぬ、お主の天命のある限り生きて殿のご供養と殿の功績を後世にお伝えせよ! よいか、わかったな! 五助」 五助「はは、わかりました。

 

 

こうして秀秋の裏切りで、互角の戦いをしていた西軍は総崩れとなった。
戦後この功により、秀秋は備前・美作(現・岡山県)50万石を与えられたが、東軍の諸将からも「裏切り秀秋」とののしられ相手にされなかったが、2年後若干21歳の若さで変死している。

 

 

大谷吉継の恨み文句が聞いたのか。

そういえば、信長が年下の叔母・おつやの方を逆さ磔にした時も同様の恨み節が発せられる。

※上記の逆さ磔をクリックして頂くと、女城主・おつやの方の記事が掲載してあります。興味ある方はご覧になってください。

 

 

-小早川秀秋, 徳川家康

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