美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

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弁慶の伝説よる母・弁吉より生まれ育ち源義経に仕え立ち往生死

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 弁慶といえば義経義経といえば弁慶を連想するぐらい二人三脚イメージばあります。

 

では弁慶はどこで生まれどこで育ったか謎だらけですね。

個人的に義経のことを知ったのが小さいころ、英雄だっった義経の話。

よく歌にある。

 

歌詞の中では、牛若丸弁慶京都の五条大橋で出会って、弁慶1,000本目の太刀を狙って戦って負けて家来になった歌ですね(実際には出会った場所は諸説あるそうです)

         ▲イメージ

 

🎵京の五条の橋の上 大のおとこの弁慶は
長い薙刀ふりあげて 牛若めがけて斬りかかる

牛若丸は飛び退いて 持った扇を投げつけて
来い来い来いと欄干の 上へあがって手を叩く

前やうしろや右左 ここと思えばまたあちら
燕のような早業に 鬼の弁慶あやまった🎵 

 

 

弁慶は実在の人物だった

『吾妻鏡』『平家物語』に弁慶の名前があるので実在にいた人物と確証しますが、詳しくは不明です。

 

 

その説話や伝承は、『義経記』をはじめ室町時代の物語草子、謡曲、幸若舞などに見え、各地の口碑伝説としても伝えられています。

 

 

弁慶がやや具体的に描かれはじめるのは『源平盛衰記』だが、『義経記』になると、その出生から死に至るまでの物語が詳しく記されるようになります。

 

 

弁慶の母親・弁吉についての話

紀伊国(現・和歌山県)に伝わる武蔵坊弁慶の生誕に関する伝説の一つです。

 

 

弁慶の母・弁吉は、紀州田那郡(現・和歌山県田辺市)の郷士である誕象という男に子供がなかったので熊野権現に祈って授けてもらった娘だったが、二十歳になっても結婚相手になかなか恵まれなかった。

 

 

今の時代では、二十歳では若過ぎるという感覚ですが、当時は晩婚だったんで親が焦る気持ちわかります。

             ▲出雲路幸神社(安来市)ネットよ流用

 

そのことを悲しんだ両親は、出雲国の縁結びの神(現・安来市松井町)出雲路幸神社に祈って良縁を得させようと考え、娘・弁吉を出雲国へ旅立さ(熊野根源のお告げとする説があり)

※上記の出雲路幸神社をクリックしていただくと、僕が書いたものではないサイトに飛びます。興味のある方はご覧になってください。

 

 

出雲路幸神社に到着した弁吉は、七日七夜参詣を続け、夢で枕木山の長海村で七年間住むことで願いは叶うとのお告げを得る。

 

 

弁吉は、お告げに従い長海村に住み着き、三年経った頃山伏が来訪、山伏は出雲の神の縁結びにより弁吉の夫となる事に決まったと告げ立ち去った。

 

 

この後、弁吉は身籠り、つわりのため鍬を食べる

※鍬を食べる鍬ってなんだろうと思って調べました。興味のある方は見てください。

 

 

村人の鍬を盗んで食べ続け十本目の時、村の子供に見つかってしまい、半分程食べ残してしまった。

 

 

或いは、十本目の半分を食べた所で、弁慶が出てきたと解釈することもできる。
その後、仁平元年(1151年3月3日)に弁慶が誕生した。

 

 

弁慶の父については、『懐橘談』上(続々群書類従第9所収)の「枕木」の項目では熊野大社別当・弁斎となっているが、「天狗」「山伏」の線が大半です。

 

 

 

母・弁吉が産まれた弁慶は異端児

産まれたばかりの弁慶は長髪に髪は長く、歯も生え揃い、左の肩には「摩利支天」、右の肩には「大天狗」の文字が刻まれ、顔の色は黒く鉄色だった。

 

 

但し、母が鉄を食べ残したからか、喉の四寸四方だけは普通の肌になっていた。

 

 

母・弁吉は自らが鍬を食べて産んだ事と弁慶の様相が普通の赤子とは違う事もあり、自らの手で井戸を掘り水を汲み、それを生湯に使った。

 

 

「弁慶」と言う名前に関して、母の弁吉は弁慶のことを初め「弁太」と名付けた。

 

 

弁慶が子どもの頃、悪戯が過ぎ村人に憎まれた為、母・弁吉は中海にある小島へ弁慶を捨てた。

     ▲弁慶伝説の地(松江市)ネットより流用

 

後にこの小島は弁慶島(野原町)と呼ばれる事になる。
弁慶島に於いて弁慶は父である山伏と出会い、脱出の助言を得、砂を海中に落として海に渡り道を作りようやく脱出した。

※上記の弁慶島をクリックすると、僕のサイトではないページに飛びます。

 

 

修行に行く前、弁太鬼若と改名する。

その後、枕木山にある華蔵寺(けぞうじ)、福原の澄水寺(ちょうすいじ)、出雲の鰐淵寺(がくえんじ)に立ち寄り修行をして母の元へと戻った。

 

 

修行が終わると鬼若弁慶改名した

成長した弁慶はある時、出雲の別所で鍛冶屋をしている叔父薙刀を作ってくれるよう注文

 

 

三年後に出来上がった薙刀は鉄丸も切ることのできるすばらしい切れ味だった。

そこで叔父が注文が有ればいくらでも作ると話した事で、他人にも作られては堪らないと思った弁慶は叔父を切り殺し、出奔しようとした。

 

 

その時折悪く母・弁吉が病気に罹り、際の際(いまわのきわ)に最期近くなった母・弁吉は彼を枕元へ呼び、「菩提を弔おうと思うのなら、紀州国に行き、誕象一門を訪ねよ」

 

 

そして、「武士になるのなら田那部を、また法師になるなら武蔵坊と名乗るように」と遺言してなくなた。

 

 

そこで弁慶は長海神社に参詣し、書状を書き置いて出雲地方を去り京都へ上り、後に源頼朝の弟である牛若丸と運命の出合いをした。

牛若丸はその後義経と改めている

 

 

牛若丸との出会い

鬼若比叡山に入れられるが勉学をせず、乱暴が過ぎて追い出されてしまう。

鬼若は自ら剃髪して武蔵坊弁慶と名乗る。

 

 

その後、四国から播磨国へ行くが、そこでも狼藉を繰り返して、播磨圓教寺の堂塔を炎上させてしまう。

 

 

やがて、弁慶は京で千本の太刀を奪おうと心に誓う。

弁慶は道行く人を襲い、通りかかった帯刀の武者と決闘して999本まで集めたが、あと一本というところで、五条大橋で笛を吹きつつ通りすがる義経と出会う。

 

 

弁慶は義経が腰に佩びた見事な太刀に目を止め、太刀をかけて挑みかかるが、欄干を飛び交う身軽な義経にかなわず、返り討ちに遭った。

弁慶は降参してそれ以来義経の家来となった。

 

 

この決闘は後世の創作で当時五条大橋はまだなく、決闘の場所も『義経記』では五条の大橋ではなく堀川小路から清水観音での出来事とされている。

 

 

また現在の松原通が当時の「五条通り」であり、また旧五条通西洞院に五条天神社が存在し、そこに架かる橋であったとも言われている。

 

 

決闘の場所を五条大橋とするのは、明治の伽噺作家、巖谷小波の書いた『日本昔噺』によるもので、『尋常小学唱歌』の「牛若丸」もこれにしたがっている。

 

 

千本の太刀をあと一本で奪いそこねる話は仏教寓話に同様の話が存在する(アングリマーラを参照)

 

 

義経の忠臣編集その後、弁慶は義経の忠実な家来として活躍し、平家討伐に功名を立てる。

 

 

兄の源頼朝と対立した義経が京を落ちるのに同行。
山伏に姿を変えた苦難の逃避行で、弁慶は智謀と怪力で義経一行を助ける。

 

 

一行は加賀国安宅の関で、富樫介(能の『安宅』では富樫の何某(なにがし)、歌舞伎の『勧進帳』では富樫左衛門。(富樫泰家に比定される)に見咎められる。

 

 

弁慶は偽の勧進帳を読み上げ、疑われた義経を自らの金剛杖で打ち据える。

富樫は弁慶の嘘を見破りながら、その心情を思ってあえて騙された振りをして通し、義経一行は無事に関を越える。

 

 

義経一行は、奥州平泉にたどり着き、藤原秀衡のもとへ身を寄せる。

だが秀衡が死ぬと、子の藤原泰衡は頼朝による再三の圧力に屈し父の遺言を破り、義経主従を衣川館に襲った(衣川の戦い)。

 

 

多数の敵勢を相手に弁慶は、義経を守って堂の入口に立って薙刀を振るって孤軍奮闘するも、雨の様な敵の矢を身体に受けて立ったまま絶命し、その最期は「弁慶の立往生」と後世に語り継がれた。

 

 

なお、義経主従は衣川館では死なず、平泉を脱して蝦夷地<へ、あるいは西国に逃れたとする、いわゆる「義経北行伝」にも、弁慶に関するエピソードは数多く登場する。

ところで弁慶はどこで生まれ、どこで育ったか謎だらけですね。

 

 

 

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