美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

足助城・カタクリの花

頼家の妻は足助町カタクリの花で有名になった飯盛山の城主の娘・辻殿

投稿日:2022年3月29日 更新日:

   2022年3月25日カタクリの花は見た事ないので、香嵐渓で有名な豊田市足助町に行ってきました。

 

 

名古屋から地下鉄で豊田市行きに乗って「浄水」駅で下車、駅前にあるバスターミナルで“おいでんバス”に乗って1時間15分ぐらいで香嵐渓バス停に着きました。

    ▲このおいでんバスに乗りました。

 

天気が良く大勢の観光客がいて賑やかでした。
歩で5分行くと駐車場があり、案内看板があり目の前がカタクリの花が咲いていました。

     ▲駐車場に案内看板があります。

 

 

カタクリの花の群生地の頂上に飯盛山城がある

 鎌倉時代初期、飯盛山標高251m、比高130mに築かれた城跡があるという事で登っていきました。

      ▲カタクリの花の群生

      ▲カタクリの花

 

この城の築城者は初代・足助重長※1、2代足助重秀とも云われ不明ですが、足助氏清和源氏の出で、祖父は清和天皇、父は第六代皇子・貞純親王で、母は右大臣・源能有の娘の次男でのちの源経基の子・源満仲から六代目の重遠が美濃国から尾張国浦野へ移って浦野氏を称した。

     ▲足助重長系図

      ▲頂上にある巨石

 

浦野重遠の子・重直が山田氏を名乗り、山田重直の子が足助ね移住して足助氏を称したと云うようになった。

 

 

正直こんな歴史がある町とは思いませんでした。

まして娘さんが鎌倉幕府2代将軍・頼家の正室になって子・公暁を儲けた。

公暁といえば、3代将軍・実朝暗殺した人物です。

※1.足助重長とは、尾張源氏氏山田氏の一族で、三河国加茂郡足助荘の荘官となり、同地に黍生城を築き居住してとされる。

父祖に続き河内源氏の嫡流の臣従したとも考えられ、源為義の八男・源為朝(鎮西八郎)の娘を娶るなどした。詳しい動向は不明であるが、その最期は平家によって討ち取られたとされ、伝承では治承5年(1181年)墨俣川の戦いに兄たちと共に参戦し戦後捕虜として平家方に拘束された後に殺害されたという。

なお、源為朝の娘との間には嫡子・重秀(重季)のほか、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の室となった娘を儲けており、娘・辻殿公暁の母となっています。

 

 

移住の時期は、治承年間(1176年〜1180年)とも伝えられ、初め黍生城を本城とされているが詳細は不明。長兄の山田重満と共に重長は討ち死にした。

 

 

その後、重秀ー重朝ー重方ー貞親と続き、七代重範は1331年元徳3年4月29日から元弘3年6月5日にかけた「元弘の乱」の際、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を掲げる勢力と、幕府及び北条高時えを当主とする北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内乱に後醍醐天皇の要請に応じて笠置山で奮戦するが、落城の際に捕われ、1332年京都六条河原で斬首された。

 

 

足助重範※2没後も宮方として戦ったが、次第に勢力が弱まり八代重政の時、足助を去ったとされる。

※2.足助重範とは、三河国加茂郡足助荘を拠点とした足助氏の七代目惣領。

父は足助六郎次郎貞親、兄弟は兄に重治、弟に重春。子に九郎重政、二条良基との間に犬山城主・成瀬氏の祖・成瀬基久を産んだとされる娘・滝野らがいる。

 

足助氏は1357年までは足助に在住したとされ、応永34年(1427年)足助氏の居館跡に飯盛山香積寺が建立された。

 

▲香積寺の本堂        ▲香積寺の門

 

 

鈴木氏足助城築く

      ▲飯盛山から東にある足助城(真弓山城)を見る。

 

香嵐渓の脇の山が飯盛山城ですが、小規模であり遺構の形からみると、足助鈴木氏が足助にきた時代より、もっと古い時代の城跡だと考えられます。

 

 

鈴木氏は、戦国時代に西三河山間部に勢力をもっていた一族で、真弓山城足助鈴木氏が築いた城です。

 

 

足助城は標高301m、比高170mの真弓山の山頂を本城として、八桑城(新盛城)、安代城、浅谷城、大沼城、阿須利城、田代城を配し足助七城といった。

 

 

四方に張り出した尾根を利用した蓮郭式の山城、足助の町並みを眼下にみる、足助の地は、東美濃、信濃、尾張及び三河を結ぶ街道が交差する交通の要衝であったと思われます。

 

 

呼び名は、足助城または真弓山城と呼びますが、松山城または足助松山の城とも読んだと云われています。

 

 

この足助城は鎌倉時代に足助氏が居城したという、言い伝え古くから「足助七屋敷(足助七城)の一つといわれていますが、発掘調査では足助氏の時代の遺物は発見されませんでしたので、足助氏は築城してなく、新たに15世紀後期に鈴木忠親が足助城を築城しています。

 

 

足助城は、鈴木忠親ー重政ー重直ー信重ー康重の居城となっていく、大永5年(1525年)松平清康(家康の祖父)が2,000の兵を率いて足助に迫るが、2代重政松平清康の妹を3代重直の室とすることで松平に属した。

 

 

天文4年(1535年)「守山崩れ」で松平清康が亡くなると、松平を離れ妻・久子は岡崎へ送り返す。

 

 

天文23年(1554年)に今川方の城となるも、永禄3年(1560年)織田信長による桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、再び松平元康に従属した。

 

 

元亀2年(1571年)武田信玄が2万3千の兵を率いて、伊奈口から三河へ攻め入って来ると、足助城、周辺諸城は全て落城となり、城代として武田の家臣・下条伊豆守が入る。

 

 

元亀元年(1573年)武田信玄4月12日死去家康の長男・信康足助城を攻略し、鈴木氏が城主に復帰する。

 

 

天正9年(1581年)高天神城の戦いで小原城主・鈴木越中守重愛と共に奮戦。

 

 

この高天神城の戦いで、参戦してた大給松平家の第五代当主・松平真乗が戦死37歳でした。

 

 

その妻は松平を離れ足助城主・鈴木康重と再婚、大給6代当主・家乗6歳、弟真次3歳でしたので真次(のちに真次は徳川秀忠に仕える。)だけ連れて行った。

 

 

 

後に、天正18年(1590年)に5代鈴木康重は徳川家康関東移封に際しては、故あって大給松平に仕えることになり、上野那波から美濃国岩村へと従っている。

※鈴木康重と妻・興正院の記事が、上記の大給松平をクリックすると関連記事があります。興味のある方は読んでください。

 

 

-足助城・カタクリの花

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。